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黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


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第20話 願いを聞く

光の中で、澪は一人の少女を見ていた。


まだ観音像が建てられるよりも前の時代。

山の麓には、小さな集落があった。


その集落で、まだ幼い少女は目に涙をいっぱい溜めて、両手を合わせていた。


「お願いします」


その前に、一人の老人が座っている。

僧侶だった。


「お母さんが、元気になりますように」


老人は静かに少女を見つめた。


「願いは、必ず叶うものではない」


「じゃあ、お願いしちゃ駄目なの?」


「いいや」


老人は微笑んだ。


「願うことは、悪いことではない」


少女が顔を上げる。


「なら……どうしたらいいの?」


「まず、聞いてもらいなさい」


「聞いてもらう?」


「人は、自分の願いを誰かに聞いてもらうだけで、少しだけ前を向けることがある」


少女は涙を拭った。


「じゃあ、聞いて」


「うん」


「お母さんが元気になりますように」


「聞いたよ」


「家族みんなで、またご飯を食べられますように」


「聞いた」


「来年も、この山で桜が見られますように」


「聞いたよ」


老人は、全部の願いを聞いた。


叶えられないものもあった。

叶ったものもあった。


それでも人々は、ここへ来た。


願いを話した。

誰かに聞いてもらった。


やがて、小さな祠が建った。


それが大きくなり。

人が増え。


いつしか巨大な観音像が作られた。


観光地として整備される頃には、全国から人が訪れるようになった。


願いを書いた絵馬が、何千枚も掛けられた。


病気が治った。

試験に受かった。

商売が成功した。

子どもが生まれた。

家族が帰ってきた。


人々は「叶えてくれてありがとう」と言った。


観音は、それを聞いていた。


嬉しかった。


もっと叶えようと思った。

もっと喜ばせようと思った。


だから、叶え続けた。


終わりなく。

いつまでも。


けれど。


いつしか観音の中には、叶えられなかった願いも積もっていった。


叶えられない。

届かない。

間に合わない。

失われる。


そんな願いまで、自分の中に抱え込んでしまった。


そして。


観音自身が、自分の役目を忘れた。

願いを叶えることだけが、自分の存在理由になっていた。


「……そうだったんだ」


澪は呟いた。


目の前の光景が消えていく。

現実へ戻る。


巨大な観音像は、今にも崩れ落ちそうだった。


黎がその前に立っている。


「何を見た?」


「最初の頃のこと」


澪は観音を見上げた。


「この子は、願いを叶えるために生まれたんじゃない」


「……何?」


「最初は、願いを聞くためだった」


黎が黙った。


「叶えられない願いもあった。でも、誰かが聞いてくれた。それだけで救われる人がいた」


澪は観音像へ近づく。


「あなたは、それを忘れてしまったんだね」


観音の身体から、無数の声が漏れた。


――叶えて。


――お願いします。


――どうか。


――助けて。


「もう、全部叶えなくていい」


澪は言った。


「願いを叶えることと、願いを受け止めることは違う」


観音像が震える。


「叶えられない願いがあっても、それを無かったことにはしなくていい」


黎が澪を見る。


その顔には、わずかな驚きがあった。


「だから」


澪は手を伸ばした。


「もう、頑張らなくていいよ」


観音像が、静かに目を閉じた。

長い沈黙。


やがて、巨大な身体に入っていた亀裂から、白い光が溢れ出した。


何千もの願いが、光になって空へ昇っていく。


病気が治ってほしい。

家族に会いたい。

幸せになりたい。

好きな人と一緒にいたい。

夢を叶えたい。


小さな願い。

大きな願い。


叶ったもの。

叶わなかったもの。


全部が夜空へ消えていく。


「……綺麗」


澪は呟いた。


黎が隣に立つ。


「願いは、消えたんじゃない」


「うん」


「誰かが願ったという事実は残る」


澪は黎を見た。


「それ、あなたが言ったことと同じだね」


「そうか?」


「うん」


黎は少し考えた。


「なら、悪くないな」


その横顔を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなった。


観音像の光が、最後の一つになる。

それは、澪の前へゆっくりと降りてきた。


小さな光だった。

鍵の形に似ている。


澪が手を伸ばす。


触れた瞬間、古い真鍮の鍵が、澪の手の中で淡く輝いた。


その表面に、新しい紋章が浮かび上がる。


――「願い」。


澪は息を呑んだ。


「これ……」


黎も鍵を見る。


「四つ目だ」


鍵には、これまでの三つの紋章が刻まれている。


**居場所。**


**帰る場所。**


**誰かに見てもらうこと。**


そして。


**願い。**


四つ目の紋章が、静かにその隣へ収まった。


「どうして、今?」


澪が尋ねる。


黎は少し考えてから答えた。


「願いを叶えたからじゃない」


「え?」


「願いを、最後まで聞いたからだろう」


その言葉に、澪は鍵を見つめた。


自分たちが集めているものは、単なる印ではない。


そこに残された人々の夢。

願い。

記憶。


そんなものが、少しずつ鍵へ戻っている。


そして。


黎の失われた記憶へ続く鍵にもなっている。


そう考えたとき。


黎の顔が曇った。


「……黎さん?」


「来る」


「何が?」


観音像の足元。

光が消えた場所から。


黒い煙が立ち上がっていた。


最初は細かったけれど、すぐに太くなっていく。

黒い煙は地面を這い、観音像へ絡みついていく。


「これは……」


澪の身体が強張る。


黎が前へ出た。


「黒残響だ」


「どうして、ここに?」


「願いがあれば、必ず希望だけが生まれるわけじゃない」


黒い煙の中から、いくつもの声が聞こえた。


――叶わなかった。


――どうして自分だけ。


――あの人は幸せなのに。


――もう期待したくない。


――夢なんて見なければよかった。


澪は息を呑んだ。


観音が抱えていた願いそのものではない。


願いが叶わなかったときに生まれ、誰にも受け止められず、忘れられようとした感情。


それが、いくつもの場所から集まり、絡み合っている。


後悔。

嫉妬。

絶望。

失望。


黒い煙が、二人の前でゆっくりと形を変える。


人のようで。

人ではない。

顔がない。


「夢を見なければ」


声がした。


「失望しない」


黎が目を細める。


「……黄昏に近い」


澪は黎を見る。


「黄昏?」


「まだ、断定はできない。だが、これは一つの場所だけから生まれたものじゃない」


黎は黒い煙を見据えた。


「気をつけろ。ここにある感情だけじゃない」


黒い影の向こうから、さらにいくつもの輪郭が浮かび上がってくる。


一つ。


二つ。


三つ。


四つ。


そして。


五つ目の輪郭が、ゆっくりと顔を上げた。


「夢を見なければ、誰も傷つかない」


その声は、まるで誰かを救おうとしているように、優しかった。

だからこそ、澪は怖かった。


黒い影が、笑ったように見えた。

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