改稿中☆42 悪評令嬢、夜会へ立つ
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
三年ぶりに、ルベルハルト伯爵令嬢として夜会へ参加する。
夜会の支度を整えることなど、もう二度とないかもしれないと思った時期もあった。
「まあ……なんて素敵なドレスでしょう」
ルベルハルト家の侍女が、ドレスを広げて感嘆の声を上げる。
深いエメラルドグリーンのドレスは、身体の線に沿う、すっきりとした形に仕立てられている。襟元や裾には、細い金糸が控えめに織り込まれており、光を受けたときだけ淡くきらめく。余計な装飾がないぶん、生地のよさと、丁寧な仕立てが際立つ、大人びた華やかさをまとった一着だった。
「これが……メゾン・セシリアのドレス。実物を見るのは初めてです」
侍女がうっとりと生地を撫でる。
「ふふ。着るのが楽しみだわ」
リリアンナが微笑んだところで、扉が控えめに叩かれた。別の侍女が、小箱を手に入ってくる。
「お嬢様。ヴァルグレイブ辺境伯邸から、お届け物が」
差し出されたのは、小さな箱だった。
蓋を開けると、金の台座に小粒の緑石をあしらった飾り櫛が納められていた。ひと目で、ドレスに合わせたものだと分かる。
添えられていた手紙は、たった一行だった。
『今夜は隣に立てません。代わりに』
「……ガレス様」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……挿してくださる?」
「はい、お嬢様」
結い上げた髪に、飾り櫛が収まった。鏡の中で、緑の石が光る。
リリアンナはしばらく飾り櫛を見つめてから、右腕へ視線を移した。
幸い右腕は骨折しておらず、腫れも引いて夜会へ出られるまでに回復していた。ただ、まだ跡が残っているため、長手袋で隠している。
医官から夜会への出席そのものは許可されたが、踊るのはまだ駄目だと念を押されていた。
支度を終えて階下へ降りると、ロイドが待っていた。
「よく似合っているよ」
「ありがとうございます、お父様」
ロイドは微笑んだあと、表情を改めた。
「怖いかい?」
リリアンナはすぐには答えなかった。
「……少しだけ。でも、それ以上に楽しみですわ」
三年前とは違う。
隣には父がいて、ヴィクトワールという心強い協力者もいる。会場にはガレスも来てくれている。
何より、リリアンナ自身があの頃のままではなかった。閉じこもっていた三年間も、学び、考え、殿下の補佐として実務を積んできた。
ロイドは、リリアンナの力強い瞳を見て満足そうに頷いた。そして、娘へ腕を差し出す。
リリアンナは、左手をその腕へ添えた。
◇◇◇
シャルテンロー侯爵家の広間には、すでに多くの貴族が集まっていた。
ガレスも一足先にヴィクトワールへの挨拶を済ませ、軍務で顔を合わせる貴族と話をしている。
そのとき、入口から高らかに名が告げられた。
「ルベルハルト伯爵、ならびにご息女、リリアンナ様」
広間の会話が途切れ、代わりに囁きが起こる。
「リリアンナ・ルベルハルト?」
「聞いたことがあるぞ。ほら、あの『魅了』の……」
「男を惑わせるという、悪評だらけのご令嬢でしょう?」
ガレスのすぐそばでも、若い令息たちが笑っていた。
「男でも漁りに来たか」
「ははははは」
その言葉に、ガレスは無言で令息たちへ顔を向けた。それだけで空気がひやりと冷える。
「ひっ……!」
令息の一人が顔を引きつらせ、慌てて後ずさった。以降、その一団は貝のように口を閉ざした。
ガレスは何事もなかったかのように入口へ視線を戻す。——そして、息を止めた。
ロイドに伴われ、リリアンナが広間へ入ってくる。
深いエメラルドグリーンのドレスが、シャンデリアの光を受けて、艶やかに煌めいている。美しく整えられた髪には、ガレスが贈った飾り櫛が光っていた。
ガレスは広間の反対側から、ただ見惚れていた。だが、それは彼だけではない。
悪評を知っている者も、知らない者も、言葉を失いリリアンナを見ていた。
そんな中、沈黙を破ったのはヴィクトワールだった。
広間をまっすぐ横切って二人の元へ歩いていく。
「お待ちしておりました、リリアンナ様」
笑顔で差し出された手を、リリアンナが取る。
「お招きいただき、ありがとうございます。ヴィクトワール様」
「ようこそお越しくださいました。ロイド様も」
形式だけではない歓迎なのは、誰の目にも明らかだった。
再び、広間がざわめく。
ヴィクトワールは気にした様子もなく、そのまま二人を連れて人々の輪へ入っていった。
「アデル様」
「あら、リリアンナ様!」
先日のサロンにも参加していたモンフェール侯爵夫人アデルが、親しげに顔をほころばせる。
「あなた、この方が先日お話ししたリリアンナ様よ」
アデルは夫の腕を引き、リリアンナに屈託なく話しかけた。
「侍女をかばって怪我をなさったお話、覚えていらして? あのときのご令嬢がこの方よ。……お加減はいかがですか」
「おかげさまで、だいぶよくなりました」
「よかった。あのときのご勇姿、わたくし、いまだに忘れられませんの」
モンフェール侯爵が、興味深そうにリリアンナを見た。
「ルベルハルト伯爵。ご息女は、なかなか肝の据わった方でいらっしゃる」
「ええ。私も後から知りまして、ずいぶん驚かされましたよ」
ロイドが苦笑する。
場が和らぎ、家長同士の近況の話へ移る。ロイドが王都の事情を語れば、モンフェール侯爵が領地の状況を返し、リリアンナは二人の話に耳を傾けていた。
王都へ続く街道の話になったとき、ロイドが娘へ話を振った。
「そういえば南街道の補修はどうだったかな」
父が忘れたとは思えない。あえて自分に答えさせるつもりだと察し、リリアンナが言葉を添える。
「その件でしたら、雪解けを待って工事を始める予定だったはずですわ」
「ああ、そうだった。よく覚えていたね」
娘のさりげない補足に、ロイドが目を細める。
モンフェール侯爵が、ほう、と声を漏らした。
「伯爵。ご息女は、そうしたことにもお詳しいのですな」
「幼い頃から私の仕事を手伝わせておりましてね。少々、鍛えすぎたかもしれません」
「なるほど。伯爵仕込みというわけですな」
モンフェール侯爵が笑った。アデルも会話に加わり、さらにヴィクトワールの紹介で別の貴族も輪へ入ってくる。
遠巻きに見ていた者たちの様子も、少しずつ変わり始めた。
「……聞いていた話と、ずいぶん違わないか」
◇◇◇
その空気の変化を見て、焦りを隠せなくなった者たちがいた。
デボアは、先日のサロンの一件があって今夜は招かれていない。だが、かつてリリアンナへの嫌がらせに加担していた令嬢や令息の何人かは、この場にいた。
彼女の評価が上がれば、自分たちが三年前に何をしてきたのかまで問われかねない。
「皆さま、お忘れですの? あの方が起こした騒動を」
「そうだ。何人の男が彼女のせいでおかしくなったか」
「今だってそうでしょう。侯爵夫人が急にあんなに親しくなさるなんて、おかしいと思いませんこと? きっと『魅了』で篭絡され——」
「おかしいですね」
低い声が、上から降ってきた。
振り向いた令嬢の顔から血の気が引いた。ヴァルグレイブ辺境伯が、すぐ後ろに立っていた。
「魅了については魔道具により抑えられていると教会から正式な報告が出ています。それは本当に正しい情報ですか」
ガレスは、淡々と続けた。
「王家も教会の報告書を元に、彼女の社交界への参加を認めている。……つまり、あなた方は王家の判断は誤りだと言っているわけだ」
「そ、それは……」
「王家とは懇意にしております。俺から伝えておきましょう」
「も、申し訳ございません! 噂を鵜呑みにし過ぎておりました!」
「どうぞ、気をつけてください」
ガレスはそれだけ言うと、さっさとその場を離れた。
残された者たちは青ざめ、もう何も言わなかった。
ガレスが先ほどまで話していた輪へ戻ると、笑い声に迎えられた。
「はっはっは。お見事!」
顔なじみの老貴族が、酒杯を掲げる。
「しかし閣下がわざわざ火消しをなさるとは。……もしや、あの綺麗なご令嬢に惚れましたかな」
「……」
「なるほど、これは図星ですな」
「……そういう話ではありません」
「ほう。ではどういう話で?」
ガレスは口を開き、そして閉じた。答えに窮し、広間へ視線を逃がす。
会場の空気は、すでに明らかに変わっていた。
リリアンナは、有力貴族たちの輪の中で穏やかに談笑している。悪評を鵜呑みにしていただけの者たちも、戸惑いながら少しずつ距離を詰めていた。
中でも若い令息たちの目は分かりやすい。
美しいだけではない。立ち居振る舞いには品があり、受け答えからは教養と知性がうかがえる。そのうえ、シャルテンロー侯爵夫人をはじめとする高位貴族たちが、そんなリリアンナを好意的に迎えている。
噂しか知らなかった若い令息たちが、興味を持つには十分だった。
「ルベルハルト伯爵令嬢は婚約していないのか?」
「あちらのご令嬢に、どなたか紹介していただけないだろうか」
そんな声まで上がり始める。
ガレスの眉間に、じわじわと皺が寄っていった。
今夜は彼女の婚約者だと名乗れない。必要なことだと分かってはいるのだが。
「閣下? どうかなさいましたか」
「……別に」
どう見ても、別にという顔ではなかった。
◇◇◇
夜会も後半に差しかかり、リリアンナは主だった貴族たちとの挨拶をひと通り終えていた。
その頃合いを見計らって、ロイドが娘へ声をかけた。
二人が有力貴族たちの輪から離れると、周囲がにわかに落ち着かなくなる。話しかけてもいいものか、こちらへ来ないだろうか。そんな視線の間を、父娘は通り抜けた。
「ヴァルグレイブ辺境伯閣下」
上位貴族である辺境伯へ挨拶に赴く——形の上では、ごく自然だった。それまで話していた老貴族が、「では、私はこれで」と気を利かせて席を外す。
「ご挨拶が遅れました、ルベルハルト伯爵家当主、ロイドと申します」
ロイドが、いかにも初対面らしく一礼した。
「こちらは娘のリリアンナです」
「リリアンナ・ルベルハルトでございます」
リリアンナも、しとやかに膝を折る。
「……ガレス・ヴァルグレイブです」
二人は真面目な顔をしているが、互いに妙なくすぐったさを覚えていた。ロイドだけが楽しそうである。
しばらく三人で当たり障りのない話をしたあと、ロイドが何気ない調子で口を開いた。
「そういえば閣下は、婚約者を探すために辺境から王都へいらしたと伺いました」
「……ええ、まあ」
「奇遇ですね。うちの娘も、良い相手を探しているところでして」
「お父様」
リリアンナが小声で咎めるが、ロイドはにこやかなままだ。
「どうでしょう。せっかくですから、若いお二人で少しお話ししてきては?」
ガレスとリリアンナが同時にロイドを見る。すべて承知で場を作ってくれているのだ。
「……では、お言葉に甘えて」
「ええ。ぜひ」
ロイドは満足そうに頷いて、二人を送り出した。
◇◇◇
二人が向かったのは、広間に隣接した小さな休憩室だった。
開け放たれた扉から音楽と人々の声が届き、壁際の暖炉には火が入っている。夜会の熱気から少し離れて休むには、ちょうどいい場所だった。
今は他に人の姿はない。
「腕は、痛みませんか」
ガレスが、開口一番にそう尋ねた。
「大丈夫ですわ。医官からも、踊らなければ問題ないと言われています」
「本当に無理はなさらないでください」
「わかりましたわ」
リリアンナがくすくすと笑う。
広間から、楽団の音がかすかに聞こえてきた。
「……本当は、少し残念なのです」
「何がですか?」
「せっかくガレス様と同じ夜会に出られたのに、踊れませんもの」
ガレスが動きを止めた。
「……俺は、ダンスはあまり上手くありません。ステップは知っていますが。ただ、その、実際に女性と踊ったことがないので」
言いにくそうに、ガレスは続けた。
「……ですから、練習します。次までに」
真剣な顔で言われて、リリアンナの胸が跳ねた。
「はい。……楽しみにしております」
頬に熱が集まるのを感じながら、リリアンナは笑った。
少しして、ガレスへ尋ねる。
「ガレス様から見て、本日はいかがでしたでしょうか」
「とてもお綺麗です」
即答だった。
「……え」
「ドレスも髪も、よくお似合いです。……櫛も、挿してくださってありがとうございます」
リリアンナの顔に、さっと朱がのぼる。
「あ、あの、ガレス様」
「はい」
「言葉が足りなくて、申し訳ございません……。わたくしが伺いたかったのは、会場の様子のことで……」
「……あ」
今度はガレスの耳まで赤くなる。
「失礼しました」
「いいえ。その……嬉しかったですわ」
リリアンナは照れながら、髪の飾り櫛へそっと左手を添えた。
「今朝これが届いたときも、とても嬉しかったです。ドレスにもよく合っていて……ありがとうございました」
ガレスが、ぎこちなくうなずいた。
「今夜は、隣に立てませんので」
「ええ。……ですから、代わりにこうして連れてまいりました」
リリアンナが微笑む。
「おかげさまで、少しも心細くありませんでしたわ」
ガレスは返す言葉を見つけられず、もう一度うなずいた。
しばらくして、広間を振り返る。
「会場の様子ですが。……最初とは、ずいぶん違います」
リリアンナも広間へ目を向ける。
リリアンナが入場した直後は好奇と警戒ばかりだった視線が、今では興味へ変わりつつある。
「ヴィクトワール様のおかげですね」
「それだけではありません」
リリアンナがガレスを見上げる。
「夫人がしたのは、貴族たちが貴女を見る機会を作ったことだけです。彼らは貴女を見て、聞いていた話と違うと気づいた。……そうなったのは夫人や俺の力ではありません。貴女がこれまで積み上げてきたものを、今夜、ようやく見てもらえたんです」
三年前の、すべてが悪く受け取られていたときとは違う。
胸が熱くなり、リリアンナは涙をこらえるように目を伏せた。ここで涙を見せるわけにはいかない。今夜は、まだ終わっていないのだから。
小さく息を吸い、顔を上げる。
「……嬉しいですわ」
リリアンナは笑った。
三年ぶりの社交界は、かつて自分を傷つけた場所と同じはずなのに、もう同じ場所には見えなかった。
悪評が消え去ったわけではない。それでも、リリアンナ・ルベルハルトがもう一度社交界へ立つための一歩としては、これ以上ない夜になった。




