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黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


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18/20

第18話 最後まで見ていて

幕が上がった。


舞台の上には、何もなかった。

椅子もない。

大道具もない。

役者さえいない。


ただ、中央に一本のマイクだけが置かれている。


観客席は、満席だった。

無数の影がこちらを見ている。


顔のない観客たち。

誰一人として声を上げない。


けれど、その視線だけが、舞台へ突き刺さっていた。


「……始まらないね」


澪が呟く。


「始まっている」


黎が答えた。


「え?」


「待っているんだ」


その瞬間、舞台の中央に一人の少女が現れた。

昨日、澪が残響の中で見た少女だった。


少女はマイクの前に立つ。

けれど、何も話さない。

何度も口を開こうとして、そのたびに閉じる。


観客は黙っている。


やがて少女は、俯いた。


「……怖い」


その声が聞こえた。


「誰も、見てくれないのが怖い」


澪の胸が痛んだ。

それは、星見ヶ丘遊園で聞いた声にも似ていた。


誰かに見てほしい。

ここにいたことを、知ってほしい。

何かをしたことを、無かったことにしないでほしい。


その気持ちが、何十年もこの場所に残っている。


「澪」


黎が呼んだ。


「うん」


「ここは危ない」


「分かってる」


「なら、戻れ」


「……嫌」


黎が振り返った。


澪は舞台から目を離さなかった。


「この子、ずっと待ってる」


「それは残響だ」


「分かってる」


「なら――」


「だから、最後まで見る」


澪はもう一度言った。


「誰にも見てもらえなかったなら、私が見る」


少女が顔を上げた。


初めて、その目が澪を捉えた。


「……本当に?」


「うん」


「最後まで?」


「最後まで」


少女が笑った。


その瞬間。


拍手が起きた。


一人。


二人。


十人。


百人。


劇場全体が揺れるほどの拍手だった。


「……違う」


黎が低く言った。


「これは――」


拍手が大きくなる。


大きく。


大きく。


音が地面を震わせ、空気を震わせる。

観客席の影が、一斉に立ち上がった。


そして。


舞台監督が現れた。


「素晴らしい」


男は笑っていた。


「ようやく、観客が来た」


澪は男を見た。


「あなたが、この場所に残った残響なの?」


「私は舞台を守る者」


「どうして、こんなことを続けているの?」


「公演が終わっていないからです」


「でも、もう劇場は閉鎖されてる」


「だからです」


舞台監督は両手を広げた。


「終わってしまったからこそ、終われない」


その言葉と同時に、劇場の景色が変わった。


古い観光施設だった頃の姿。


満員の観客。

明るい照明。

売店。

笑い声。

音楽。

拍手。


夢だった時代の姿が、目の前に蘇る。

けれど、そのすべての中心に、一つだけ、欠けているものがあった。


舞台を見ている人。

演者を見つめている人。

最後まで、その場にいる人。


それがいない。


「私たちは、ずっと演じてきた」


舞台監督が言う。


「誰かが見ていると信じて」


男の顔から笑顔が消えた。


「でも、誰も見ていなかった」


澪の胸に、記憶が流れ込んできた。


最後の公演。

客席の人々。

舞台の上の役者。


そして、舞台袖で時計を見る舞台監督。


施設の閉鎖が決まっていた。

これが最後の公演になる。


それでも彼は、舞台を整えた。

照明を確認した。

役者を励ました。

最後の一人が舞台へ出るまで、そこに立っていた。


けれど、公演が終わったとき。


拍手は、ほとんどなかった。

人々は帰り支度をしていた。


誰も、舞台を見ていなかった。


舞台監督は、一人で暗い客席を見つめていた。


――誰か。


――誰か一人でも、見ていてくれたら。


その願いが残った。


そして、時間だけが止まった。


「……あなたは」


澪は舞台監督を見た。


「見てほしかったんだね」


男の顔が歪んだ。


「そうです」


「自分たちが、ここにいたことを」


「……そうです」


「じゃあ、もう終わっていい」


澪は静かに言った。


「私は見たから」


男が目を見開いた。


「舞台に立った人たちも、ここで働いていた人たちも、この場所を作った人たちも」


一歩、舞台へ進む。


「あなたが最後まで舞台を守っていたことも」


男の身体が震えた。

客席の影が、一つずつ薄くなっていく。


「だから、もう大丈夫」


澪がそう言った瞬間だった。


――轟音。


劇場の奥から、巨大な影が噴き出した。

舞台監督の身体から滲み出した黒い影は、男の姿をしていなかった。


それは、舞台監督自身の未練とは異なるものだった。


閉鎖された劇場に積もった、失望や怒り、夢を失った人々の感情。

それらが長い年月の中で絡み合い、一つの塊になっていた。


「澪!」


黎が叫ぶ。


「……こいつは、あの男とは別のものだ」


黎の声には、今までにない緊張があった。


「舞台監督の残響だけを還しても、ここに積もった感情までは消えない」


後悔。

怒り。

失望。

寂しさ。


そして、夢が終わったことへの絶望。


「これは……」


澪は息を呑んだ。


黎が前へ出る。


「俺が止める」


「黎さ――」


「下がれ」


黎が手をかざすと、黒い影の動きが一瞬だけ止まった。


けれど、影は消えなかった。

押し返された部分から、さらに黒い腕がいくつも伸びてくる。


「……厄介だな」


黎の声に、初めて焦りが滲んだ。


「一つの残響じゃない。いくつもの感情が絡み合っている。力ずくで押さえ込めば、その分だけ別の場所から溢れ出す」


黒い影が、再び襲いかかった。

黎はそれを正面から受け止めた。


空気が爆発した、地面が揺れる。

客席の影が吹き飛ぶ。


黎の身体が後ろへ滑った。


「黎さん!」


「大丈夫だ」


立ち上がる。

けれど、右腕から血が流れていた。


「……大丈夫じゃない」


「まだ動ける」


「そういう問題じゃない!」


澪の声が響く。


黎が一瞬、驚いた顔をした。


その隙を、黒い影は逃さなかった。

背後から伸びた腕のようなものが、黎の胸元へ向かう。


「黎さん!」


澪が駆け出した。

けれど、間に合わない。


黎が澪を庇うように身体を捻った。

黒い腕が、その脇腹を貫いた。


「……っ」


音が消えた。黎の身体が大きく揺れる。

そして、そのまま、膝をついた。


「黎さん……?」


返事がない。


「黎さん!」


澪は駆け寄り、倒れかけた身体を抱き止めた。


重い。


いつもなら簡単に立っている男の身体が、今は自分の腕の中で力を失っている。


「黎さん、ねえ」


金色の瞳が、ゆっくりと開く。


「……澪」


「喋らないで」


「怪我は?」


「私のことなんてどうでもいい!」


思わず叫んでいた。


黎が目を瞬く。


澪自身も驚いていた。


胸が苦しい。

手が震える。

怖い。


目の前から、この人がいなくなる。

その想像だけで、息ができなくなる。


「……嫌」


声が漏れた。


「嫌だ」


黎が何か言おうとする。


澪は首を振った。


「もう、誰かを見送るのは嫌」


星見ヶ丘遊園。

ガラスの迎賓館。

これまで出会った残響たち。


彼らは、最後にはそれぞれの場所へ帰っていった。


それが正しいことだと思っていた。


怪異を還すこと。

終われなかったものを、終わらせること。


それが自分たちの役目なのだと。


けれど、黎まで同じように消えてしまったら。


自分は、それを受け入れられるのだろうか。


「……黎さん」


澪は彼の手を握った。


「私、あなたを失いたくない」


言葉にした瞬間、胸の奥で何かが崩れた。


黎はしばらく黙っていた。


やがて。


「……そうか」


小さく笑った。


「なら、まだ終われないな」


「……何、それ」


「君がそう言ったなら」


黎は震える手で、澪の手を握り返した。


「俺も、もう少しここにいる」


その瞬間。

劇場いっぱいに響いていた拍手が、止まった。


舞台監督が、静かに頭を下げる。


「……ありがとうございました」


その身体が光に変わっていく。


舞台も。

客席も。

古い劇場の幻影も。


すべてが少しずつ消えていく。


けれど、劇場の奥には、まだ黒い影が蠢いていた。


黎はそれを睨みつけたまま、澪を背に庇う。


「……まだ終わっていない」


その声を聞きながら、澪は黎の腕を強く握った。


最後に残ったのは、誰もいない舞台だった。


そして、一本のマイクだけ。

それも、静かに消えた。


澪は黎を抱えたまま、しばらく動けなかった。


やがて閉域が解け、現実の山の中へ戻る。

空は夕暮れだった。


澪は黎の傷を確認する。


「……病院」


「必要ない」


「必要ある」


「澪」


「駄目」


自分でも驚くほど強い声だった。


「今回は、私の言うことを聞いて」


黎は少しだけ目を細める。


そして。


「分かった」


素直に答えた。


その返事に、澪はようやく息を吐いた。


けれど。


劇場を離れる直前、澪は舞台のあった場所を振り返った。


そこにはもう、何もない。

ただ、風が吹いているだけだった。


――見てくれて、ありがとう。


そんな声が聞こえた気がした。

澪は小さく頷いた。


けれど、その胸の中には別の言葉が残っていた。


――黎を、失いたくない。


それだけは、まだ、誰にも言えなかった。


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