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黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


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第16話 ガラスの迎賓館

星見ヶ丘遊園から戻って、二週間が過ぎた。

大学図書館の仕事を終えた金曜日の夜、澪は自宅のテーブルに鞄を置き、その中から一枚の写真を取り出した。


星見ヶ丘遊園がまだ営業していた頃の集合写真。


大勢の人々に混じって、その端に一人の青年が写っている。


黒い髪。

そして、金色の瞳。


澪は写真を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「……やっぱり、似てる」


九条黎に。

あまりにもよく似ていた。


けれど、写真の中の青年が本当に黎なのか、澪にはまだ分からない。


本人に聞いても、答えはいつも同じだった。


――覚えていない。


澪は写真を裏返した。

星見ヶ丘遊園で伊吹から渡された白いカードが、その下に重なっている。


《ガラスの迎賓館》


あの場所で何が起きていたのか。

伊吹は何を知っているのか。

そして、なぜ黎は、いくつもの場所の古い写真に残っているのか。


考え始めると、次から次へと疑問が浮かんでくる。

それでも。


「……行ってみるしかないか」


澪は小さく呟いた。


スマートフォンを手に取り、黎へメッセージを送る。


《明日、ガラスの迎賓館へ行こうと思う》


しばらくして、短い返信が届いた。


《分かった》


それだけだった。


澪は少し笑う。

いつも通りの黎らしい返事だった。


《明日の朝、駅で待ち合わせよう》


今度は、すぐに返信が来た。


《ああ》


澪は写真とカードを鞄にしまった。


明日もまた、いつものように旅が始まる。


仕事のある平日は大学図書館で働き、怪異を追うのは休日。

その生活が、最近では少しずつ当たり前になってきていた。


けれど、今回の旅はこれまでとは違う。


星見ヶ丘遊園で、黎の過去に繋がる写真を見つけた。

そして、その写真を持っていた男――神崎伊吹が、自分たちの前に現れた。


次の場所で、また何かが分かるかもしれない。


澪はそう思いながら、窓の外を見た。

夜の街には、いつもと変わらない明かりが灯っている。


明日は早い。

今日はもう休もう。


*


翌朝。


澪は自宅を出ると、最寄り駅へ向かって車を走らせた。

駅近くの駐車場に車を停め、時刻表を確認する。


改札へ向かう途中、見慣れた長身の男が目に入った。


黒い髪。


人混みの中でも、すぐに分かる。


「黎さん」


声をかけると、黎が振り返った。


「遅い」


「まだ出発時間の十五分前だけど?」


「なら、遅くはないな」


「どっちなの」


澪は苦笑した。


黎は小さな鞄を一つだけ持っている。

相変わらず、荷物が少ない。


「それだけ?」


「ああ」


「……本当に?」


「必要なものはこれで足りる」


黎はそれ以上説明しなかった。


澪は少しだけ気になったが、聞いても答えてくれないような気がして、それ以上は尋ねなかった。


「じゃあ、行こう」


「ああ」


二人は並んで改札を抜けた。


まだ朝の早い駅には、これから旅行へ向かう人々の姿があった。

その中へ紛れるようにして、二人もホームへ向かう。


今回の目的地は、関東の山間に残された古い建物。

かつて、多くの人々が人生の大切な一日を過ごした場所。


そして今もなお、誰かとの約束を待ち続けている場所だった。


*


関東へ着いてから在来線を乗り継ぎ、最寄り駅で予約していたレンタカーを受け取った。

ガラスの迎賓館は、駅からさらに離れた森の中にある。


「こういう場所に建てたんだ」


澪は窓の外を見た。


「特別な場所にしたかったんだろう」


今回は、黎が運転してくれている。


「結婚式や記念パーティーをするなら、街中よりも非日常を演出できる」


「バブルの頃らしいね」


森を抜けると、建物が見えた。

全面を大きなガラスで覆った、奇妙なほど豪華な建物。


昼間なら光を反射して美しく見えるはずなのに、今はすべての窓が暗い。

入口の看板には、かつての施設名だけが残っていた。


《ガラスの迎賓館》


澪は祖父の記録を開いた。


《永遠を誓った日を、誰かが忘れないように》


「……祖父は、この場所のことを知っていたのかな」


「おそらく」


「でも、何があったのかは書いてない」


「だから来たんだろう」


二人が建物へ近づく。


その瞬間。


ガラスの向こうに明かりが灯った。


シャンデリア。

壁際の照明。

テーブルに並ぶキャンドル。


そして、白いドレスを着た女性。


祭壇の前に、一人で立っている。


「……誰?」


澪が呟く。


女性が顔を上げた。


「お待ちしておりました」


「私たちを?」


「はい。本日の新郎新婦様でございますね」


「違います」


澪が即答すると、女性の笑顔がわずかに崩れた。


「では、どちらが新郎様でしょう」


「だから、違いますって」


黎が澪の横に立つ。


「帰るぞ」


けれど、その瞬間。


館内から拍手が聞こえた。


一人。

二人。

十人。


やがて、数えきれないほどの拍手になる。


誰もいなかった客席に、人影が現れた。

全員が澪たちを見ている。


「……始まった」


黎が呟く。


祭壇の奥から、黒いスーツの男が歩いてくる。


「皆様、お待たせいたしました」


男は深く頭を下げた。


「本日は、永遠を誓う大切な日でございます」


「私たちは結婚しません」


澪が言う。


「承知しております」


「え?」


「ここで必要なのは、新郎新婦ではございません」


拍手が止まった。


「忘れない人です」


ガラス壁いっぱいに映像が浮かんだ。


結婚式。

指輪。

花束。

笑顔。


何度も繰り返される祝福。


けれど、映像の中の女性だけは、いつも一人だった。


祭壇。

入口。

窓辺。


どこにいても、誰かを待っている。


澪はガラスに触れた。


記憶が流れ込んでくる。


若い女性。

結婚式の準備。

何度も確認する招待客の名簿。

鏡の前で整える髪。

指輪。


そして、約束した相手を待つ時間。


式の時間になっても、相手は来ない。

連絡もつかない。


それでも女性は帰らなかった。


夕方になっても。

夜になっても。


誰もいない祭壇を見つめ、最後に呟く。


――私は、待ってるから。


記憶が途切れた。


澪は胸元を押さえた。


「この人は……結婚できなかったことだけを悔やんでいるんじゃない」


黎が頷く。


「約束を終わらせられなかった」


「うん」


澪は祭壇を見る。


「誰かに、覚えていてほしいんだと思う」


「何を?」


「自分が約束したことを」


その瞬間、二階の回廊から声がした。


「その通りです」


神崎伊吹だった。

いつの間にか、そこに立っている。


「人は約束を交わす。けれど時間が経てば忘れる。場所だけが覚えていることもある」


「だから、残響を利用するの?」


澪が問う。


伊吹は首を横に振った。


「利用という言葉は少し違います」


「じゃあ、何をしているの?」


「残すべき記憶を残している」


伊吹はガラス壁に手を触れた。


「忘れられたくないという感情は、とても強い。だから場所に残る」


「それを集めている?」


黎の声が鋭くなる。


伊吹は答えなかった。


代わりに、一枚の写真を手すりの上へ置いた。

古い集合写真だった。


ガラスの迎賓館の前に、大勢の人が並んでいる。

その端に、一人の青年がいた。


黒い髪。

金色の瞳。


澪は息を呑んだ。


「……黎さん」


黎は動かなかった。


「またか」


小さな声だった。


伊吹は静かに続ける。


「九条黎。あなたは、ずいぶん多くの場所に残っていますね」


黎の表情から、いつもの余裕が消えた。


「……俺は、この写真を知らない」


「でも、写真の中にはいる」


「似ているだけかもしれない」


澪が言った。


けれど、自分でも分かっていた。


似ている、だけでは説明できない。


月読温泉ホテル。

星見ヶ丘遊園。

そして、この場所。


黎は、いくつものバブル遺産の記憶の中に姿を現している。


「伊吹さん。あなたは、黎さんのことを知ってるの?」


伊吹は少しだけ笑った。


「知っている、と言えばそうですね」


「どういう意味?」


「ただ――あなたが知っている九条黎と、写真に残っている九条黎が同じ人間なのか。それは、まだ私にも断言できません」


黎が伊吹へ一歩近づいた。


「お前は何を知っている」


「まだ、話す時期ではありません」


「逃げるのか」


「逃げるつもりはありませんよ」


伊吹は穏やかに答えた。


「未来を作るためには、過去を正しく知らなければならない。それが私の考えです」


その背後で、ガラスの壁に巨大な文字が浮かび上がった。


《新黎明計画》


「過去を残すことと、未来を作ることは両立します」


黎の目が細くなる。


「そのために残響を集めるのか」


「必要なものだけを」


伊吹はそう言った。


「すべての記憶を、そのまま残せばいいとは限りません。残すことで救われるものもあれば、残すことによって先へ進めなくなるものもある」


「だから、お前が残すものを選ぶのか」


「ええ。少なくとも、私はそう考えています」


伊吹は穏やかに微笑んだ。


「すべてを救うことが、すべてを残すことだとは限りませんから」


その言葉に、澪は違和感を覚えた。


黎は怪異を終わらせる。

澪は記憶を読み、その人や場所が何を望んでいるのかを探す。


伊吹は違う。


残すべきものと、そうでないものを選ぼうとしている。

正しいのかどうかは、まだ分からない。


けれど、祭壇の女性は、まだそこに立っている。

彼女が待っているのは、もう結婚相手ではない。


約束したという事実そのものだった。


澪は祭壇へ歩いた。


「あなたが待っていたことは、誰かが忘れなかった」


女性が顔を上げる。


「でも、もう待たなくていい」


「……待たなくて?」


「うん。約束は、果たされなくても、約束だったことまで消えないから」


女性は、祭壇の向こうを見つめた。

そこには、もう誰もいない。

それでも彼女は、長い間、そこに誰かが現れるのを待ち続けていた。


「私……ずっと、待っていたんです」


「うん」


「いつか来てくれるって、信じていたから」


澪は頷いた。


「その気持ちまで、なくさなくていいと思います。でも、もうここで待ち続けなくてもいいんです」


女性の目から、一筋の涙が落ちた。


やがて、彼女はゆっくりと祭壇から離れた。

客席の人影が、少しずつ薄くなる。


拍手も止まった。


支配人は深く頭を下げる。


「ありがとうございました」


その言葉とともに、ガラスの壁から光が消えた。

残ったのは、古びた建物だけだった。


伊吹の姿もない。


ただ、写真だけが床に残されていた。


澪が拾い上げる。


写真の裏には、祖父の筆跡によく似た文字があった。


《記憶は、残すだけでは足りない。誰が、何のために残したのかを見失わないこと。》


澪はしばらく、その文字を見つめていた。


その下には、別の文字も書かれていた。

ただし、折り重なった紙の跡に隠れていて、澪にはまだ読み取れなかった。


「祖父も……伊吹さんと同じことを考えていたのかな」


「違うと思う」


黎が答えた。


「どうして?」


「お前の祖父なら、残すものを誰かに選ばせない」


澪は顔を上げた。


「場所ごとに記録する。そういう人だった」


「うん」


祖父の言葉を思い出す。


――記録は場所ごとに残すこと。記憶を一つにまとめてはいけない。


ひとつの大きな記憶にまとめてしまえば、その場所で生きた人たちの声が消えてしまう。


澪は真鍮の鍵を取り出した。

三つの紋章は静かに刻まれている。


その隣に、四つ目の輪郭が一瞬だけ浮かんだ。


すぐに消える。


「……今のは?」


「分からない」


澪は鍵を握った。


何かが始まろうとしている。

けれど、それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。


黎は何も言わなかった。


ただ、澪の持っていた写真を受け取り、折れないように鞄へしまった。


「帰るぞ」


「うん」


建物を出ると、森の向こうから夕方の光が差していた。

レンタカーへ戻る途中、澪は隣を歩く黎を見上げる。


「ねえ、黎さん」


「何だ」


「もし……写真の中の人が、本当にあなたなら、どうする?」


黎が足を止める。


しばらく沈黙があった。


「分からない」


黎は答えた。


「でも、今の俺が誰なのかは分かる」


澪を見る。


「それで十分だ」


その言葉が、なぜか嬉しかった。


車に乗り込み、帰りの新幹線に間に合うよう駅へ向かう。

旅を始めた頃より、知らないことは増えている。


けれど、怖くはなかった。


分からないことを、二人で少しずつ見つけていけばいい。


その夜。

新幹線の窓に映る二人の姿は、暗いガラスの向こうで並んでいた。


澪の鞄の中では、三つの紋章が刻まれた真鍮の鍵のそばに、一枚の古い写真が静かに眠っていた。

写真の裏には、まだ澪の知らない文字が残されていた。


――《次は、中部へ》

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