改稿中☆39 守った代償
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
鈍い衝撃が、右腕の奥まで突き抜けた。
「……っあ」
——息が、詰まる。
骨まで届くような衝撃のあと、右腕いっぱいに灼けつくような痛みが広がった。
リリアンナは歯を食いしばりながら、デボアの手元へ目を向けた。
閉じた扇は、外見の華やかさからは想像もつかないほど硬く、重い。扇骨には金属が仕込まれているのだろう。先ほど腕に受けた衝撃が、それを何より雄弁に物語っていた。
デボアは明らかに侍女の顔を狙って扇を打ち下ろしていた。もしまともに当たっていたら——。
リリアンナの胸の奥に、静かな怒りが湧く。
「今のものを……この方のお顔へ振るおつもりだったのですか」
リリアンナの問いかけに、デボアは何も答えない。肩で息をしながら、現れた邪魔者を睨みつけている。
「何があったのか、わたくしには……分かりません」
痛みで浅くなる呼吸の合間に、言葉を押し出す。
「ですが……粗相があったのなら、主人であるシャルテンロー侯爵夫人へ……お伝えになるべきです」
「何よ、偉そうに……」
デボアの顔が、みるみる赤く染まった。リリアンナはデボアから目を逸らさず、侍女をさらに自分の後ろへかばう。
「先ほど狙われたのは、この方のお顔でした。……デボア様に、それほどの罰を与える権利はございません」
リリアンナは声を荒げなかった。ただ、静かに事実だけを並べる。
ここはシャルテンロー侯爵夫人が主催するサロンであり、デボアは招かれた客人にすぎない。夫人の侍女へ私的な制裁を加えてよい道理など、どこにもなかった。
だが、癇癪を起こしているデボアにそんな道理が届くはずもない。むしろ冷静に諭されたことが、怒りの火に油を注いだ。
積み重なった屈辱が、一気に燃え上がる。
(その綺麗な顔を、台無しにしてやる!)
短絡的な衝動のまま、扇を握り直し、リリアンナの顔を狙って振り上げた。
「リリアンナ様!」
その瞬間、フィーネが駆け込んだ。細い身体を、まっすぐリリアンナの前へ割り込ませる。
「フィーネさん!」
リリアンナが叫んだ、その直後。
「おやめなさい、デボア・バーリンガム!」
ヴィクトワールの鋭い声が、広間に響き渡った。
同時に、シャルテンロー家の使用人たちが動く。素早くデボアの左右と背後へ回り込み、いつでも取り押さえられる距離まで詰めた。
「その扇を下ろしなさい」
ヴィクトワールが命じる。
デボアはすぐには従わなかった。扇を振り上げたまま、フィーネの向こうにいるリリアンナを睨みつけた。だがしばらくして、ぎり、と歯を食いしばりながら腕を下ろす。
ヴィクトワールはそれを確認すると、間を置かず告げた。
「デボア・バーリンガム。今日はお帰りなさい」
「どうしてわたしが!」
デボアが声を荒げる。自分が悪いなどとは欠片も思っていない顔だった。
ヴィクトワールは厳しい顔で、事実だけを述べる。
「あなたはシャルテンロー家の侍女を害そうとし、それをかばった客人を傷つけました」
「でも、それは——」
「道理については、すでにリリアンナ様がお話しになったはずです。わたくしから重ねて申し上げることはございません」
ヴィクトワールははっきりと言い切った。
「お帰りなさい」
デボアの唇がわなわなと震える。広間にいる誰も、彼女へ助け舟を出さなかった。先ほどまで会話を交わしていた婦人たちすら、冷ややかな目を向けている。
「……っ、こんなところ、こちらから願い下げですわ!」
吐き捨てるように言うと、デボアは踵を返した。
追い出されたのではない。自分がこの場を見限ったのだ——そう取り繕うように、大股でサロンを出ていった。
謝罪の言葉は、最後まで一つもなかった。
デボアの後ろ姿が完全に見えなくなると、張り詰めていた空気が緩んだ。
リリアンナはすぐに、かばった侍女へ向き直る。
「怖い思いをなさいましたね。お怪我は——」
「お怪我があるのはリリアンナ様です!」
すぐそばから悲鳴に近い声が飛んだ。
「フ、フィーネさん!?」
「右腕を見せてくださいませ!」
フィーネが慎重に袖をまくり上げる。リリアンナの腕は赤く腫れ上がり、扇が直撃した箇所は特にひどく膨れ、跡がくっきりと残っている。
フィーネの顔から、さっと血の気が引いていく。
事件の最中は気が張っていたリリアンナも、この光景を目にした途端、ずきずきと脈打つ痛みを強く意識し始めた。
「すぐに手当てを」
ヴィクトワールが険しい顔で指示を飛ばす。
冷水で濡らした清潔な布が、すぐさま患部へ当てられた。骨まで傷めている可能性もあるため、右腕はなるべく動かさぬよう固定される。
「医師が来るまで、こちらでお休みくださいませ」
ヴィクトワールの申し出に、フィーネが首を振った。
「いいえ、今すぐヴァルグレイブ邸へ戻った方がよろしいかと。邸には医官が常駐しておりますので」
リリアンナも頷いた。
ヴィクトワールは引き留めなかった。今は何よりも、リリアンナの怪我を優先すべきだと分かっていた。
馬車へ向かうリリアンナへ、ヴィクトワールが深く頭を下げる。
「今日はこのようなことになってしまい、申し訳ありませんでした。後日、改めてお詫びとご説明に伺わせてくださいませ」
「侯爵夫人——」
「今は何もお気になさらず。どうか、早く……」
その言葉に甘え、リリアンナはフィーネに付き添われてシャルテンロー邸を後にした。
馬車の中で、フィーネはリリアンナの右腕へ冷たい布を当て続ける。
事件の間は気を張っていたリリアンナも、揺れる馬車の中では、ただ痛みに耐えるしかなかった。車輪が石畳を越えるたびに、その振動が右腕へ響く。
「……っ」
小さく漏れた声に、フィーネがぎゅっと眉を寄せる。
「もう少しです。もう少しで、屋敷ですから」
リリアンナは頷くことしかできなかった。
◇◇◇
辺境伯邸では、ガレスとレオン、ハンスの三人が執務室で王家から届いた報告書に目を通していた。
「旦那様!」
使用人が部屋へ駆け込んできた。
「リリアンナ様がお戻りになりました……」
予定より、かなり早い。
ガレスが報告書から顔を上げた。使用人の真っ青な顔を見て、何かあったと察する。
「閣下!」
ガレスはレオンの声を背に、執務室を飛び出した。
玄関へ急ぐと、そこにリリアンナが右の袖をまくり上げた状態で立っていた。エマが泣きながら冷たい布を当てている。フィーネもそばに寄り添っていた。
「リリアンナ……」
ガレスは大股で近づくと、エマが当てていた布を、患部に触れないよう慎重に外した。
ひどい腫れだった。
「——っ! すぐに医官を! 一番効く消炎の軟膏を持たせろ!」
「もう手配しております!」
エマが涙をぼろぼろ零しながら叫ぶ。
「ですから、早くリリアンナ様をお部屋へ……!」
ガレスは負傷した右腕へ触れないよう細心の注意を払いながら、リリアンナの身体を抱き上げる。
「……ガレス様、わたくし、歩けます」
「駄目です。大人しくしていてください」
有無を言わせない声だった。
リリアンナを抱いたまま、ガレスは足早に部屋へ向かう。エマが大泣きしながら、その後ろをついていった。
少し遅れて、レオンとハンスが玄関へ駆けつけた。
レオンが、残っていたフィーネへ尋ねる。
「何があったんですか」
「それが——」
◇◇◇
「……かなり強く打たれていますね」
医官は腫れ上がった右腕を慎重に診ながら、険しい顔をした。
「骨に異常があるかどうかは、今の段階では何とも申し上げられません。腫れもひどいですから、まずは動かさないよう固定して、しばらく様子を見ましょう」
「骨折している可能性があるのですか……」
リリアンナが尋ねる。
「はい。ただ、数日して腫れが引き、痛みも落ち着いてくるようであれば、強い打撲と考えてよいでしょう。反対に腫れや痛みが引かず、腕を動かすことも難しいようであれば、骨を傷めているものとして、副木を当て、より厳重に固定する必要があります」
「……分かりました」
左手を包んでいたガレスの手に、ぐっと力がこもる。診察の間、彼はずっとリリアンナの隣を離れず、その手を握り続けていた。
医官は右腕を動かさないよう処置を施し、しばらく安静にするよう念を押す。
処置が一段落した頃、レオン、ハンス、フィーネが部屋へ入ってきた。扉の外には、リリアンナを心配して集まってきた屋敷の者たちの姿もあった。
ガレスがフィーネへ目を向ける。
「何があったのか、聞かせていただけますか」
フィーネはサロンで起きたことを、順を追って簡潔に説明した。
デボアがシャルテンロー家の侍女へ扇を振るおうとしたこと。リリアンナがそれを庇って怪我を負ったこと。その後、デボアが再びリリアンナへ手を上げようとしたこと。
説明を聞き終えたガレスは、しばらく何も言わなかった。
言いたいことは、山ほどある。
デボアへの怒り。主催者であるヴィクトワールへの監督不行き届きに対する苛立ち。そして何より、リリアンナを一人で送り出してしまったことへの後悔。
それだけじゃない。リリアンナが怪我を負ったという事実そのものが、悲しかった。彼女が痛い思いをすること自体が耐え難かった。
もう二度と、無茶なことはしないでほしい。
そう言ってしまいたい衝動を、ガレスは喉の奥へ押し戻した。
リリアンナと視線を合わせる。
「貴女が侍女を守った勇気を、誇りに思います。……よくやりました、リリアンナ」
責める言葉ではなく、何より先にその勇気を認める言葉を送った。
けれど——。
リリアンナは、ガレスの顔を見つめた。
誇りに思ってくれている。それは分かる。けれど同時に、ガレスの目の奥に沈む複雑な感情にも気づいてしまった。
リリアンナは握られていた左手をほどき、そっと持ち上げた。そのまま大きな頬へ優しく触れる。
ガレスは避けなかった。むしろほんの少しだけ、リリアンナの掌へ頬を寄せる。
その仕草に、リリアンナの胸がきゅっと締めつけられた。
「ごめんなさい」
リリアンナがぽつりと言葉を零した。
「ガレス様がそんなに悲しい顔をなさるなら……これからはもっと気をつけます」
「……そうしてください」
それから、リリアンナの左手へ頬を預けたまま、低い声で言う。
「今回の怪我も……それに、装飾具のことも」
今回の怪我だけではない。装飾具を身につけるために、リリアンナが耐えている痛みのことも、ガレスはずっと気にかけていた。
ガレスの眉間に、深い皺が寄る。
「俺は、リリアンナが痛いのは嫌です」
飾らない、まっすぐな言葉だった。
自分が痛むことを、こんなにも自分のことのように嫌がってくれる。その事実が胸の奥を甘く締めつけ、リリアンナはガレスの頬に触れたまま微笑んだ。
レオンとハンスは、どちらからともなく顔を見合わせた。フィーネも二人の間に流れる空気を察したのか、小さく目を伏せる。
今はリリアンナを休ませるべきだ。そして、ここから先はガレスに任せてよいだろう。三人はベッドの端で涙ぐんでいるエマも連れて、静かに部屋を退出した。
扉が閉じたあとも、ガレスはリリアンナの掌から頬を離さなかった。




