第13話 月読温泉ホテル
東北から戻った月曜日。
大学図書館のカウンターには、いつもと変わらない時間が流れていた。
返却された本を確認し、予約資料を棚から集め、問い合わせに答える。
週末に山の中で起きたことなど、ここでは何一つ存在しなかったかのようだった。
けれど、澪の机の引き出しには、二つの紋章が刻まれた真鍮の鍵が入っている。
「居場所」と「帰る場所」。
それを見るたび、ロープウェイの青年が最後に見せた笑顔を思い出した。
そしてもう一つ。
白銀のホテルで見た、小さな女の子。
あのときも、少女は黎に何かを伝えようとしていた。
――お兄ちゃん。
その呼び声が、どうしても耳から離れなかった。
昼休み、澪は祖父の記録を開いた。
ロープウェイの記録の次に、何枚かのメモが挟まっている。
《東北・温泉宿泊施設》
その下に、場所の名前が一つ。
《月読温泉ホテル》
さらに短い一文があった。
《幸せだった場所ほど、手放すのが難しい》
「……幸せだった場所?」
澪は小さく呟いた。
悲しい記憶が残る場所は、これまでにもあった。
けれど、幸せだった記憶まで残響になるのなら――。
そこで内線が鳴った。
仕事に戻る。
澪はメモを閉じた。
今はまだ、図書館司書としてやるべき仕事がある。
だからこそ、次の旅は休日にする。
それが、今の澪が選んだやり方だった。
*
金曜日の夕方。
定時を少し過ぎたところで仕事を終え、澪は大学の駐車場へ向かった。
車に乗り込み、エンジンをかける。
スマートフォンを見ると、黎からメッセージが届いていた。
《先に近くで待っている》
澪は小さく笑って、車を発進させた。
大学から少し離れた場所にあるカフェの駐車場に車を停めると、入口の脇に見慣れた長身の男が立っていた。
黒髪が夕方の風に揺れている。
「待った?」
「今来たところだ」
どう見ても、かなり前から待っていた顔だった。
「……絶対、嘘」
「そうか?」
黎は何でもないように言って、澪の顔を見た。
澪は手の中の車のキーを弄んだ。
顔が少し赤くなっている気がして、黎と目を合わせられない。
そのまま、彼の隣に並んだ。
二人はカフェへ向かいながら、次の行き先について話し始めた。
「月読温泉ホテル。資料を見る限り、かなり大きな宿だったみたい」
「団体客が多かったらしい」
「宴会場も大きいみたいね」
「そうだな」
「温泉旅館なのに、ホテルって呼ばれていたのも面白い」
黎が少しだけ笑う。
「お前はそういうところを見るんだな」
「図書館司書だから」
「関係あるのか?」
「あるよ。場所の名前とか、パンフレットとか、昔の広告とか。そういうものを見てると、その場所がどんな夢を持っていたのか分かるから」
黎は黙って聞いていた。
やがて、
「それなら、今回もお前に任せる」
と言った。
澪は少し驚いた。
「私に?」
「ああ」
それだけの言葉だった。
けれど、以前なら黎が先に怪異を見つけ、危険から澪を遠ざけようとしただろう。
今は違う。
澪が何を見て、何を感じたのかを、黎は待ってくれる。
その変化が、少し嬉しかった。
*
翌朝。
二人は列車とバスを乗り継ぎ、山あいの温泉地へ向かった。
乗り換えを重ねる長い移動だったが、仕事に影響しないよう、今回も一泊だけ。
日曜日の夜には戻り、月曜日は通常勤務だ。
窓の外には、秋の山が広がっていた。
紅葉はまだ始まったばかりで、緑の中にところどころ赤や黄色が混じっている。
「きれい」
澪が窓に顔を近づける。
「帰りはもっと暗くなるな」
「じゃあ、今のうちに見ておかないと」
「そうだな」
やがてバスを降りると、硫黄の匂いを含んだ冷たい風が吹いた。
山の斜面に、大きな建物が見える。
白い壁。
広い窓。
そして、色褪せた看板。
月読温泉ホテル。
かつて多くの団体客を迎えたという建物は、今では営業を終えている。
なのに。
「……電気がついてる」
澪が立ち止まった。
夕暮れのホテルの窓に、いくつもの明かりが灯っている。
正面玄関には、古びた立て看板。
そこには、
『本日営業』
と書かれていた。
「営業してるの?」
「していない」
「じゃあ、あれは?」
「行けば分かる」
黎が先に歩き出した。
澪は鍵を握る。
二つの紋章が、かすかに熱を持っていた。
玄関の前まで来る。
自動ドアが、誰も触れていないのに開いた。
中から、暖かな空気が流れてくる。
煙草の残り香。
温泉の硫黄。
古い絨毯。
そして、遠くから聞こえる笑い声。
ホテルは、まるで時間だけを巻き戻したように、そこにあった。
「いらっしゃいませ」
フロントに、着物姿の女性が立っていた。
四十代ほどに見える。
髪をきっちりとまとめ、穏やかな笑顔を浮かべている。
「月読温泉ホテルへ、ようこそ」
澪は黎を見る。
黎は女性から目を離さなかった。
「お二人様でございますね」
「はい」
澪が答える。
女性が宿泊台帳を差し出した。
紙は古く、黄ばんでいる。
澪が日付を確認すると、そこには現在の日付ではなく、
1991年。
と印刷されていた。
「……これ」
女性は笑った。
「お客様にとって、一番幸せだった夜をご用意しております」
「え?」
「もう一度、あの頃に戻りたいと思ったことはございませんか?」
その瞬間。
ロビーの時計が、逆向きに動き始めた。
古いポスターが色を取り戻す。
傷ついていた床が磨かれ、ソファの布地が新品のように変わっていく。
そして、どこからともなく歓声が上がった。
誰もが笑っている。
楽しそうに。
幸せそうに。
澪は、鍵を握りしめた。
「……閉域」
黎が呟く。
澪は頷いた。
以前なら、その言葉の意味を尋ねていただろう。
今は分かる。
場所に残った記憶や感情が濃くなりすぎて、過去と現在の境目が曖昧になった場所。
ここでは、過去が「再現」されているのではない。
このホテルに残された記憶が、今の現実を覆っている。
「幸せな記憶も、残響になるんだ」
「そうだ」
黎が答えた。
「だから厄介だ」
ロビーの奥から、拍手が聞こえる。
何度も。
何度も。
誰かを祝うための拍手。
けれど、終わる気配がない。
澪は、その音の先へ目を向けた。
「行こう」
「怖くないのか?」
「怖いよ」
澪は正直に答えた。
「でも、誰かがここで幸せだったなら……その記憶が何を待っているのか、知りたい」
黎は一瞬だけ黙った。
「分かった」
二人が歩き出す。
その背後で、女将が静かに笑った。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいませ」
宴会場の扉が開く。
眩しいほどの光が、二人を包んだ。
そこには、大きな円卓が並んでいた。
料理。
花。
笑顔。
そして――一枚の古い写真。
写真の隅には、日付が記されている。
**1991年8月16日。**
澪が写真に触れた瞬間。
頭の奥に、夏の記憶が流れ込んできた。
蝉の声。
浴衣。
笑い声。
そして、宴会場の隅に立つ一人の男。
黒い髪。
金色の瞳。
澪は思わず、隣に立つ黎を見た。
顔立ちまでは、写真からはっきりとは分からない。
それでも、その瞳の色だけは見間違えようがなかった。
「……黎さん?」
黎が写真を覗き込む。
その表情から、いつもの余裕が消えた。
「……この場所を、知っている」
「思い出した?」
「いや」
黎は写真から目を離さなかった。
「知っている気がするだけだ」
その瞬間、照明が一斉に消えた。
暗闇の中で、子どもの声がした。
「私のこと、見えてる?」
澪は息を止めた。
振り返る。
そこには、浴衣を着た小さな女の子が立っていた。
白銀のホテルで見た少女。
あのときと同じ顔だった。
けれど、なぜここにいるのかも、黎を「お兄ちゃん」と呼ぶ理由も分からない。
少女は澪ではなく、黎を見つめていた。
「……お兄ちゃん」
黎の金色の瞳が揺れた。
少女の背後で、宴会場の扉がゆっくりと閉まる。
カチリ、と鍵のかかる音がした。
そして暗闇の向こうから、女将の声が響いた。
「今夜は皆様、どうぞ、あの頃のまま、お過ごしくださいませ」
澪は真鍮の鍵を握りしめた。
二つの紋章が、暗闇の中でかすかに熱を持っている。
その奥には、まだ名前も形も持たない何かが眠っているようだった。




