改稿中☆51 ダンス練習
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
「もう少し締めますね」
「ええ、お願い」
エマの声に合わせて背中の紐が引かれ、コルセットが締まる。リリアンナは鏡に向かって、ゆっくりと背筋を伸ばした。
今日はガレスとのダンス練習の日だった。
まとうのは本番用のドレスではなく、手持ちの中から動きやすいものを選んでいる。裾も普段より少し短く、足さばきが見えやすい。
「はい、できました」
エマが最後の紐を結び、鏡越しに主を覗き込んで、おや、という顔をした。
「リリアンナ様、なんだか嬉しそうですね」
「……そう見えますか」
リリアンナは、少し恥ずかしそうに笑った。
ここしばらく、屋敷の中はずっと慌ただしかった。婚約発表の準備で、ガレスは王宮との打ち合わせや領地から届く書状に追われ、リリアンナはリリアンナで、衣装の調整やら当日の段取りの確認に時間を取られていた。食事も一緒に取れない日が多い。
先日、談話室でようやく二人きりになれたと思ったのも束の間だった。
「今日はダンスの練習でしょう? ガレス様とたくさん一緒に過ごせますから嬉しいですわ」
エマがわざとリリアンナの口調を真似して言う。
「もう、エマ!」
「ふふっ」
リリアンナが慌てて鏡から目を逸らす。エマは楽しそうに笑っていた。
◇◇◇
支度を終えた二人は、練習に使う部屋へ移った。
家具を壁際へ寄せた部屋には、踊るのに十分な空間ができていた。部屋の隅では、呼ばれてきた楽師が弦の調子を確かめている。
エマは楽譜を譜面台へのせながら、ふと漏らすように言った。
「でも、ダンスって難しそうですよね。私なんて、全然踊れる気がしません」
「そうかしら。基本さえ分かれば、それほど難しくありませんわ」
「あはは。それはリリアンナ様だからですよ」
幼い頃から教養として習ってきた令嬢と、ステップの名前すら知らない平民とでは、そもそも話が違う。
「では、踊ってみましょうか」
「えっ?」
振り返ると、リリアンナが悪戯っぽく笑って片手を差し出していた。
「わたくしが男性役をいたしますわ」
「いやいやいや、無理ですよ! 私、本当に何も知りませんって!」
「大丈夫よ」
リリアンナは慌てるエマの手をするりと取ると、もう片方の手を正しい位置へ導いた。
「曲をお願いできますか」
部屋の隅で待機していた楽師へ声をかけると、相手は頷いて弓を構えた。
やがて、軽やかな旋律が室内に流れ始める。
「ほ、本当にやるんですか?」
「ええ。わたくしについてきて」
そう言って、リリアンナは最初の一歩を踏み出した。
エマはやはり戸惑った。どちらの足を、どこへ出せばいいのか分からない。
けれど、リリアンナに手を添えられたまま立っていると、不思議と身体がその動きについていった。
右へ。
左へ。
前へ。
「次は回りますわ」
「ま、回るんですか!?」
「大丈夫」
リリアンナに導かれるまま身体を動かす。
くるり。
気づけば、エマはきちんと回転を終えていた。
「あれ?」
目を丸くする。
「私、踊れてません?」
「踊れていますね」
「なんでですか!?」
リリアンナがくすりと笑った。
「リードで大切なのは、自分が上手に動くことだけではないの。次にどちらへ動くのかを、お相手へ先に伝えてあげるのよ」
「伝える……?」
「ええ。手で引っ張るのではなくて、身体の向きや重心で『次はこちらです』と教えてあげるの。そうすれば、ステップをすべて覚えていなくても、無理なくついてこられるでしょう」
そう言いながら、リリアンナがわずかに肩を開いた。それだけで、エマの足は素直にそちらへ滑り出す。
「ダンスは、間違えずに踊ることより、二人の間で次の動きが通じていることの方が大切なの。こちらが『次はこうしたい』と伝えて、お相手がそれに応えてくだされば、それで踊れるのよ」
「へえ……」
感心している間にも、リリアンナの足は止まらない。
最初は足元ばかり見ていたエマも、次第に顔を上げられるようになった。リリアンナが身体を向ければ、次にどこへ行くのか分かる。手を添えられれば、迷わず回れる。そうしているうちに、一曲が終わっていた。
「はい、おしまい」
リリアンナはエマの手を取り、男性役らしく優雅に一礼した。
エマはぽかんと彼女を見つめた。
いつもは小さくて可愛らしく、守ってあげたくなるような主人である。
けれど今、目の前にいるのはいつものリリアンナとは少し違った。
堂々と相手を導き、当たり前のように場を掌握している。その整った容貌も相まって、まるで物語から抜け出してきた王子様のようだった。
「……リリアンナ様、格好いいです」
「まあ。ありがとうございます」
当の本人は、なぜそんな感想が出てきたのか、あまり分かっていないらしい。
エマはすっかり楽しくなって、手を打った。
「じゃあ、そろそろ旦那様を呼んできましょうか」
そのとき、扉が開いた。
「リリアンナ様……」
入ってきたのはフィーネだった。しかし、いつもの落ち着いた表情ではなく、何とも言えない難しい顔をしている。
「フィーネさん? どうかなさいました?」
「その……旦那様のことで、少々……」
「ガレス様?」
歯切れが悪い。
リリアンナとエマは顔を見合わせ、黙ってフィーネについていった。
◇◇◇
フィーネに案内され、三人は別の広い部屋の前までやって来た。
「こちらです」
なぜかフィーネは、すぐに扉を開けようとはしなかった。わずかに開けた隙間から、まず中を覗く。リリアンナとエマも、その後ろからそっと顔を出した。
そして。
「……まあ」
「あわわ……」
まず目に飛び込んできたのは、部屋の隅の惨状だった。
床に座り込んだまま動かない使用人。足を押さえてうずくまっている文官。壁にもたれ、天井を仰いで遠い目をしているのはレオンだった。そのさらに奥では、兵士が一人、どういう経緯でそうなったのか分からない姿勢で長椅子へ突っ込んでいた。
そして部屋の中央。
「では、いきます」
「は、はい……!」
ガレスと使用人が向き合って立っていた。
ガレスの表情は真剣そのものだった。対する使用人は、明らかに怯えている。
二人が動き出す。ガレスは足元へ視線を落とし、一つひとつ確かめるようにステップを踏んでいく。
「……あ」
リリアンナには、すぐに分かった。
ガレスは自分の足しか見ていない。次にどこへ進むのか、相手へ何一つ伝えていないのだ。
長い脚が大きく踏み出される。進行方向を読めなかった使用人の反応が、わずかに遅れた。
どすん。
「ぐあっ……!」
二メートル近い巨体に思いきり足を踏まれ、使用人は膝から崩れ落ちる。
「ひいっ!」
エマが悲鳴を上げた。
ガレスが、はっと扉のほうを振り向く。そこに立っているのが誰か理解した瞬間、その顔から血の気が引いた。
「リリアンナ……」
ガレスは慌てて使用人を助け起こし、何度も詫びてから——ひどく恐縮した様子でリリアンナたちのもとへ歩いてきた。
近づいてくるにつれて、その肩が普段より落ちているのが分かる。
これまで何人と組んでも、うまくいかなかった。足を踏む。相手が転ぶ。動きが噛み合わない。長椅子へ突っ込んでいる兵士に至っては、崩れかけた体勢を立て直そうとしてガレスの腕へしがみつき、反射的に投げ飛ばされたのだった。
自分では習ったとおりに動いているつもりだった。それなのに、なぜか相手を危険な目に遭わせてしまう。
ガレスは正直に言った。
「……俺には、ダンスは無理かもしれません」
「ガレス様?」
「こんな状態では危なくて、とてもあなたとは踊れません」
リリアンナがこの日を楽しみにしていたことは、ガレスもよく知っている。知っているからこそ、言い出すのが苦しかった。
けれどリリアンナには、先ほどの動作を見ただけで、原因の見当がついていた。だから、何も恐れずに彼のもとへ歩いていく。
そして大きな彼を見上げ、その頬へ向かって手を伸ばした。
ガレスは——何も言われないうちに、当たり前のように身体を屈めた。
リリアンナの小さな手が、頬へ触れる。
「そんな悲しそうなお顔をなさらないでくださいませ」
「……リリアンナ」
「大丈夫ですわ」
ガレスは息を吐いた。何がどう大丈夫なのかは分からない。それでも、そう言われると本当にそんな気がしてくるのだから、この人には敵わない。
「ガレス様は、ステップを間違えないことばかり考えていらしたでしょう?」
「……はい」
図星だった。足をどこへ置くか。順番を違えていないか。拍は合っているか。踊っているあいだ、頭の中はそればかりだった。
「ですから、ご自分が次にどう動くのかが、お相手に伝わっていなかったのです」
頬に触れていた手が離れる。リリアンナはその手を、今度は差し出すように前へ出した。
「ダンスは、お一人で踊るものではありませんわ。次にどちらへ進みたいのか、お相手へ教えてさしあげてくださいませ」
「教える……」
「はい。腕で引くのではありません。身体の向きと重心で、『次はこちらです』とお伝えするのです」
これは先ほどエマに話した内容と同じだった。
「わたくしと、やってみましょう」
ガレスはすぐには動かなかった。差し出された手と、床に座り込んだままの面々へ交互に目を向ける。
「ですが、怪我をさせたら……」
「大丈夫です。どうか、わたくしを信じてくださいませ」
しばらく迷った末、ガレスの大きな手が、そっとその手を取った。
◇◇◇
そのままでは練習どころではない。二人は、先ほどまでエマと使っていた練習部屋へ移った。
楽師が再び弓を引き、ゆったりとした旋律の中で二人は向き合った。
「ガレス様。わたくしの足ばかり見ていては、踊れませんわ」
「……すみません」
リリアンナは一つずつ教えた。
まず自分の重心を移すこと。身体の向きで進む方向を知らせること。相手が動き始めたのを感じてから、自分も踏み出すこと。腕の力で相手を動かそうとしないこと。そして、相手が今どこにいるのかを、常に感じ続けること。
ガレスは非常に真面目に聞いた。一つ言われるたびに小さく頷き、確かめるように足を動かす。
そしてリリアンナが実際に動いてみせると、言葉だけでは掴みきれなかった感覚が、すっと腑に落ちた。
なるほど。これは、相手へ意図を伝える技術なのだ。
そう理解した途端、ガレスの動きが変わった。
もともと彼は優れた戦士である。自分の身体を意のままに扱う力も、相手の動きを読む力も、距離感も、重心移動も常人の域にない。足りなかったのは身体の使い方ではなく、その力を相手へ向けるという発想だけだった。
ぎこちなかった一歩が滑らかになる。リリアンナが進みやすいよう、身体の向きが変わり、手から余計な力も抜けていく。
「そうです。そのまま」
褒められたガレスの顔から強張りが消えた。
「……こうでしょうか」
ガレスが身体の向きを変える。リリアンナがそれを感じ取り、迷いなく続く。
「ええ。とても分かりやすいですわ」
今度はガレスの手がリリアンナを回転へ導いた。くるりと身体を翻せば、裾が軽やかに広がる。小柄な身体が、大きな彼の周りを舞った。
ほんの少し前まで人を次々と沈めていた男とは、とても同じ人物とは思えない。
その流れのまま、ガレスの手が腰へ添えられた。
「あら——」
次の瞬間。身体がふわりと宙へ浮いた。ガレスが軽々とリリアンナを抱き上げていた。
視界が高くなり、リリアンナは一瞬だけ息を呑んだが、怖がってはいなかった。ガレスが自分を落とすことなど絶対にないと信じているからだ。
そのまま、そっと床へ戻される。着地した足が床を捉えた瞬間、リリアンナは声を上げて笑った。
「……すみません。つい」
「ふふっ。もう、ずいぶん余裕が出てきましたわね」
「……これなら、舞踏会でも踊れそうです」
つい先ほどまで無理かもしれないと言っていた男が、自分でも驚いたようにそう口にする。リリアンナは誇らしげに頷いた。
するとガレスは、一度姿勢を正した。そして令嬢へダンスを申し込むときのように、リリアンナへ恭しく片手を差し出した。
「リリアンナ。次の一曲も、俺と踊っていただけますか」
練習の続きを申し込まれているだけなのに、その仕草があまりにも本番さながらで、リリアンナの胸がくすぐったく弾む。
リリアンナはその手に自分の手を重ね、にっこりと笑い返した。
「もちろんですわ」




