06 決戦の食卓
夕食の支度が大詰めを迎えたヴァルグレイブ邸の厨房。
仕込みはすべて終わり、あとは魚や肉を焼き上げて皿に盛りつけるだけだ。
煮込み鍋から立ちのぼる湯気と、焼き台の炭火から伝わる熱気の中、料理長はスープの最後の味見をしていた。
ひと匙すくい、舌の上で転がす。そのとき不意に、耳の奥であの声がよみがえった。
『家畜でも、もっとマシなものを食べますわ』
——あのときの言葉を、今も忘れられずにいる。
リリアンナが辺境伯邸に来るよりも前のことだ。
ヴァルグレイブ家の価値を知る貴族家の当主たちは、こぞってガレスへ縁談を持ちこんだ。その顔合わせのため、この屋敷でも何度か会食が開かれた。
もっとも、乗り気なのは当主たちと、ガレスを含むヴァルグレイブ家の面々ばかりで、当の令嬢はみな浮かない顔をしていたのだが。
それでも、辺境伯家の未来がかかった大切な席である。
料理人たちは夜明け前から王都の市場を回り、上等な食材を惜しみなく使って辺境の郷土料理を作り上げた。
雪深い故郷で代々受け継がれてきた、ヴァルグレイブの味。未来の奥方様に辺境を知ってもらうのに、これ以上のもてなしはない。誰もがそう信じていた。
けれど会食に訪れた令嬢たちは、運ばれてきた料理を見るなり顔をしかめた。皿から目を逸らし、ほとんど口をつけないままナイフを置いてしまう。
中でも、ひときわ辛辣だったのは、艶のある黒髪に深紅のドレスをまとった美しい侯爵令嬢だった。
給仕たちが思わず見とれるほどの整った顔立ち。それが料理を前にした途端、露骨に歪んだ。
「まあ……辺境の方々は、これを『お料理』とお呼びになるのね」
侯爵令嬢は冷ややかに皿を見下ろした。扇の先で、汚れ物にでも触れるように皿の縁をつつき、そのまま遠くへ押しやる。
「家畜でも、もっとマシなものを食べますわ」
食堂が、しんと静まり返った。
同席していた侯爵が慌てて窘めたが、娘は意に介さずに不満を並べ立てつづける。
その間ずっと、ガレスは険しい顔で黙りこんでいた。だが悪態はやむ気配がなく、ついに彼は席を立った。
「……本日は、お引き取りください」
低く押し殺した声に、侯爵が青ざめて娘の腕を引く。それでも彼女は優雅に扇を閉じると、ガレスを見上げ、赤い唇の端を吊り上げてみせた。
「お料理も、お屋敷も、使用人も、何もかも田舎くさいこと。こんなところに嫁ぐなんて御免ですわ。修道院に入ったほうが、まだましというものです」
居合わせた者たちが唖然とするなか、彼女は深紅のドレスの裾を翻して悠然と食堂を出ていった。
その日、厨房へ戻ってきた皿はどれもひと口も減っていないまま。料理人たちが黙って肩を落としていると、扉が開きガレスが入ってきた。
「せっかくの料理を無駄にさせてしまいました。……すみません」
大きな身体を折るようにして、ガレスは料理人たちに頭を下げた。
料理長は返す言葉も見つからなかった。謝られるべきなのは旦那様ではない。大切な席を台無しにしたのは、自分たちの料理のほうだ。料理長はただ黙って頭を下げ返した。
——料理長は、味見の匙を置く。
あの日以来の客人を迎えての夕食だった。いや、ただの客人ではない。旦那様の仮の婚約者——未来の奥方様になるかもしれない方だ。
だからこそ料理長は数日前、ガレスに尋ねていた。今回は王都風の料理に寄せたほうがよいのではないか、と。
ガレスは少しも迷わなかった。
「辺境の料理を出してください。……うちの料理は、とても美味しいですから」
あの日、ひと口も食べてもらえなかった料理を、旦那様はそう言ってくれたのだ。
「旦那様方が食堂の席につかれました!」
扉から顔を出した使用人の声に、厨房の空気がぴんと張りつめる。
料理人たちが一斉に焼き台へ向かい、下ごしらえを終えた川魚と鹿肉が、次々と火の上に並べられていった。
「……料理長。本当に、いつもどおりで大丈夫でしょうか」
若い料理人がおそるおそる尋ねると、料理長は短く答えた。
「ああ。いつもどおりだ」
そう言って顔を上げ、厨房をぐるりと見渡した。
「俺たちのやることは変わらん。辺境の料理人として、作れる最高のもてなしを出す。それだけだ」
料理人たちが力強く頷いた。
焼き網の上で川魚の皮がぱちりと弾け、切り分けた鹿肉が皿いっぱいに盛りつけられていく。香ばしい匂いが厨房に満ちる。
最初の料理が仕上がると、給仕が二人分のスープを載せた盆を両手で持ち上げた。全員の視線が、その盆に集まる。
「頼んだぞ」
料理長の短い声に、給仕は盆を手にしたまま神妙な顔で頷いた。
「はい。……今日こそ、空っぽのお皿を持って帰ってきます」
「ああ。待ってるからな」
料理長が笑って返すと、張りつめていた厨房の空気が少しだけゆるむ。
給仕は料理人たちに見送られながら扉をくぐり、そのまま食堂へと向かった。
中央のテーブルでは、ガレスとリリアンナが向かい合って席についていた。ガレスは軍議の場にでもいるように背筋を伸ばし、大きな身体をぴくりとも動かさない。一方のリリアンナは、小柄な身体で椅子にちょこんと収まっている。
給仕は二人の前に、湯気の立つ皿を置いた。
「こちらは、芋と玉ねぎをミルクで煮込んだスープでございます」
「ありがとうございます。……とても良い香りですね」
リリアンナがにこりと微笑みかける。
途端に、給仕の顔が耳まで真っ赤に染まった。「い、いえっ」と上ずった声で答え、必要以上に深く頭を下げると、ぎくしゃくとした足取りで厨房へ戻っていく。扉の向こうに姿が消えた直後、がたんと何かにぶつかる音が響いた。
リリアンナは不思議そうにまばたきをしてから、膝の上で手を重ねたまま、ガレスがスプーンをとるのを待つ。けれど、いつまでたっても彼の手は動かない。
(辺境伯様……お召し上がりにならないのかしら? もしかして、辺境には何か特別な作法があるの……?)
重ねた指先が落ち着きなく動く。スープとガレスの顔のあいだを、瑠璃色の瞳だけが行ったり来たりする。
その様子に気づいたのは、壁際に控えていた執事長のハンスだった。
彼は音もなくテーブルへ歩み寄ると、穏やかな笑みを浮かべて一礼する。
「失礼いたします、リリアンナ様。王都では一皿を召し上がり終えてから次のお料理をお運びするのが習わしかと存じますが、辺境では先にすべてのお料理をテーブルにお並べしております」
ハンスはそこで一度言葉を切り、目元の皺を深くした。
「すぐにほかのお皿もお持ちいたしますので、どうぞ今しばらくお待ちくださいませ」
「まあ……そうでしたのね。教えてくださって、ありがとうございます」
リリアンナは、ほっと息をついた。
下がっていくハンスを見送り、料理を待つあいだに食堂を見回す。
リリアンナたちが囲むテーブルには真っ白なクロスがかけられ、磨かれた燭台と花を活けた花瓶が食卓を彩っていた。
けれどその周りには、飾り気のない木のテーブルとベンチがいくつも並んでいる。クロスのない天板は遠目にも飴色にくすみ、長く使い込まれてきたことがうかがえる。まるで、物語の挿絵で見た町の酒場のようだ。
壁には盾や剣がかけられ、そのあいだを額入りの勲章が埋めつくしている。花や絵画の代わりに武具が飾られているあたりが、いかにも武門の家らしい。
普段は屋敷の者たちが皆で使っている部屋なのだと、案内のときにハンスが教えてくれた。家族と客人だけが使い、華やかに整えられた貴族の食堂とは、まるで趣が違う。
その光景に、リリアンナの目はあちこちへ吸い寄せられていく。
できればもっと眺めていたかったが、ぐっとこらえて視線を戻した。膝の上で両手を握り、背筋をまっすぐに伸ばす。
(今夜は、辺境伯様との初めてのお食事……。落ち着いて、お淑やかに。悪い印象だけは残さないようにしなくては)
リリアンナは唇をきゅっと引き結び、心の中で強く頷いた。
そこへ厨房の扉が開き、料理が運ばれてきた。
縁を折り込んで舟の形にしたパイ。皮目がぱりっと焼けた魚。そして、深い赤色のジャムを添えた厚切りの肉のロースト。
どの皿にもあふれんばかりに料理が盛られ、白いクロスはみるみるうちに皿で埋まっていった。
立ちのぼる湯気に乗って、バターの甘い香りと、焼けた脂の匂いがテーブルいっぱいに広がる。
リリアンナは瑠璃色の瞳を見開いた。
(……まあ!)
「……辺境の料理です。口に合うといいのですが。温かいうちにどうぞ」
ガレスの言葉に促され、リリアンナは改めてテーブルの上を見渡した。
どの皿も、一度も目にしたことのない料理ばかりだ。見ているだけで胸が弾み、自然と目が輝いてしまう。
(どれからいただくのが作法なのかしら……)
リリアンナの知る晩餐なら、前菜に始まり、スープ、魚、肉と、運ばれてくる順番が決まっている。
ここでは、すべての皿が一度に並んでいて、どれが前菜なのかも分からない。
彼女は少し迷ったあと、ひとまず手前のスープへスプーンを伸ばした。
食堂じゅうの視線が、その小さな口元に集まる。
とろりとしたミルクのまろやかさのあとに、バターのコクとしっかりとした塩気が追いかけてくる。舌の上でほろりと崩れた芋がスープに溶けこみ、その味わいをいっそう深くする。身体の奥までじんわりと温まった。
「……美味しい」
思わずこぼれた声に、食堂の空気がふっと和らいだ。
ガレスの膝の上で、固く握られていた拳がゆっくりとほどけていく。
ひと口目を皮切りに、リリアンナは一皿ずつ丁寧に料理を味わっていった。
小舟のような形のパイを割ると、さっくりとした生地の中から粥が顔を出す。皮目を焼いた魚は、ナイフを入れた途端に白い身がふわりとほぐれた。甘酸っぱい木の実のジャムを肉に添えて口へ運べば、野趣のある肉の旨みの中で、ほのかな酸味がすっと後味を軽くしていく。
初めての味ばかりなのに、ひと口ごとに、もうひと口が欲しくなる。
食べ進めるほどに、胸のうちには小さな感動と疑問が次々と湧き上がってきた。
(パイの中のお粥は何かしら。オーツ麦とも違うみたい……)
(このお肉、牛とも羊とも違う風味だわ。いったい何のお肉なのかしら)
(どのお料理も味がしっかりしていて、脂も多めなのは……寒い土地だから?)
聞いてみたいことは尽きない。けれど、ついさっき今夜は大人しくしていようと決めたばかりなのだ。
リリアンナはナイフとフォークを握り直し、喉元まで出かかった質問を、ひと口のパイと一緒に飲み込んだ。
それでも、次の皿へ向かう視線だけは、どうにも抑えきれない。
リリアンナがためらいなく料理を口へ運ぶ姿に、壁際の給仕たちは顔を見合わせて頬を緩め、ハンスは満足げに目を細めた。
厨房へ続く扉の隙間には、いつの間にか料理人たちの顔がひしめいている。
「……召し上がってくださってる」
「パイも、魚も、肉も……全部だぞ」
強張っていた料理長の顔が、くしゃりと崩れる。若い料理人は袖でごしごしと目元を拭った。
食卓では、ガレスがじっとリリアンナを見つめていた。
これまで彼の目は、彼女が料理を口にしてくれるかどうか、ただそれだけを追っていた。その心配が消えると別のものが目に入ってくる。
上品な作法は崩さないまま、リリアンナは切り分けた料理を小さな口へ運んでいた。懸命にもぐもぐと口を動かすたびに、柔らかな頬がふっくらと膨らむ。
ガレスは自分のスープをひとすくいしてみた。スプーンの上に乗った芋は、自分にとってはちょうどいいが、彼女の口には大きいかもしれない。
(明日からは、もっと小さく切ってもらうよう料理人に伝えよう。いや、今からでも切り直してもらったほうが……)
そう思いながらも、視線はまた向かいの彼女へ引き戻される。ひたむきに料理を味わうその姿は、まるで冬の野で無心に草を食む雪兎のようだ。
(……可愛い)
気づけば、ガレスのスプーンは皿の上で止まったままになっていた。ひと口ごとに動く頬を、ただ夢中で追いかけている。
その熱心すぎる視線が、思わぬ誤解を招くとも知らずに。




