改稿中☆52 崩れていく家
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
「これは何だ」
低い声が、朝の食堂に落ちた。
ボーマン・バーリンガムは、目の前に置かれた一枚の紙を睨みつけていた。王都でも名の知れた仕立屋から届いた請求書である。
「何って、わたくしのドレスですわ」
向かいに座る妻は、紅茶を飲みながら不思議そうに首を傾げた。
「何着か新しくお願いしただけですもの。それから、今度のお茶会用に食器も少し」
「茶会だと?」
「ええ。最近は皆様、なかなか我が家へいらしてくださらないでしょう? ですから、こちらからお招きしようと思いまして」
ボーマンのこめかみに青筋が浮いた。
「茶器などいくらでもあるだろう! 無駄に金を使うなと言っているのだ!」
拳が卓を叩き、銀器が跳ねた。妻は肩をすくめただけで、手にしていた紅茶をゆっくりと一口飲んだ。
「そんなに大きな声を出さなくても。どれも必要なものですわ。ドレスだって、同じものばかり着てお茶会へ出るわけにはいきませんでしょう?」
妻にとっては、本当にそれだけの話なのだ。
欲しいものがあれば買い、必要になれば新しく揃える。かつてのバーリンガム侯爵家では、それで何の問題もなかった。
実際、以前は多少贅沢をしたところで揺らがないだけの財力があった。
だが今は違う。
王都の公共事業に関する権限を失ったことで、そこから得ていた利益も大きく減った。付き合いのあった商人や貴族の中にも、距離を置く者が増えている。
領地も資産も残っているため、すぐに家計が立ち行かなくなるわけではない。それでも、以前と同じ感覚で金を使い続けられるほどの余裕は、もうバーリンガム侯爵家にはなかった。
ボーマンとて、何もしていないわけではない。
バーリンガム侯爵家は建国以来、王都の街道、橋、城壁といった公共の造営に深く関わってきた家である。ボーマンもまた、先代たちが積み上げてきたその仕事を引き継いできた。
だから初めは、そこから戻そうとした。
かつて世話をしてやった官僚へ手紙を書き、古い伝手を頼り、王宮にも何度も足を運んだ。
橋の補修でも、街道の一区画でもいい。何か一つでも仕事を取り戻せれば、そこからまた以前のように立て直せる。
ボーマンはそう考えていた。
しかし返ってくるのは、どれも同じ言葉だった。
「その件は、すでに別の家が」
王家が一度手放させた仕事を、わざわざ戻す理由がない。ましてや、かつてボーマンの傲慢な振る舞いに振り回されてきた者たちは、今さら彼へ手を差し伸べようとはしなかった。
半年ほど粘って、ようやくボーマンも諦めた。
ならば新しい事業だ。
商会を屋敷へ呼びつけ、共同での出資を持ちかけた。資材の買い付け、王都近郊の開発。バーリンガム侯爵家の名を使わせてやるのだから、向こうにとっても悪い話ではない。
少なくとも、ボーマンはそう思っていた。
だが、誰も乗らなかった。
彼らはボーマンという男を、長年の付き合いの中で嫌というほど知っていた。
景気のいい話ばかりを大きく語り、都合の悪い数字には耳を貸さない。職人が無理だと言えば怠慢だと決めつけ、いざ問題が起これば、責任は必ず下の者へ押しつける。
権限があった頃は、それでも従うしかなかった。逆らえば仕事が来なくなるからだ。
しかし、今は違う。
もうバーリンガム侯爵家の機嫌を取る必要はない。それならば、わざわざボーマンと組んで危ない橋を渡ろうという者などいなかった。
先日など、三代にわたって取引のある商会へ自ら足を運んだ。以前なら、主人が門の外まで迎えに出た相手だ。
その日、ボーマンは控えの間で一刻近く待たされた。ようやく現れたのは主人ではない。自分の息子ほども年若い番頭だった。
「生憎、主人は外しておりまして」
番頭はそう言って丁重に頭を下げ、それ以上話を取り次ごうとはしなかった。
そのとき、ボーマンは嫌でも理解した。
これまで自分を支えてきた「バーリンガム侯爵家」という名が、もう以前ほどの力を持っていないことを。
「でも、みすぼらしい格好をしていたら、バーリンガム家まで落ちぶれたと思われてしまいますわ」
「お母様のおっしゃるとおりですわ。こんなときだからこそ、もっと華やかに振る舞うべきでしょう?」
「お前まで黙っていろ!」
矛先が自分へ向き、デボアの眉がつり上がった。
「何よ! どうしてわたしまで怒られなくてはいけないの!」
「お前がシャルテンロー侯爵夫人のサロンで問題を起こしたからだ!」
あの日以来、状況は目に見えて悪くなっていた。
ヴィクトワール・ド・シャルテンローは、王家や高位貴族からの信頼も厚い夫人である。そのサロンで、デボアは侍女へ手を上げようとし、止めに入った客人まで傷つけた。
しかも最後まで謝罪すらしなかった。
翌日には、シャルテンロー侯爵家から事の顛末を記した書状が届いている。
同じ日、ボーマンはデボアに付けていた侍女にも暇を出した。娘の暴走を止めなかった役立たずだと怒鳴りつけたのだ。
もっとも、侯爵令嬢であるデボアを一介の侍女にどう止めろというのか。そのことを考えれば、侍女だけを責めても仕方がないことくらい、ボーマン自身にも分かっていた。それでも、誰かに責任を負わせずにはいられなかった。
それ以降、以前なら毎週のように届いていた茶会や夜会の招待状は、数えるほどしか来なくなった。
「わたしは悪くありませんわ! あの侍女が——」
「黙れ! 侯爵家の侍女へ手を上げようとしただけでも問題なのに、それを庇ったルベルハルト伯爵令嬢に怪我までさせたのだぞ!」
デボアは唇を尖らせた。
「全部、あの女が邪魔をしたからでしょう」
「まだそんなことを言うのか!」
ボーマンは頭を抱えた。
家を立て直そうと娘をシャルテンロー侯爵夫人へ預けたはずが、結果は逆だった。
それどころか、以前ならまだ持ち込まれていたデボアへの縁談まで、あの一件を境にぱたりと途絶えている。
美しい。
娘には、それだけで誰にも負けない価値があると思っていた。
だから幼い頃から、欲しがればドレスを与え、宝石を与え、華やかな社交の場へ連れ歩いた。
デボアが美しく着飾って笑えば、周囲は口々に褒めそやした。
勉強が嫌だと言えば無理にさせず、面倒なことは使用人に任せればいいと教えた。美しささえあれば、娘は何不自由なく生きていける。
ボーマンは、本気でそう信じていたのだ。
「だいたい、お父様が言ったのでしょう!」
デボアが声を張り上げた。
「わたしは誰より美しいんだから、欲しいものは何でも手に入るって! 勉強なんて嫌ならしなくていい、そんなものは他の者にやらせればいいって!」
「いつまでそんな昔の話を持ち出すつもりだ! 二十にもなって、いつまでも親の言葉を言い訳にするな!」
「何よ!」
「あなた、朝から怒鳴らないでくださる?」
「誰のせいだと思っている!」
壁際に控える使用人たちは、誰一人として顔を上げない。いつものことだと言わんばかりに、ただ息を潜めて嵐が過ぎるのを待っていた。
そのときだった。
「旦那様」
執事が、一通の封書を手にして食堂へ入ってきた。
「王宮より、招待状が届いております」




