改稿中☆37 シャルテンロー侯爵夫人のサロン
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
「では、サロンへ向かう前に、殿下からいただいた情報を最終確認しておきましょう」
レオンは手にした紙束を開いた。
今日は、リリアンナがシャルテンロー侯爵夫人のサロンへ向かう日だった。
卓を挟んで座る彼女は、すでに支度を終えている。メゾン・セシリアで仕立てられたばかりの淡い若草色のドレスは、華美になりすぎない意匠でありながら、動くたびに生地の艶が柔らかく揺らめく、品のある仕上がりだった。
談話室に、レオンとリリアンナのほか、ガレス、ハンス、フィーネ、エマが集まっていた。
今回のサロンに備え、フィーネとエマにも、リリアンナが社交界を離れるまでの経緯と、祝福にまつわる悪評について、すでに必要な事情を伝えてある。
「シャルテンロー侯爵夫人のサロンは完全招待制です。夫人のもとには参加を願う手紙が絶えず届いているそうです」
「はい」
それでも、招かれるのは毎回十数名程度。
夫人がサロンを開いているのは、若い令嬢たちへ、一から礼儀作法を教えるためではない。すでに貴族として必要な教育を受けてきた女性たちが、さまざまな立場の者と交流し、さらに品性や見識を磨くための場を提供しているのだという。
「年長の高位貴族夫人もいれば、既婚の若いご夫人、未婚の令嬢もいます。家格だけで参加者を選ぶわけでもないそうです。そして、一名だけ侍女の同行が許可されているので、今回はフィーネが」
「お任せください」
控えていたフィーネが胸に手を当てる。
「小規模で、女主人の目が隅々まで届く場です。以前の夜会のような、あからさまな嫌がらせは起こりにくいでしょう。……ですが——」
レオンはそこで一度言葉を切った。
「今日の目的は、サロンを何事もなく終えることではありません」
リリアンナは静かに頷いた。
「……シャルテンロー侯爵夫人に、わたくし自身を見ていただくこと。そして、協力者になっていただくための足がかりを作ること……」
分かっている。
今日、自分がサロンへ行くのは、礼儀作法の勉強のためでも、おしゃべりを楽しむためでもない。これまで悪評によって閉ざされていた社交界への道を、自分の力で切り開くためだ。
ガレスがクロードを通じて得てくれた機会を、無駄にはしたくない。
「結構です」
レオンが満足げに頷いて——ふと、ガレスを見た。そして、なんとも言えない顔になる。
「……なんで閣下の方が、リリアンナ様より緊張した顔をしてるんです……」
「……」
レオンが大げさに溜息を吐く。二人のやりとりに、リリアンナは口元を緩めた。
◇◇◇
玄関前にはガレスたちだけでなく、その後ろに何人かの使用人も見送りに出ていた。
馬車の扉が開かれる。
「……何かあったら、すぐ帰ってきてください」
ガレスが声をかける。
「はい」
「それか使いを寄越してください。すぐに駆けつけます」
「ええ、そうします」
「……いや、やはり——」
「ガレス様」
ガレスは言いかけた言葉を止めた。いつもの癖で、その大きな身体を屈めているため、リリアンナとまっすぐに目が合う。
「行ってまいります」
春の日差しのように穏やかで、それでいてどこか凛とした笑みだった。
ガレスの喉が、ひとつ上下する。飲み込んだ言葉の代わりに、困ったように笑い返した。
「……はい。お気をつけて」
リリアンナはフィーネとともに馬車へ乗り込んだ。
車輪が回り出す。窓の外で屋敷の前に立つ人影がだんだん小さくなっていく。一番大きな影だけが、いつまでも動かなかった。
膝の上で、リリアンナは左の手首をそっと押さえた。
◇◇◇
同じ頃、シャルテンロー侯爵邸では、ヴィクトワールが今日の客を迎える準備を整えていた。
リリアンナ・ルベルハルト伯爵令嬢。——今日招く客の中でも、ひときわ興味深い令嬢だった。
少し前、ヴィクトワールはクロードに呼ばれ、王宮を訪れている。
『今日は、頼みがあって呼んだ』
内容は、リリアンナを一度サロンへ招いてほしい、というものだった。
当然、ヴィクトワールも彼女の名くらい知っていた。
かつて社交界を騒がせ、その後ぱったりと姿を消した美しい伯爵令嬢。そして、『魅了の祝福』を持つ女。
クロードは、その事情を隠さなかった。
祝福についてはすでに教会が調査を終えており、抑制具を身につけていれば問題がない。ヴィクトワールにも、教会の正式な報告書が手渡された。
『私自身、彼女には半年ほど執務を手伝ってもらっていたが、その間に祝福による問題は一度も起きていない。それどころか——非常に優秀な女性だ』
クロードはそう断言した。
『あれほどの人材が、根も葉もない噂のせいで貴族としての役目を果たせずにいる。これは、国にとって大きな損失だと思っている』
『それで、わたくしに後ろ盾になれと?』
『いや』
王子は、はっきりと首を振った。
『そのようなことを頼む気はない。実際に会って、あなた自身の目で見てほしい。そのうえで、彼女がそれに値すると思ったなら、力を貸してもらいたい』
自分がどう判断するかまで、クロードには決めるつもりがないらしい。判断を丸ごとこちらへ預けたのだ。
クロードがこれほど高く買っている若い令嬢が、いったいどれほどのものなのか興味が湧いてきた。
もともとヴィクトワールは、若者が才覚を磨き、花開かせていく様を見るのが好きだった。
(これは楽しみになってきたわ)
扉の向こうから、家令の声がかかる。
「奥様。ルベルハルト伯爵令嬢がお着きになりました」
「そう」
ヴィクトワールは扇を閉じた。
「お通しして」
◇◇◇
案内された広間は、天井が高く、窓から柔らかい光が差し込んでいた。白い花が卓ごとに小さく生けられ、茶器の触れ合う音があちこちで鳴っている。すでに十名ほどの婦人と令嬢が集い、和やかな声が満ちていた。
三年ぶりだった。
この、香水と紅茶と花の混じった香り。扇の影で交わされる視線。かつてリリアンナが立つことのできなかった場所の空気が、そっくりそのまま、そこにある。
リリアンナは背筋を伸ばした。
(今日の目的は、シャルテンロー侯爵夫人にわたくしを見ていただくこと)
広間の奥で待つ女主人のもとへ進み、礼を取る。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。リリアンナ・ルベルハルトと申します」
「ようこそいらっしゃいました、ルベルハルト伯爵令嬢。お待ちしておりましたわ」
ヴィクトワールは穏やかに応じながら、目の前の令嬢を観察していた。
(——なるほど)
まず、恐ろしく美しい。聞いていた以上だった。だが、ヴィクトワールが見ているのは顔だけではない。
ドレスはこの場にふさわしく、品がある。礼の角度も、声の大きさも、視線の置き方も申し分ない。
美しいだけの娘ではない。きちんと教育を受け、それを身体に沁み込ませた令嬢の動きだった。
(第一印象は合格。……ただし、ここまでは貴族令嬢ならできて当然のことですわ)
ヴィクトワールは扇を開き、微笑んだ。
「よくいらっしゃいました。皆様へご紹介いたしましょう」
ヴィクトワールに伴われ、リリアンナはすでに到着している客たちへ挨拶していった。
「こちらはモンフェール侯爵夫人のアデル様です」
「お初にお目にかかります、モンフェール侯爵夫人」
モンフェール。
その家名を聞いた瞬間、かつて読み込んだ貴族名鑑の内容が自然と頭に浮かぶ。
領地。産業。名産。そして最近の評判。
「モンフェール領のワインは、我が家でもよくいただいております。父もとても気に入っておりますの」
「まあ、嬉しいわ。今年はぶどうの出来がとてもよくて、いいワインになりそうなの。ぜひ召し上がってみてくださいな」
「それは楽しみです」
それ以上、自分の知識を披露する必要はない。リリアンナは自然にアデルへ質問を返した。
別の令嬢を紹介されれば、その家の領地で名高い織物を思い出し、最近王都でも評判だと話題を振る。
領地の話を好む夫人には領地の話を。流行に敏い令嬢には王都の話を。
会話とは、自分の知識を見せるためのものではない。相手に気持ちよく話してもらい、そこから互いを知るためのものだ。それは、リリアンナがかつて社交界へ出るため、必死になって身につけた技術だった。
少し離れたところから、ヴィクトワールがその様子を見ている。
知っていることを、ひけらかさない。相手の情報を、会話の糸口としてだけ使う話す速さも、話題も、相手に合わせて変える。年齢にも身分にも、態度を不自然に変えない。
(社交の基礎は、かなりできていますわね)
ヴィクトワールの中で、評価が静かに一段上がった。
リリアンナ自身も、少しずつ肩の力が抜け始めていた。
誰も噂のことに触れてこない。思っていた以上に話ができていた。
そのときだった。
サロンの扉が開いて、新たな客が入ってくる。
何気なく視線を向け——リリアンナの心臓が、どくりと嫌な音を立てた。
鮮烈に目に入る深紅のドレス。完璧に整えられた巻き髪。輝く宝飾。誰よりも先に人目を集めるための、隙のない装い。
忘れもしない。——忘れられるはずがない。
(……デボア様)
広間の匂いが遠のいて、かつての嘲笑や悪意ある囁きが聞こえてくる気がした。




