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黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


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第12話 帰る場所

ゴンドラの扉は、開いたままだった。

風が吹き抜けるたび、古い座席が小さく軋む。


座席に置かれた切符には、《終点 山頂駅》の文字。

その下には、《帰りの切符は、いりません》と手書きされている。


「乗るな」


黎が澪の前に腕を出した。


「でも、あの声……」


「残響が呼んでいる。理由を確認するまでは入らない」


澪は頷いた。


駅舎の壁には、古い案内板が残っていた。


《山頂駅まで約十二分》


その下に、色褪せた観光ポスター。

山頂には展望台、レストラン、ホテル、そして家族向けの遊歩道。


かつては、一日中人の声が絶えなかった場所なのだろう。


「このロープウェイは、ただ人を運んでいたんじゃない」


澪は呟いた。


「人が、帰る場所へ向かうためのものだったんだと思う」


黎が澪を見る。


「どうしてそう思う?」


「資料に書いてある。最盛期には、山頂のホテルに泊まる家族客が多かったみたい。だけど閉鎖直前の記録には、最後まで営業を続けようとしていた人たちの話がある」


澪は祖父のコピーを取り出した。


そこには短く、


《最後の便には、帰れなかった人がいる》


と書かれていた。


「帰れなかった人……」


黎が眉を寄せる。


そのとき、ゴンドラの照明が一つ、また一つと点いた。


時計が二十一時四十分を示す。


最終便が発車する。


ベルが鳴った。

扉が閉まる。


そして、ゴンドラが動き始めた。


「黎さん!」


「離れるな!」


二人は駅舎の中へ引き戻された。


だが、窓の外を通り過ぎたゴンドラには、誰かが乗っていた。


白いコートを着た男。

座席に深く腰掛け、山頂を見つめている。


澪の胸がざわめいた。


「見える」


「何が?」


「記憶……」


澪はゴンドラの手すりに触れた。


一瞬、世界が白くなる。


雪。

歓声。

子どもの笑い声。

そして、若い男の声。


『先に行っててくれ。仕事が終わったら、必ず山頂へ行く』


場面が変わる。


ホテルのロビー。

男は電話を握っている。


『今日は無理だ。明日の朝には行く』


電話の向こうから、子どもの声。


『約束だよ』


『ああ。約束する』


また場面が変わる。


閉館を知らせる張り紙。

雪に埋もれた駐車場。

誰もいないロープウェイ。


男は駅舎の前に立っていた。

けれど、山頂へ向かう最後の便は、もう出たあとだった。


『待ってくれ』


男が叫ぶ。


『まだ、家族がいるんだ』


そこで記憶が途切れた。


澪はその場に膝をついた。


「澪!」


黎がすぐに支える。


「大丈夫……。ただ、この人は……」


「無理に読まなくていい」


「違う」


澪は顔を上げた。


「この人は、自分が山頂に行けなかったことを悔やんでいるんじゃない」


黎が黙る。


「家族に、帰れなかったことを謝り続けてる」


その言葉に、ゴンドラが止まった。


山頂駅。


閉じていたはずの扉が開く。

向こうには、雪に覆われた遊歩道が続いていた。


そして、その先に一人の男が立っていた。


白い制服。

古びた帽子。


「ようこそ」


男は頭を下げた。


「最終便を、お待ちしていました」


「あなたが、この場所の怪異?」


澪が尋ねる。


男は少し寂しそうに笑った。


「私は車掌です。道を守り、人を終点まで運ぶ役目を持っていました」


「なのに、どうして今も?」


「最後のお客様が、まだ降りていないからです」


澪は山頂を見渡した。


「家族に会いたいんですね」


男の表情が揺れた。


「……帰りたいのです」


その一言で、澪には分かった。


この怪異が待っているのは、乗客ではない。

男の目的地は、自分自身の「帰る場所」だった。


男は長い年月、最後の便を走らせ続けていた。

誰かを山頂へ送り届ければ、自分も家族のもとへ帰れると思っていた。


けれど、終点に着いても、帰る場所は現れない。


澪はそっと真鍮の鍵を握った。

鍵が熱くなる。


ひとつ目の紋章「居場所」の隣に、新しい光が浮かび上がった。

まだ形にはならない。

けれど、澪にはそれが何を意味するのか、分かった。


「あなたを、家族のところへ送ります」


黎が澪を見る。


「澪、それは……」


「無理に消すんじゃない。終点まで送ってあげるんでしょう?」


道守は静かに頷いた。


「お願いします」


ゴンドラが動き出す。


山を下るのではない。

白い世界の向こうへ。


そこには、記憶の中の古い家があった。

玄関の前で、誰かが待っている。


男は扉の前で立ち止まった。


「ただいま」


返事はない。

それでも、男は泣きながら笑った。


「……遅くなって、すまなかった」


その瞬間、白い景色がほどけた。


駅舎に戻ると、ゴンドラは静かに止まっていた。

道守の姿はもうない。


けれど、澪には不思議と寂しさがなかった。

長い時間をかけて、この場所に残っていたものが、ようやく行くべきところへ行けたのだと思う。


「終わったね」


「完全には、な」


黎が駅舎の外を見る。

雪はいつの間にか弱くなっていた。


「どういう意味?」


「残響は消えるだけじゃない。場所に残った記憶は、形を変えて残ることがある」


「じゃあ、この駅にも何か残る?」


「たぶん」


黎は少し考えてから続けた。


「だが、それはもう、誰かを閉じ込める残響ではない」


澪はその言葉を聞いて、ほっとした。


帰り支度をして駅舎を出る前、澪は一度だけ振り返った。

古いホームの向こうに、山がある。

かつてここへ来た人たちが見た景色と、今の景色はきっと違う。


それでも、同じ場所として残っている。


「ありがとう」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

けれど、言っておきたかった。


そのとき、駅舎の時計が一度だけ音を立てた。


二十一時四十分を示していた針が、ゆっくりと動く。


二十一時四十一分。


たった一分だけ。


それでも澪には、それが十分なことのように思えた。


*


帰りの列車では、澪は窓側の席に座った。


車内は空いていた。

窓の外には、夕暮れの雪景色が流れている。

白くなった田畑も、雪を載せた木々も、行きに見たときとは少し違って見えた。

緊張が解けたせいか、しばらくすると急に眠気が押し寄せてきた。


「眠いなら、寝ていい」


隣から黎の声がする。


「……寝ない」


「さっきから三回、欠伸をしている」


「数えてたの?」


「目の前にいるからな」


澪は小さく笑った。


「じゃあ……少しだけ」


そう言って目を閉じる。

列車の揺れが心地よかった。


肩に何かが触れる。

薄く目を開けると、黎が自分のコートを掛けてくれていた。


「寒くないようにしておけ」


「黎さんは?」


「俺は平気だ」


「そういうところ、ずるいよね」


「何がだ」


「何でもない」


澪は目を閉じた。

今度は、本当に眠りに落ちた。


*


どのくらい眠っていたのだろう。


車内が少し明るくなった気がして、澪はゆっくり目を開けた。

窓の外は、すっかり暗くなっている。


一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


けれど、肩に掛けられた黒いコートの重みと、隣に座る黎の横顔を見て、すぐに思い出した。


ロープウェイ。

道守。

帰る場所。


「……寝ちゃった」


「うん」


「どのくらい?」


「一時間ほど」


「そんなに?」


澪は慌てて姿勢を正した。

すると、膝の上から何かが滑り落ちた。


古い切符だった。


「これ……」


拾い上げる。

見覚えのある、色褪せた切符。


そこには、もう誰も使っていないはずの文字が残っていた。


《終点 山頂駅》


澪が息を呑む。


切符が、淡い光を帯びた。

次の瞬間、手の中の真鍮の鍵が熱を持つ。


切符がほどけるように光へ変わり、その光が鍵へ吸い込まれていった。


鍵の表面に、二つ目の紋章が浮かび上がる。


「……帰る場所」


澪が呟いた。


黎は黙って、その紋章を見つめている。

やがて、低い声で言った。


「そうか」


「何か思い出した?」


黎は少しだけ視線を落とした。


「……昔の俺も、誰かをここまで送った気がする」


その言葉を聞いた瞬間、澪の胸がきゅっと締まった。


「誰を?」


「分からない」


「どんな人?」


「それも、分からない」


黎は苦笑した。

けれど、その表情にはいつもの余裕がなかった。


澪は鍵を握ったまま、しばらく黙っていた。


本当なら、もっと聞きたかった。

誰を送ったのか。

いつのことなのか。

どうして忘れてしまったのか。


けれど、今は聞かないほうがいい気がした。


「……無理に思い出さなくてもいいよ」


黎が顔を上げる。


「どうして?」


「思い出したくない記憶まで、無理に引っ張り出す必要はないでしょう」


少しの沈黙。

やがて黎は、ほんのわずかに目を細めた。


「お前は変わっているな」


「そう?」


「普通なら、知りたがる」


「私だって知りたいよ」


澪は苦笑した。


「でも、黎さんが苦しむなら……今すぐじゃなくてもいい」


黎は何も言わなかった。

ただ、さっきまで掛けていたコートの端を、澪の肩へもう一度整える。


「……ありがとう」


「礼を言うほどのことじゃない」


「そういうところ」


「何だ」


「やっぱり、ちょっとずるい」


黎は意味が分からないという顔をした。

澪は思わず笑った。


列車が次の駅へ滑り込んでいく。

扉が開き、冷たい空気が車内へ入り込んだ。


澪は反射的にコートの襟を握る。


「寒い?」


「少し」


黎は自分の座席を少しだけ窓側へ寄せた。

そのぶん、二人の肩の距離が近くなる。


「これなら風が当たらない」


「……近くない?」


「嫌なら離れる」


そう言って黎が離れようとした。

澪は慌てて、その袖をつまんだ。


「待って」


黎が振り返る。


「……このくらいなら、大丈夫」


自分で言ってから、澪は少し恥ずかしくなった。


けれど黎は何もからかわなかった。

ただ、静かに頷いた。


「分かった」


それだけだった。


列車が再び走り始める。

窓に映る二人の姿が、暗い車内の中で並んでいた。


「ねえ、黎さん」


「何だ」


「今回の旅、どうだった?」


「悪くなかった」


「それだけ?」


「……楽しかった」


澪は少し驚いて黎を見る。


「黎さんがそんなこと言うんだ」


「俺を何だと思っている」


「もっと無愛想な人」


「ひどいな」


「だって、最初は本当に感じが悪かったもの」


黎が小さく笑う。


その笑顔を見て、澪も笑った。


北海道で吹雪の中を歩いたこと。

東北の山道で迷いかけたこと。

駅で温かい飲み物を買ったこと。

そして、誰かの「帰りたい」という気持ちに触れたこと。


まだ二度目の旅なのに、思い出はもういくつも増えている。


「また行こうね」


何気なく言ってから、澪は少しだけ戸惑った。

けれど黎は、すぐに答えた。


「ああ」


短い返事だった。

それなのに、なぜか嬉しかった。


「次はどこかな」


「お前が決めればいい」


「黎さんは?」


「お前が行きたい場所なら、付き合う」


澪は窓の外を見た。

胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。


怪異を追うための旅。

鍵の紋章を集めるための旅。


そう思っていた。


けれど今は、それだけではない気がしていた。


黎と一緒に、知らない場所へ行く。


そこで誰かの記憶に触れて、誰かの「終われなかったもの」を見つける。

そして、その帰り道に今日のことを話す。


そんな時間が、少し好きになっていた。


「ねえ」


「何だ」


「次の旅では、もう少し普通の観光もしたい」


「普通の観光?」


「うん。観光地に行って、ご飯を食べて、お土産を見て……怪異がいないところにも行きたい」


黎は少し考えた。


「それは必要か?」


「必要だよ」


「分かった」


「本当に?」


「ああ。お前が行きたいなら」


また、その言い方だった。

澪は笑いながら、窓へ顔を向けた。


「……じゃあ、次は私が考える」


「任せる」


その返事を聞きながら、澪は鍵をそっと握った。


二つの紋章が、静かに光っている。


「居場所」と「帰る場所」。


その二つが並んでいるのを見ていると、不思議な気持ちになった。

紋章を集める旅の先には、黎の失われた記憶がある。


そして、その記憶を取り戻したとき、何が待っているのか。

まだ分からない。


ただ――今は、隣にいる。

それだけでいいと思えた。


列車が長いトンネルへ入る。

窓に映った二人の姿が、一瞬だけ暗闇に溶けた。


澪は眠気の残る目を細めた。

隣から、黎の声がする。


「眠いなら、また寝てもいい」


「……今度は起こしてね」


「何時に?」


「降りる駅で」


「分かった」


少し間を置いて、黎が続ける。


「今度は、ちゃんと起こす」


澪は笑った。


「うん。お願い」


その声を聞いた黎も、ほんの少しだけ笑った。


そのころ。

誰もいない山頂駅の時計が、二十一時四十分を指していた。


もう、最終便は来ない。

それでも時計の下には、新しい文字が浮かんでいた。


《次の乗客を待っています》

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