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黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


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第19話 千年観音

天空円形劇場を出てから、二週間が過ぎた。

正確には、二週間しか経っていない。


それなのに澪には、もっと長い時間が流れたように感じられていた。


理由は一つ。


黎の怪我だった。


あの日、病院で処置を受けた黎は、幸いにも命に関わるような傷ではなかった。


右腕の怪我は縫うほどではなかったけれど、脇腹から背中にかけて残った傷は深く、しばらく無理をしないよう医師から言われていた。


本人はというと。


「もう動ける」


の一点張りだった。


「動けるのと、動いていいのは違うでしょう」


「同じようなものだろう」


「全然違う」


あのときも、そう言い返した。


結局、日常生活に戻れる程度には回復したものの、傷が完全に塞がったわけではない。遠出も、まだ無理をすべき時期ではなかった。


それでも黎は、週末の調査に同行すると譲らなかった。


澪も、無理をさせるつもりはない。少しでも具合が悪くなれば、すぐに切り上げる。その約束を取りつけて、ようやく今回の旅を決めたのだった。


思い出して、澪は大学図書館のカウンターで小さく息を吐いた。


昼休み。


窓の外には秋の空が広がっている。


いつもと変わらない大学の日常。


学生たちが行き交い、図書館ではページをめくる音がする。


それなのに、澪の意識の片隅には、いつも黎の姿があった。


倒れたときの身体。

血。

自分の腕の中で薄くなった金色の瞳。


――嫌だ。


あの日、自分は確かにそう思った。

黎を失いたくない。

それが何を意味するのかは、まだ考えないことにしている。


考えてしまうと、今までの二人の関係が変わってしまうような気がした。


そのときだった。


机の上に置いていた祖父のノートが、ふと目に入った。


澪はページをめくる。


中部。

天空円形劇場。


その次に記された地名は――関西。


そして。


《千年観音》


その下に、祖父の字で一行。


《願いを叶え続けるものに、終わりを教えること》


「……願い」


その言葉を見つめていると、スマートフォンが震えた。


黎からだった。


《今週末、行けるか》


澪は少し迷ってから返す。


《傷は?》


すぐに返信が来た。


《問題ない》


《本当に?》


《本当に》


少し考えてから、もう一度送った。


《無理はしないこと》


既読がつく。


返事はなかった。


「……絶対、無理する気だ」


思わず呟いた。


*


土曜日。


澪はいつも通り、自宅から車を走らせた。

最寄り駅の駐車場に車を置き、電車に乗る。

新幹線へ乗り換え、さらに在来線。

目的地に近い駅で降りると、二人でレンタカーを借りた。


「運転する?」


澪が聞くと、黎は首を横に振った。


「今日は頼めるかな?」


「……珍しい」


「怪我人だからな」


「それはちゃんと自覚してるんだ」


「君に怒られたから」


澪は思わず笑った。

それだけの会話なのに、少しだけ安心する。


山道を抜けると、巨大な観音像が見えてきた。

山の斜面に立つ、白い観音。

遠くからでも分かるほど大きい。


周囲にはかつて観光客を集めていた土産物店や宿泊施設の跡が残っている。


駐車場は閉鎖されていた。


「ここも、もう使われてないんだね」


「そうらしい」


黎が空を見上げた。


「……でも、残っている」


「何が?」


「願いだ」


その言葉と同時に、風が止まった。


木々の葉が揺れない。

鳥の声も聞こえない。


静かすぎる。


澪は観音像を見上げた。

白かったはずの像が、少しずつ色を変えている。


夕暮れでもないのに、周囲が薄暗くなっていく。


「黎さん」


「ああ」


「閉域?」


「おそらく」


足元に、淡い光が走った。


古い参道が伸びていく。

現実には崩れているはずの石段が、昔の姿を取り戻していた。


二人はゆっくりと進んだ。


観音像の前には、無数の絵馬が掛けられていた。


家族が元気でありますように。

試験に受かりますように。

病気が治りますように。

好きな人と一緒にいられますように。

店が繁盛しますように。

子どもが幸せになりますように。


願いは、何十年分も積み重なっていた。


「……こんなに」


澪が呟く。


その瞬間。


観音像の口元が、わずかに動いた。


「願いを」


低い声が響いた。


「願いを」


もう一度。


「願いを、どうぞ」


澪の背筋が震えた。


周囲の絵馬が一斉に揺れる。


「叶えます」


声とともに、観音像の目が開いた。

巨大な瞳が、二人を見下ろしている。


けれど、その目に怒りはなかった。


むしろ、疲れている。


澪には、そう見えた。


「……疲れてる?」


黎が澪を見る。


「分かるのか」


「うん」


澪は観音像を見上げた。


「この場所、願いを叶え続けてきたんだと思う」


すると。


絵馬の文字が一斉に浮かび上がった。


願い。


願い。


願い。


無数の声が重なる。


――叶えて。


――助けて。


――幸せにして。


――お願いします。


澪は耳を塞いだ。


「……多すぎる」


願いが、頭の中へ流れ込んでくる。


人の声。

泣き声。

笑い声。

祈り。


それらが全部、観音像の中に積み重なっていた。


「澪!」


黎が肩を抱く。


「読まなくていい」


「でも……」


「全部背負う必要はない」


その言葉に、澪は顔を上げた。


黎の顔には、痛みが浮かんでいる。


「傷、痛いんでしょう」


「少し」


「少しじゃない顔してる」


「君はよく見ているな」


「……見てるよ」


思わず答えていた。


黎が黙る。


澪も、言ってから少し恥ずかしくなった。


けれど。


そのときだった。


観音像の身体に、細い亀裂が走った。


ぴし。


白い表面に、一本。


また一本。


「黎さん」


「まずい」


巨大な像が、わずかに揺れた。


「願いを叶えすぎたんだ」


黎が言う。


「どういうこと?」


「願いには終わりがない」


観音像の亀裂が、さらに広がる。


「誰かの願いを叶えれば、次の願いが来る。それを叶えれば、また次が来る」


「じゃあ……」


「この場所は、願いを終わらせる方法を知らない」


観音像の口が、再び開いた。


「願いを」


声が震えている。


「願いを――」


澪は、その声を聞いた。


それはもう、神々しい声ではなかった。


一人の誰かが助けを求めているような。


そんな声だった。


「……もう、苦しいんだ」


澪が呟いた。


観音像の目から、一筋の光が落ちた。

それは涙のように見えた。


そして、巨大な身体が、大きく傾いた。


地面が揺れる。

山全体が震える。


「澪、離れろ!」


黎が前に出る。


けれど、その身体もふらついた。


「黎さん!」


「大丈夫だ」


「だから、それは禁止!」


澪は黎の腕を掴んだ。

その手の下で、傷が熱を持っているのが分かる。


黎は一瞬だけ目を細めた。


それでも澪の手を振りほどかなかった。


観音像が、静かに言った。


「……もう、叶えられない」


澪は顔を上げた。


そこにあったのは、怪異の恐ろしい顔ではなかった。

何千もの願いを抱えたまま、動けなくなった存在の顔だった。


「だったら」


澪は言った。


「叶えなくていいんじゃない?」


観音像の目が、大きく開いた。


「……え?」


「あなたは、もう十分聞いたんでしょう」


風が吹いた。


無数の絵馬が揺れる。


「たくさんの人の願いを、ずっと受け取ってきたんだよね」


観音像は答えなかった。


その身体に走った亀裂から、淡い光が漏れている。


「誰かを助けたい。幸せになってほしい。そう願うことは、きっと悪いことじゃない。でも、すべての願いを叶え続けなきゃいけないわけじゃないと思う」


澪は観音像を見上げた。


「だったら今度は、あなたの願いを聞かせて」


観音像は答えなかった。


ただ、遠い昔を思い出すように、目を閉じた。


そして澪の視界が、白く染まった。

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