第15話 星見ヶ丘遊園
月読温泉ホテルから戻ってから、二週間が過ぎた。
大学図書館では、新学期を迎えた学生たちの姿が増えていた。
返却された本を確認し、予約資料を集め、レポートを書く学生から資料の探し方を聞かれる。
閉館が近づけば、澪はいつものように館内を歩き、机に残された本を回収していく。
怪異とは無縁に見える、いつもの仕事だった。
けれど、机の引き出しには、二つの紋章が刻まれた真鍮の鍵がある。
――居場所。
――帰る場所。
月読温泉ホテルで聞いた少女の声も、まだ耳に残っていた。
――今度は、ちゃんと覚えててね。
あの夜以来、黎は以前より少し静かだった。
少女のことを思い出したわけではないらしい。
ただ、古い写真を見るたび、何かを探すような目をする。
澪も、それ以上は聞かなかった。
忘れている記憶を無理に掘り起こすことが、必ずしも本人のためになるとは限らない。
そんな中、祖父の記録から次の場所が見つかった。
《関東・遊園施設》
《星見ヶ丘遊園》
《閉園後も、夜だけ客が来る》
「遊園地……」
昼休み、澪は古い写真を見ながら呟いた。
「閉園してから、かなり経ってるみたい」
「そうだな」
向かいに座った黎が写真を見る。
広い敷地の中央には観覧車があり、その奥にはジェットコースターのレールが伸びている。
入口には大きな星形の看板。写真の中の人々は、みんな笑っていた。
「楽しそう」
「そう見えるか?」
「うん。でも……遊園地って、誰かに見てもらいたい場所でもあるんじゃないかな」
「見てもらいたい?」
「子どもなら、乗っているところを親に見てほしい。大人だって、楽しそうにしている自分を誰かに見てほしいことがあるでしょう」
黎は黙って写真を見つめた。
「それが残響になると思うか」
「分からない。でも、確かめたい」
今回も、仕事に影響を出さない範囲で行くことにした。
金曜日の仕事を終えると澪は自宅へ戻り、荷物をまとめる。
翌朝、自宅から最寄り駅まで自家用車を運転し、駅近くの駐車場に車を預ける。
そこから新幹線で関東へ向かい、現地では電車とバスを使う。
日曜日のうちに帰宅できれば、月曜日の勤務にも間に合う。
移動の疲れは残るだろう。
それでも、月曜日の仕事に支障が出ないよう、帰りの新幹線は余裕を持って予約しておいた。
それが今の二人の旅の形だった。
*
土曜日の昼過ぎ。
新幹線を降りてから、私鉄に乗り換えた。
さらに郊外へ向かう電車と路線バスを乗り継ぎ、駅から少し離れた丘のふもとで降りる。
星見ヶ丘遊園は、その先にあった。
営業を終えて長い年月が経っているはずなのに、入口だけは妙に大きい。
錆びたゲート。
色の剥げた看板。
伸び放題の草。
その下に、一枚の新しい紙が貼られていた。
《本日営業》
「……これも、同じだ」
黎は紙を見たあと、周囲を見回した。
「中から音がする」
風の音に混じって、遊園地の音楽が聞こえた。
明るく、軽やかな旋律。
そして――子どもの笑い声。
「行こう」
澪が言った。
「怖くないのか?」
「怖いよ」
澪は真鍮の鍵を握った。
「でも、怖いからって見ないままにはしたくない」
ゲートをくぐった瞬間、空気が変わった。
錆びていた柵が塗り直され、雑草に覆われた通路から草が消える。
枯れていた花壇には色鮮やかな花が咲き、止まっていたメリーゴーラウンドがゆっくりと回り始めた。
誰も乗っていない。
観覧車も動き出した。
ゴンドラが一つずつ、夕暮れの空へ上がっていく。
「閉域だ」
黎が言った。
今では、澪にもその意味が分かる。
場所に残った記憶や感情が濃くなりすぎて、過去と現在の境目が曖昧になった状態。
ここでは昔の景色が再現されているのではない。
この遊園地に積み重なった記憶が、現在の風景を覆っている。
園内には、人影があった。
家族連れ。
恋人同士。
学生のグループ。
みんな楽しそうに笑っている。
けれど、誰も二人を見ない。
すれ違っても目が合わない。
まるで、そこにいる人間しか見ることができないようだった。
「見て!」
子どもの声が響いた。
小さな男の子が、ジェットコースターを指差している。
「見て、パパ!」
父親は笑った。
「すごいな」
けれど、男の子の声と父親の返事には、わずかなずれがあった。
「見て!」
男の子がもう一度叫ぶ。
「ねえ、見てよ!」
父親は笑ったまま、別の方向を見ている。
澪の背中を冷たいものが走った。
「……黎さん」
「分かっている」
園内放送が鳴った。
『本日の閉園時間は――』
そこで音声が途切れる。
しばらくノイズが続き、別の声が流れた。
『今日が最後にならないように、もう一度、見てください』
園内の時計が一斉に午後五時を指した。
針が止まる。
案内所へ入ると、壁いっぱいに写真が貼られていた。
開園式。
遠足。
家族旅行。
誕生日。
卒業祝い。
どの写真にも、同じ言葉が書かれている。
《見て》
澪が一枚を手に取った。
観覧車の前で笑っている若い女性。裏には鉛筆で、こう書かれている。
《今日、初めて一人で乗れた。誰かに見てほしかった》
澪が写真に触れた瞬間、記憶が流れ込んできた。
観覧車のゴンドラ。
少女が窓から手を振っている。
何度も、何度も。
――見て。
下には母親がいる。
けれど、人混みの向こうで別の方向を見ている。
少女は笑顔のまま、手を振り続ける。
――見て。
記憶が途切れた。
澪は息を整えた。
「……この場所に残っているのは、楽しかった記憶だけじゃない」
「見てもらえなかった記憶か」
「うん」
黎が写真を見る。
「誰かに見てほしい」
「それが、この場所に残った人たちの思いなんだね」
「ああ」
その言葉に反応するように、遊園地の照明が一斉に点いた。
観覧車が回る。
メリーゴーラウンドが速度を上げる。
そして、園内にいた人影が一斉にこちらを向いた。
全員が笑っている。
けれど、目だけが笑っていない。
『ようやく、見つけた』
スピーカーから男の声が響いた。
黎が澪の前に出る。
「下がれ」
観覧車の頂上に、人影が立っていた。
古い制服を着た男。
星見ヶ丘遊園の園長だった。
そのとき、別の場所から声がした。
「面白い場所ですね」
黒いコートに細い眼鏡をかけた男が、いつの間にか園内に立っていた。
「誰だ」
黎の声が低くなる。
「神崎伊吹」
男は二人へ視線を向け、静かに笑った。
「君たちと同じものを見に来ただけですよ」
「残響を?」
澪が尋ねる。
「ええ。ただし、見方は少し違います」
伊吹は、懐から一枚の古い写真を取り出した。
「それは?」
澪が覗き込む。
星見ヶ丘遊園が、まだ営業していた頃の写真のようだった。
大勢の職員と客が、園内の広場に並んでいる。
その写真の端に、一人の青年が立っていた。
黒い髪。
そして――金色の瞳。
「……黎さん?」
澪の声に、黎が振り返る。
写真の青年は、今の黎とほとんど変わらない姿をしていた。
「俺は、この場所に来た覚えはない」
黎の声が、低くなる。
伊吹は何も言わず、写真をしまった。
「そうでしょうね」
その言葉だけが、妙に引っかかった。
澪の手の中で、真鍮の鍵が熱を持った。
伊吹の胸元には、見慣れない小さな紋章がある。
伊吹は観覧車を見上げた。
「この場所は、誰かに見てもらいたいという感情を、ずいぶん素直に残している」
「あなたは、それをどうするつもり?」
澪が問う。
伊吹は答えなかった。
「今日は、ここまでにしておきましょう」
観覧車が、ゆっくりと回る。
「次に会う場所は、もう決めてありますから」
そう言って、伊吹は闇の向こうへ姿を消した。
澪は追わなかった。
まだ、ここには終わっていない記憶がある。
そして伊吹の言葉が、胸に引っかかっていた。
――次に会う場所。
まるで、彼がこの旅の先を知っているようだった。
*
星見ヶ丘遊園の時計は、午後五時から動かなかった。
観覧車の明かりが消え、メリーゴーラウンドの音も止まっている。
さっきまで園内を埋めていた人影も、いつの間にか消えていた。
「黎さんは、神崎伊吹さんを知っているの?」
「わからない。聞きたくても、もう行ってしまったみたいだな」
黎が答える。
観覧車の頂上にも、園長の姿はない。
観覧車は止まっている。
メリーゴーラウンドも、ジェットコースターも、さっきまで聞こえていた音楽さえ、すべてが嘘だったように静まり返っていた。
けれど、園内にはまだ人影が残っている。
家族連れ。
恋人たち。
友達同士の学生。
誰もが笑っている。
誰もが楽しそうにしている。
ただ、その顔を見ていると、澪は胸の奥が苦しくなった。
彼らは笑っているのに、誰も誰かを見ていない。
隣にいる人間の顔さえ見ようとせず、それぞれが自分の中にある「楽しかった時間」だけを見つめている。
「……この人たちも、帰れないの?」
澪が尋ねると、黎は観覧車を見上げた。
「帰れないというより、帰る理由を失っている」
「理由?」
「楽しかった時間が、終わっていないからだ」
その言葉に、澪は案内所で見つけた写真を思い出した。
――見て。
――誰かに見てほしかった。
それは、単純な寂しさではなかった。
自分がここにいたことを。
楽しかったことを。
頑張ったことを。
誰かに見つけてもらいたい。
誰かの記憶に残りたい。
そんな思いが、長い年月をかけて遊園地に積み重なっていた。
「でも……園長は何を待ってるんだろう」
澪は観覧車の頂上を見た。
そこにはもう、誰もいない。
けれど。
カタン。
小さな音がした。
止まっていた観覧車が、一つだけゴンドラを動かした。
ゆっくりと。
まるで誰かを迎えに行くように。
「澪」
「うん」
「乗るな」
「分かってる」
黎が少し意外そうな顔をした。
「……ずいぶん慣れたな」
「だって、今まで何度も言われてるもの」
澪は苦笑した。
そのときだった。
観覧車の下から、男の声が聞こえた。
「まだ、見つけてもらえていない」
二人が振り返る。
そこに、園長が立っていた。
古い制服姿。
胸には星の形をした徽章。
けれど、その顔には怒りも憎しみもなかった。
ただ、疲れ切ったような表情だけが浮かんでいる。
「誰を?」
澪が尋ねる。
園長は園内を見回した。
「ここで笑った子どもたちを」
「……それなら、もう十分に記憶されているんじゃないですか?」
「そう思っていた」
園長は小さく笑った。
「閉園の日も、私はそう思っていたんです。長い間、ありがとうございました、と。これで終わりだと」
風が吹いた。
古いポスターが一枚、音を立てて揺れる。
「でも、誰も振り返らなかった」
園長の声が、少しだけ震えた。
「最後の日も、みんな明日の話をしていた。次はどこの遊園地へ行くとか、学校がどうだとか、仕事がどうだとか……」
澪は黙って聞いていた。
「ここで働いた人間だけが、今日を終わらせられなかった」
「……だから、閉園したあとも続けていたんですね」
「ああ」
園長が頷く。
「せめて、もう一度だけ。ここにいた人たちが、笑っているところを見たかった」
澪は案内所の写真を思い出した。
園長が望んでいたのは、遊園地を永遠に続けることではない。
ここにいた人たちの存在を、誰かに見てもらうことだった。
「園長さん」
澪はゆっくりと言った。
「私は、見ました」
園長が顔を上げる。
「この場所で、たくさんの人が笑っていたことも。楽しみにしていたことも。ここを大切にしていたことも」
声が震えそうになる。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
「だから、もう終わっていいと思います」
園長の表情が止まった。
「……終わって、いい?」
「はい」
「忘れられてしまう」
「忘れません」
澪は写真を見る。
「写真も、記録も残っています。それに――」
隣にいる黎を見る。
「私たちが覚えています」
黎は何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
その瞬間、遊園地の照明が一つずつ消えていった。
観覧車。
メリーゴーラウンド。
入口の星の看板。
最後に、午後五時を指していた時計の針が動く。
五時一分。
たった一分だけ。
それから、時計は止まった。
園長の姿が薄くなる。
「……そうか」
その声には、安堵が混じっていた。
「やっと、閉園できるんですね」
園長の姿が消える。
その瞬間だった。
澪の手の中で、真鍮の鍵が小さく震えた。
これまで刻まれていた二つの紋章の隣に、淡い光が浮かび上がった。
「……三つ目」
澪は、消えていく遊園地を見つめた。
誰かに見てほしかった。忘れないでほしかった。
ここにいたことを、楽しかった時間を、最後まで見届けてほしかった。
「この紋章は……」
澪は言葉を探した。
「誰かに、覚えていてもらいたいっていうことなのかな」
澪が呟いた。
黎も静かに鍵を見つめる。
「そうみたいだな」
澪は消えていく遊園地を見た。
誰かに見てほしかった。
忘れないでほしかった。
ここにいたことを、楽しかった時間を、最後まで見届けてほしかった。
「……見届けるって、こういうことなのかな」
黎は答えなかった。
ただ、澪の手の中の鍵を見ていた。
*
案内所へ戻ると、机の上に一枚の白いカードが置かれていた。
銀色の文字。
《新黎明計画》
その下に施設名と住所が印刷されている。
《ガラスの迎賓館》
「……わざと置いていったのかな」
「そうだろうな」
黎はカードを取り上げた。
「罠かもしれない」
「ああ」
黎は澪を見る。
「だから、お前が決めろ」
「私が?」
「行くかどうか」
澪は少し考えた。
怖い。
伊吹は、自分たちよりも残響について多くを知っているようだった。
敵意を見せないことさえ、かえって不気味だった。
それでも。
「行く」
澪は答えた。
「星見ヶ丘遊園で起きていたことも、伊吹さんが何を考えているのかも、まだ分からないから」
黎は澪を見た。
「危険だぞ」
「分かってる」
「それでも?」
「うん」
少しだけ笑う。
「今度は、私が見ておきたい」
黎は一瞬黙ってから頷いた。
「分かった。俺も行く」
*
翌朝、二人は星見ヶ丘遊園を出た。
駅までは路線バスを使い、そこから電車を乗り継ぐ。
予約していた新幹線の時間を確認しながら、澪はカードを鞄へしまった。
遠くへ行くときは新幹線。
現地では電車やバス。
必要な場所だけレンタカー。
それが、二人の旅の基本になっていた。
「次は二週間後の土曜日にしよう」
澪が予定表を見る。
「月曜日は仕事だから、一泊で」
「無理をするな」
「大丈夫。日曜日の夜には戻れる」
「今日は帰ったら寝ろ」
「子どもみたい」
「寝不足で倒れる大人よりはいい」
澪は思わず笑った。




