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黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


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第17話 天空円形劇場

大学の図書館で昼休みを迎えた頃、澪は祖父の記録を開いていた。

古いノートの中には、全国各地の施設名と簡単な覚え書きが並んでいる。


北海道。

東北。

関東。


そして、その次に記されていた文字を見つけたとき、澪は指を止めた。


――《中部・山間部》


その下に、短い一文がある。


《天空円形劇場》


さらに、その下には。


《舞台が終わっても、拍手が止まらない》


「……拍手?」


小さく呟いたときだった。


「次は、劇場か」


向かいの席から声がした。

顔を上げると、いつの間に来たのか、黎が座っていた。


「……いつからいたの?」


「今来た」


「今来た人が、どうして私が読んでいるページを知ってるの」


「見えていたから」


「それを普通は盗み見っていうの」


黎は少しだけ笑った。


以前なら、こういう距離の詰め方に澪は警戒しただろう。

けれど、今ではもう慣れてしまっている。


黎が隣にいることが、少しずつ日常になっていた。


「天空円形劇場って、知ってる?」


「名前だけなら」


「山の中にある、昔の野外劇場。観光施設の一部だったみたい。今は閉鎖されてる」


「そうか」


「祖父の記録だと、ここも残響が強いみたい」


黎はノートを覗き込み、それから一行だけを指でなぞった。


「舞台が終わっても、拍手が止まらない」


「うん」


「なら、誰かがまだ舞台に立っているんだろう」


「……誰もいない劇場なのに?」


「だからこそ、だ」


黎の金色の瞳が、わずかに細くなる。


「誰にも見てもらえなかったものは、終われない」


その言葉に、澪は星見ヶ丘遊園で出会った残響を思い出した。


誰かに見てもらいたかった。

そこにあったものを、忘れないでほしかった。


そしてガラスの迎賓館でも、誰かを待ち続ける記憶に触れた。


「……最近、同じようなものが続いてる気がする」


「何が?」


「誰かに覚えていてほしいとか、見ていてほしいとか」


澪がそう言うと、黎は少し黙った。


「そういうものが、人間には多いからじゃないか」


「黎にも?」


何気なく聞いた。


けれど、黎は答えなかった。

ただ、窓の外を見ていた。


その横顔が妙に遠く感じられて、澪はそれ以上聞けなかった。


*


土曜日。


朝から澪は自宅を出て、最寄り駅まで車を走らせた。

大学に行くときとは違い、休日の駅前は人が多い。


駐車場に車を置き、電車で移動する。

その先で新幹線に乗り換え、さらに在来線へ。


山あいの駅で降りると、予約していたレンタカーを受け取った。


「思ったより遠かったね」


助手席の黎が言う。


「あなたが言う?」


「俺は移動距離を気にしないからな」


「私は気にするの」


澪はハンドルを握ったまま苦笑した。


仕事をしながら全国を回る以上、こうした移動は簡単ではない。

有給を使える日を選び、休日と組み合わせ、翌日の勤務に影響が出ないように帰る。


これまでの旅も、そうやって続けてきた。


それでも。


黎と一緒なら、不思議と行ってみようと思えた。


山道をしばらく進むと、木々の向こうに灰色の建物が見えた。

かつては大勢の観光客を集めていたのだろう。


山の斜面を利用して作られた客席。

その正面に、円形の大きな舞台。


屋根はほとんどなく、空がそのまま天井になっている。


「……天空円形劇場」


澪は車を降り、建物を見上げた。


古びている。

けれど、不思議なことに荒れてはいなかった。


座席には落ち葉が積もっているのに、舞台だけは綺麗だった。


まるで。

今でも誰かが使っているように。


「黎さん」


「ああ」


二人とも、同時に気づいていた。


音がする。

遠くから。


ぱち。


ぱち。


ぱち。


最初は一人分だった。

次に、二人。

十人。

百人。


音は次第に大きくなり、山の中へ広がっていく。


――拍手。


澪は息を呑んだ。


「誰かいるの?」


「見てみろ」


黎が客席を指した。


さっきまで誰もいなかったはずの座席に、人影が並んでいる。


一席。


また一席。


そして、気づけば劇場全体が人で埋め尽くされていた。


誰も立ち上がらない。

誰も話さない。


ただ、舞台を見つめながら拍手をしている。


けれど。


「……顔が、ない」


澪の背中を冷たいものが走った。


観客たちには顔がなかった。

黒い影のような頭部だけが並んでいる。


そして舞台の中央には、一人の男が立っていた。


古い舞台衣装。

白い手袋。

胸元には赤い花。


その男が、ゆっくりと頭を下げた。


「本日の公演を、始めます」


声が響いた。


「観客は、もう揃っています」


澪は周囲を見回した。


「……何の公演?」


「分からない」


黎が答える。


その瞬間、舞台の照明が一斉に点いた。

昼間だったはずなのに、空が暗くなる。


劇場だけが夜になった。


そして。


客席から拍手が起こった。

先ほどより、ずっと大きな拍手だった。


舞台の男が笑う。


「さあ、最後の演目を」


舞台袖から、誰もいないはずの役者たちが現れた。


一人。


二人。


三人。


何十人もの人影が舞台へ上がっていく。


けれど、彼らは何も演じない。

ただ、立っている。


まるで。

誰かを待っているように。


「……黎さん」


「どうした」


「この人たち、何を待ってるの?」


黎は舞台を見つめた。


「観客だろう」


「でも、もう観客はいる」


「違う」


黎の声が低くなる。


「彼らが待っているのは、拍手をする人間じゃない」


その瞬間だった。


舞台の中央に、一人の少女が現れた。

観客席を見つめている。


そして、怯えたように呟いた。


「……誰か」


声は小さかった。


それでも、澪には聞こえた。


「誰か、見ていて」


胸が締めつけられる。


次の瞬間、澪の視界が白く弾けた。


少女の声が、胸の奥に残っている。


誰か、見ていて。


その願いに触れた瞬間、澪の中へ記憶が流れ込んできた。


残響読解。


今回は、何かに触れたわけではない。

舞台に立つ少女の声が、澪の中にある何かを揺さぶったのだ。


舞台。

歓声。

拍手。

演じる人々。

そして、誰もいない客席。


――違う。


誰もいないのではない。


誰かがいた。

けれど、誰も舞台を見ていなかった。


観光施設が閉鎖される直前。

最後の公演。


舞台に立った役者たちは、最後まで演じた。


客席には人がいた。

けれど、その視線は舞台に向いていなかった。


隣の人と話し続ける者。

終演を待たずに席を立つ者。


舞台の上で何が演じられているのか、気に留める者はほとんどいなかった。


それでも、役者たちは演じ続けた。

最後の公演を、最後まで務めようとした。


そして、幕が下りる直前、一人の舞台監督が叫んだ。


――誰か、見ていてくれ。


その記憶が、澪の中へ流れ込んできた。


「……っ」


膝から力が抜ける。

黎がすぐに澪を支えてくれた。


「澪!」


「大丈夫……」


けれど、舞台の男がこちらを見ていた。


「あなたは、見ますか?」


その問いに、澪は顔を上げた。


「……見る」


自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


「最後まで、ちゃんと見る」


舞台の上で、男が笑った。


拍手が止まった。

静寂が、劇場を覆った。


それまで何もなかった舞台の奥に、暗い幕のようなものが浮かび上がった。

ゆっくりと、それが左右に開いていく。


その向こうには、舞台とも客席ともつかない、深い闇が広がっていた。

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