第14話 幸せだった夜
扉が閉まった大きな音に驚き、澪は後ろを振り返った。
さっきまで開いていた宴会場の扉は、ぴたりと閉じている。
澪は扉に近づいて、試しに取っ手を回してみる。
動かない。
「黎さん」
「分かっている」
黎が扉に手を当てた。
金色の瞳が細くなる。
「普通の鍵じゃない」
「閉域の力?」
「そうだ。ここに残った記憶そのものが、扉を閉じている」
澪は宴会場を見回した。
円卓。
料理。
花。
笑い声。
どれも、さっきまで見ていたものと変わらない。
なのに、ひとつだけ違う。
客たちは誰も、宴会場の外を見ようとしない。
同じ会話。
同じ笑顔。
同じ乾杯。
何度も繰り返している。
「みんな、同じ時間を繰り返してる」
「このホテルにとって、ここが一番幸せだった時間なんだろう」
黎が答える。
「だから、終わらせたくない」
その言葉に、澪は少女を見る。
少女は少し離れた場所に立っていた。
浴衣の袖を握りながら、じっと二人を見ている。
「ねえ」
澪がしゃがんで目線を合わせた。
「あなたは、ここにずっといるの?」
少女は頷いた。
「うん」
「楽しい?」
「楽しいよ」
即答だった。
けれど、笑顔はどこか寂しい。
「ずっと、この日なの」
「今日?」
「うん。みんなが笑ってる日」
少女は宴会場を見渡した。
「明日になると、みんないなくなるから」
澪の胸に、冷たいものが落ちた。
「……明日が来るのが嫌なの?」
少女は答えなかった。
代わりに、黎を見た。
「お兄ちゃんは、明日も来る?」
黎の顔が強張る。
「……俺は、お前を知らない」
「そうなの?」
少女は悲しそうに笑った。
「でも、私は知ってるよ」
その瞬間、澪の頭の奥が熱くなった。
少女の記憶が、流れ込んでくる。
夏。
家族旅行。
このホテルの庭。
大人たちの笑い声。
父親に手を引かれて走る少女。
その少し先に、誰かが立っている。
黒い髪。
けれど、顔はうまく見えない。
少女が、その人の手を握っている。
『お兄ちゃん、また来てね』
『ああ』
優しい声が聞こえた。
けれど、その次の場面は途切れていた。
ホテルの玄関。
少女は誰かを待っている。
何度も外を見る。
父親が「もう帰る時間だ」と言う。
少女は首を振る。
『お兄ちゃんが来るまで、帰らない』
そこで記憶が切れた。
「……澪!」
黎の声がした。
澪はふらつき、黎の腕に支えられた。
「大丈夫?」
「うん……」
胸が苦しい。
少女の記憶が、まだ残っている。
「黎は、この子と会ったことがある」
「……そうらしいな」
黎は、少女が消えた場所を見つめた。
「だが、俺は覚えていない」
「どうして?」
「分からない」
その答えが、澪には怖かった。
記憶を失っている。
それだけなら、まだ分かる。
でも――黎が何を忘れているのか、その理由そのものが、このホテルに関係しているのだとしたら。
「このホテルは、黎さんの記憶を待ってるのかな」
「違う」
黎が首を振る。
「ホテルが待っているのは、俺じゃない」
「じゃあ、何?」
「この夜だ」
宴会場の照明が明滅した。
誰かが笑う。
誰かが拍手する。
乾杯の声が響く。
それは確かに、幸せな時間だった。
けれど。
幸せだからこそ、終わらせられない。
「このホテルは、幸せだった時間を保存しようとしてる」
澪が呟く。
「だから、宿泊客を帰さない」
「ああ」
「でも……幸せな時間って、ずっと続けるものじゃないよね」
黎は澪を見る。
「続けたいと思うことと、そこから出られないことは違う」
その言葉が、澪の胸に残った。
彼女自身も、少し分かる気がした。
大切なものほど、失いたくない。
変わってほしくない。
ずっと同じでいてほしい。
でも、時間は止まらない。
だからこそ、思い出は思い出として残る。
少女の前に立つ。
「ねえ」
「なに?」
「この夜が終わったら、何があると思う?」
少女はしばらく考えた。
「……朝」
「うん」
「でも、朝が来たら、お兄ちゃんがいなくなる」
「だから怖いの?」
少女は頷いた。
「じゃあ、覚えておけばいいよ」
少女が顔を上げる。
「忘れないで。楽しかったことも、大切だったことも。終わったからって、なくなるわけじゃないから」
少女は黙った。
やがて、小さく笑う。
「お姉ちゃんは、そう思う?」
「うん」
「じゃあ……私も、朝を見てみたい」
その瞬間、宴会場の空気が変わった。
笑い声が止まる。
客たちが、一斉に澪を見る。
女将が、ゆっくりと立ち上がった。
「お客様」
穏やかな声だった。
「こちらでは、皆様に幸せな時間をお過ごしいただいております」
「でも、帰れない」
「お帰りになる必要がないのです」
「どうして?」
「ここには、皆様が一番幸せだった時間がございますから」
女将は笑った。
「辛い明日より、幸せな昨日を選ぶ。それは悪いことでしょうか?」
澪は答えなかった。
悪いとは思わない。
幸せだった記憶を大切にすることは、悪いことではない。
だからこそ、この残響は簡単に消せない。
「でも」
澪は女将を見る。
「昨日を大切にすることと、昨日に閉じ込められることは違います」
女将の笑顔が、初めてわずかに崩れた。
「……閉じ込めてなどおりません」
「じゃあ、扉を開けて」
沈黙。
女将は答えない。
澪は鍵を握った。
真鍮の鍵が、じんわりと熱を持っている。
最初の紋章「居場所」。
二つ目の「帰る場所」。
その二つは、確かにここにある。
けれど、その先に何があるのかは、まだ分からない。
澪は鍵を見つめた。
今は、答えを急ぐ必要はない。
このホテルに残っているものを、まず終わらせなければならない。
「黎さん」
「何だ」
「このホテルの残響を還すには、幸せを壊すんじゃない」
「……ああ」
「幸せだったことを、ちゃんと終わらせるんだ」
黎が頷く。
「そのためには、何が必要だ?」
「この夜の最後を見つける」
二人は宴会場を歩き始めた。
残響の客たちの間を抜け、古い写真や記念品を探す。
やがて、壁際の棚に小さなアルバムを見つけた。
澪が開く。
家族旅行。
宴会。
記念写真。
笑顔。
そして最後のページに、一枚だけ写真が貼られていた。
1991年8月16日。
ホテルの玄関。
少女。
家族。
全員が笑っている。
その写真の端には、ホテルの従業員らしき人物も何人か写っていた。
澪は写真をしばらく見つめた。
誰かを待っているような、不思議な印象だけが残る。
写真の裏には、手書きの文字があった。
《また来年も、みんなで来よう》
澪の指が止まる。
「……これが、この人たちの願いだったんだ」
「また来ること」
「うん」
澪は写真をそっとアルバムへ戻した。
また来年も、みんなで来よう。
その約束は、叶わなかったのかもしれない。
それでも、写真の中の家族は笑っていた。
あの日が確かに幸せだったことまで、失われたわけではない。
その瞬間、ホテル全体が大きく揺れた。
照明が消える。
窓の外が一瞬で暗くなる。
そして、どこからともなく朝の鳥の声が聞こえた。
夜が終わろうとしている。
少女が澪の手を握った。
「怖い」
「大丈夫」
「お姉ちゃん」
「なに?」
「朝になっても、ここはなくならない?」
澪は少女の手を握り返した。
「なくならないよ」
「本当に?」
「思い出が残るから」
少女は少し笑った。
「じゃあ、朝にする」
少女が目を閉じる。
その瞬間。
宴会場の窓から、薄い光が差し込んだ。
笑い声が、少しずつ遠ざかっていく。
料理が消える。
花が色褪せる。
古いポスターが再び時間の色を取り戻す。
ホテルが、元の姿へ戻っていく。
女将は何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
そして、その姿も光の中へ消えていった。
少女の姿も、消えかけている。
「黎さん」
澪が振り返る。
「何だ」
「この子に、何か言ってあげて」
黎はしばらく少女を見ていた。
やがて、ゆっくりとしゃがむ。
「……またな」
少女が笑う。
「うん。今度は、ちゃんと覚えててね」
その言葉とともに、少女の姿が消えた。
静かな朝だった。
澪は鍵を見る。
二つの紋章は、変わらずそこにあった。
「……何も変わらないね」
澪が呟く。
「ああ」
黎も鍵を見る。
「まだ、その時じゃないんだろう」
「その時?」
「次の紋章が現れる時だ」
澪は鍵を握り直した。
今はまだ、分からない。
この先に何が待っているのかも。
次に現れるものが何なのかも。
ただ一つ分かるのは、今日ここで終わったものが、決して消えたわけではないということだった。
澪は鍵を握りしめた。
帰る場所の先に、何が待っているのか。
その答えは、まだ分からない。
ただ、このホテルには、誰かが未来へ託した願いが残されていた。
「黎さん」
「何だ」
「この写真の人たちも、また来年って思ってたんだよね」
「ああ」
「じゃあ、叶わなかった願いも、残響になるんだ」
黎は答えなかった。
ただ、写真の中の家族を見つめていた。
やがて黎は、静かに言った。
「……俺にも、叶わなかった願いがあるのかもしれない」
澪は何も言わなかった。
代わりに、隣に立った。
肩が触れるほど近くに。
今は、それ以上聞かなくていい。
外では、朝の光が山を照らし始めていた。
ホテルはもう、誰もいない古い建物に戻っている。
それでも。
昨日までそこにあった幸せが、なくなったわけではない。
ただ、記憶として残る場所へ戻っただけだった。
そして二人は、ホテルを後にした。
次の旅へ向かうために。
※今後の更新は、毎週火曜日・土曜日の19時30分を予定しています。
引き続き、澪と黎の旅をお楽しみいただけたら嬉しいです。




