05 可愛すぎる仮婚約者
客間から飛び出してきたエマは、ガレスの胸元すれすれで、かろうじて踏みとどまった。
けれど今のエマには、主人にぶつかりかけたことを気にする余裕すらないらしい。振り向きざまにドアノブを両手でつかみ、急いで引き寄せる。
ばたん、と扉が閉まった。エマはくるりと身をひるがえし、その扉に背中を預ける。
「はぁ……はぁ……」
その顔は、首まで真っ赤に染まっていた。両手で胸元をぎゅっと押さえたその姿は、まるで部屋の中で何かに出くわし、命からがら逃げてきたかのようだった。
「エマ?」
フィーネが声をかけても、エマは扉に張りついたまま、首を横に振るだけだ。
「む、無理です……あれは、もう無理です……」
その言葉に、ガレスの顔色が変わる。
「……中で何かあったのですか」
低く押し殺した声に、廊下の空気が張りつめた。
すると、エマの首が、ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎこちなくガレスのほうへ回った。
「だ、旦那様……リリアンナ様が……」
ガレスの喉が、ごくりと鳴る。
「リリアンナ様が……か……か……」
エマの唇が震えた。
誰もが息を詰めて、続く言葉を待つ——その瞬間。
「可愛すぎますっ!!」
廊下中に響きわたる大声だった。
エマは扉から背中を離すと、その勢いのままガレスに詰め寄った。軍服の袖をつかみ、ぶんぶんと振り回す。
「旦那様! あんなに可愛らしい方がこの世にいらっしゃるなんて、聞いてませんっ!」
「こら、エマ! やめなさい!」
フィーネが慌てて止めに入るが、エマの手は止まらない。
もっとも、どれだけ振り回されても、ガレスの太い腕はわずかに揺れるばかりで、本人はびくともしていなかった。
困り果てたガレスが、レオンへ視線を向ける。
レオンは額に手を当て、深々とため息をついた。
「……エマ。最初から順を追って話してください」
そこでようやくエマの手が止まった。
それから彼女は、ほんの少し前——扉の向こうで起きた出来事を、身振り手振りを交えてまくしたて始めた。
◇◇◇
それは部屋の説明をひととおり終えたときのことだった。
衣装棚の使い方から、暖炉の火の加減まで。ひとつ話すたびに、リリアンナは丁寧に頷いてくれる。その様子にすっかり気をよくしながら、エマは最後まで説明を終えた。
「丁寧に教えてくださって、ありがとうございます。エマさん」
頭を下げられて、エマははっと両手を振った。
「リリアンナ様! 私にはそんなにかしこまらなくて大丈夫です! それに、エマって気軽に呼んでもらえたら嬉しいです!」
エマの言葉に、リリアンナは長い睫毛をぱちぱちと瞬かせた。瑠璃色の瞳が驚いたように丸くなる。
何かおかしなことを言っただろうか——エマがきょとんとしていると、リリアンナの視線が、胸の前で重ねた指先へと迷うように落ちた。
「ええと……」
小さな唇が、ためらいがちに言葉を探す。
それから、おずおずと顔を上げて——。
「では……よろしくね、エマ」
白い頬がほんのりと朱に染まり、ミルクティー色の髪がさらりと揺れる。はにかむように笑ったその顔は、春の陽だまりをそのまま閉じこめたようだった。
そのあまりに可憐な笑顔を正面から浴びて、エマは思わず胸を押さえた。
「ううっ……!」
(な、なんて破壊力……! 可愛い、可愛すぎる……! こんなの耐えられない!)
じり……っと、一歩後ずさる。
「え、エマ……? 大丈夫?」
心配そうに小首を傾げる仕草まで愛らしくて、エマはもう限界だった。
「す、少しだけお待ちください!」
「えっ……」
呆気に取られるリリアンナを残し、エマは部屋を飛び出した。
——そして、今に至る。
「笑って! 名前を呼んでくださって! しかも照れながら! もう本当に可愛くて、心臓がもちません!」
エマはガレスの袖をがしっとつかみ、身を乗り出して訴える。
「旦那様、分かりますか!? あの笑顔ですよ!? あんなに綺麗な方が、あんなに可愛らしく照れるんですよ!?」
袖をつかまれたままのガレスは、否定もせずに黙り込んでいた。
否定などできるはずもない。つい先ほど、自分もあの笑顔に胸を射抜かれたばかりなのだ。これほど可憐な人が本当に存在するのかと、今でも信じられずにいる。
ふと、王宮での言葉が耳の奥によみがえった。
『楽しみにしておくといい。会ったら、たぶん驚くぞ』
(殿下が言っていたのは、このことか……!)
策士の幼馴染の、あのにやにや笑いが目に浮かぶ。きっと、こうなることを見越して、面白がっていたに違いない。
「どどどど、どうしましょう!」
(どうすればいいんだ……)
「……ええ。お越しになったばかりのご令嬢を、部屋に一人きりにして。いったいどうしたものでしょうね」
レオンの冷ややかな一言に、エマの顔からさっと血の気が引いた。
そのとき、客間の扉がそっと開いた。隙間から、リリアンナが恐る恐る顔を覗かせる。
「あの……」
廊下にいた全員が、びくりと肩を跳ねさせた。ガレスは慌てて背筋を伸ばし、エマは弾かれたように袖から手を離す。
リリアンナは廊下の顔ぶれを見回したあと、エマのところで視線を止め、眉を下げた。
「エマ、大丈夫? 急に出ていってしまったから、具合でも悪いのかと……」
またしても直撃を受けたエマの顔に、一瞬で血がのぼった。その隣で、なぜかガレスまでうなじを赤くしている。
レオンが半眼で二人を見やり、フィーネがすかさず一歩前へ出た。
「失礼いたしました、リリアンナ様。侍女のフィーネと申します。エマは少々慌て者でして、ご心配をおかけしてしまいました」
フィーネに肘でつつかれ、エマもはっと我に返る。
「も、申し訳ございません! 慌て者で……! とっても元気です!」
エマがこくこくと何度も頷く。
その様子に、リリアンナはほっとしたように息をつき、ようやく扉の陰から身体を出した。
「そう、よかった……」
そこですかさず、レオンがガレスに耳打ちした。
「閣下。夕食のお誘いを」
「……っ」
ガレスは一歩前へ出て、ぎこちなく口を開いた。
「……疲れてはいませんか」
「はい。大丈夫です」
「……そうですか。その、夕食の準備ができたようなのですが……よければ、一緒にどうでしょう」
「ありがとうございます。ぜひご一緒したいですわ」
リリアンナがふわりと微笑む。
ガレスは返事も忘れて、その場に立ち尽くした。
大きな手が、何かをこらえるように、ぎゅっと拳を握りしめる。
「……閣下。感動するのは後にしてください。ほら、ご案内を」
レオンに小声で急かされ、ガレスは慌てて顔を上げた。
◇◇◇
食堂へ続く廊下を、二人は並んで歩いていた。
普段のガレスは長い脚で大股に歩く。レオンでさえ、急ぎのときは小走りにならなければ追いつけないほどだ。
それが今は、リリアンナの小さな歩幅に合わせ、一歩一歩を確かめるようにゆっくり進んでいる。そのうえ心なしか背を丸め、肩をすぼめていた。二メートル近い巨体を少しでも小さく見せて、威圧感を与えまいとしているのだ。
もっとも、ガレス本人は気が気でなかった。
隣を歩く彼女は、まるで雪原で見かける小さな雪兎のようだった。うっかり触れれば、それだけで壊してしまいそうなほど華奢で、頼りない。
間違っても、ドレスの裾を踏んだり、肘を当てたりしてはならない。
歩幅はこれで合っているだろうか。速すぎないか。近すぎないか。
一歩進むごとに隣の様子をうかがいながら、ガレスはおっかなびっくり足を運んでいた。
少し後ろを歩くレオンは、さすがにやりすぎだと苦笑しつつも、そんな主の背中を温かく見守っている。
後ろから見ても分かるほどなのだ。隣を歩くリリアンナが気づかないはずもなかった。
自分に合わせた穏やかな歩調。窮屈そうに縮こめられた大きな体。
(……わたくしを怖がらせないようにしてくださっているのね)
思わず見上げると、その視線に気づいたガレスがこちらへ顔を向けた。
目が合った途端、ガレスははっとしたように口元へ力を込める。頬を持ち上げ、眉を下げ、精いっぱい柔らかい表情を作ってみせる。
「どうしましたか」
お世辞にも自然とは言いがたい、ぎこちない笑顔だった。その懸命さだけは、リリアンナにも痛いほど伝わってきた。
(この方は……それだけ、怖がられてきたのね)
その気遣いが嬉しい。それと同時に、ここまでしなければならなかったこれまでを思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
とはいえ、ずっとこの調子ではガレスのほうが疲れてしまうだろう。いつかは、そんなに気を張らなくても大丈夫だと伝えたほうがいい。
けれど、それは今日でなくてもかまわない。今はその優しさをありがたく受け取ることにした。
リリアンナはそのことには触れず、代わりに別の話を切り出した。
「お部屋のこと、ありがとうございました。とても細やかにお心遣いをいただいたと、エマから伺いました」
「……気に入っていただけましたか」
「はい、とても。選んでいただいたお花も、本当に可愛らしくて」
ガレスの肩が、わずかに揺れた。
自分が花を用意したことまで伝わっているとは思わなかった。
リリアンナは嬉しそうに目を細めている。
ガレスの用意したものを喜び、隣を怯えることなく歩き、今は彼を見上げて笑っている。
(これが……俺の婚約者……)
正確には仮の、ではあるのだが。
その事実に浸るうちに、ガレスはいつの間にか足を止め、じっとリリアンナを見つめていた。
突然立ち止まったガレスに、リリアンナは戸惑った。
彼は真顔のまま、無言でこちらを見下ろしている。鋭い金色の瞳は、瞬きすら忘れたように動かない。
(わ、わたくし、何か失礼なことを申し上げたかしら……)
リリアンナの笑みが、少しずつ不安げに揺らいでいく。
たまりかねたレオンが、後ろからガレスの背を小突いた。
「——はっ!」
ガレスが我に返る。
「す、すみません。行きましょう」
「は、はい……」
再び歩き出しながら、リリアンナはちらりと隣を見上げた。
ガレスは前を向いたまま、どこか決まり悪そうに口元を引き結んでいた。
(怒っていらっしゃる……わけでは、なさそう?)
リリアンナは小さく首を傾げた。
ぎこちなく並んで歩く二人の後ろで、レオンはやれやれと肩を落とした。
(……先が思いやられる)




