改稿中☆30 大切な話をするために
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
足のしびれもようやく落ち着いて、リリアンナは長椅子の上で足首を回してみる。
「もう大丈夫です」
「……本当ですか」
「ええ。痛くありません」
そう言って微笑むと、向かいの椅子に腰を下ろしていたガレスは息を吐いた。それでもまだ心配そうにこちらを見つめている。
リリアンナは昨夜のことを思い出す。ハンスに相談して決めたのだ。このまま一人で悩み続けるのではなく、ガレスにきちんと話そうと。
膝の上に置いた手に力がこもる。
「……辺境伯様」
「はい」
「あの、お話ししたいことがございまして。……お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
言い終えてすぐに、ガレスの表情が引き締まった。
「もちろんです。今からでも構いません」
「……今から?」
あまりの即答に、リリアンナは瞬きをした。
ガレスがこの三日間、朝から晩まで執務室にこもりきりで仕事をしていたのを知っている。昨夜だって疲れ切った顔で、書類とにらみ合っていたのだ。
「あの……お仕事はよろしいのですか」
そう尋ねると、ガレスはほんの少し考えたあと、いたって真面目な顔で答えた。
「後回しにします」
「……」
リリアンナは、じっとガレスを見つめる。
その『後回し』が何を意味するのか分かってしまった。彼は後回しにした分を、また睡眠時間で埋めるつもりだ。眠らずに一人で。きっとそうするという確信があった。
だから、考えるより先に口が動いていた。
「あの、わたくしにも、お仕事を手伝わせていただけませんか」
「これは俺の仕事です。リリアンナ嬢にしていただくことではありません」
「あ……」
ぴしゃりと断られて、小さな声が漏れた。胸の奥がきゅっと縮む。
仮の婚約者にすぎない自分が、辺境伯家の仕事に口を出すべきではなかったかもしれない。ガレスの立場を考えれば、断られるのは当然のことだ。
嫌われたくない。呆れられたくない。
「差し出がましいことを言ってしまい、申し訳ございません……」
すぐに謝る。昨夜の疲れた姿を知っているので、何もできないのが歯痒かった。
謝るリリアンナの表情を見て、ガレスは自分の失言を悟った。
(……しまった)
手伝わせられない仕事ではないのだ。任せられるものはいくらでもある。ただ、これまでずっと一人でやってきたから、反射的に答えてしまっただけだった。
拒絶したかったわけではない。断って、こんな顔をさせるくらいなら、頼めばよかったのだ。
ましてや彼女はたった今、大切な話をしたい顔をしていた。
「……リリアンナ嬢、その。俺の言い方が悪かったです」
「——失礼いたします」
扉のところから、穏やかな声がした。いつの間にか、入口にハンスが立っている。
「リリアンナ様。差し出がましいことなど、何一つございません」
「ハンスさん……」
リリアンナが顔を上げる。ハンスは安心させるように微笑んでから、ガレスへ視線を移した。
「旦那様。僭越ながら、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
「……はい」
「書類をすべてご自身だけで仕上げることは、本当に旦那様でなければならないお仕事でございましょうか」
ガレスの眉が寄った。
「……違います」
「その通りでございます。先代様も、私も何度も申し上げてまいりました。領主のお役目は、すべての仕事をご自身で抱えることではございません」
ハンスは穏やかに話を続ける。ガレスは黙って、その言葉を聞く。
「領地の状況を把握し、必要な判断を下す。そして領民を守るために最善を尽くすこと。それこそがヴァルグレイブ辺境伯のお役目にございます」
「……はい」
「旦那様にしかできないことを、旦那様がなさればよろしいのです。他の者に任せられる仕事まで、抱え込む必要はございません」
言い終えると、老執事はリリアンナを見た。背中を押してくれたのだ。
リリアンナは膝の上で手を握り直して、もう一度ガレスを見た。
「辺境伯様。わたくしにできることがございましたら、お手伝いさせてください」
少しだけ声が震えるが、まっすぐガレスを見て話す。
「それで……そのあとに、辺境伯様ときちんとお話がしたいのです」
「……」
ガレスはしばらく黙っていた。金色の瞳が部屋の中をさまよって、それからようやくリリアンナの方へ戻ってきた。
「……リリアンナ嬢」
「はい」
「お力を貸していただけますか」
リリアンナの顔が、ぱっと明るくなった。
「はい」
◇◇◇
身支度と朝食を済ませた二人は、執務室へ向かった。
急ぎの仕事は二つ。
一つは、辺境からまとめて届いた報告書の確認で、こちらはガレス自身が目を通し、判断を下さなければならない。
もう一つが、来月行われる軍事会議の事前資料の作成だった。
「こちらの資料でしたら、必要な内容を教えていただければ、わたくしでも作れるかもしれません」
「お願いできますか」
「もちろんです」
執務机を挟んで、リリアンナは羽ペンを取った。そこから、聞き取りの時間が始まる。
最初は資料の目的や、前回どのような内容をまとめたのか確認するところからだった。だが話を進めるうちに、リリアンナの質問は、少しずつ具体的な内容へ踏み込んでいく。
「魔物が大規模発生した場合、どの段階で辺境だけでは対応できないと判断なさるのでしょう。あらかじめ基準を決めておけば、早く申請できますし、王都側もどれほど切迫した状況なのか判断しやすいのではありませんか」
「……なるほど、それなら——」
不思議なことに、リリアンナと話していると、これまで曖昧だった部分が次々と浮き彫りになっていく。
問いかけに答えるため言葉にしていくうちに、ぼんやりとしていた考えが整理され、はっきりとした形になっていった。ただ必要な情報を聞き取られているだけではない。ガレスにとっても、自分の考えを整理し直す有意義な時間となっていた。
半刻ほどで話は終わった。
「ありがとうございます。必要なことは一通り伺えましたわ」
そう言って、リリアンナは立ち上がる。
◇◇◇
リリアンナは、聞き取りをしたその足で、文官たちの仕事部屋へ向かった。もちろんガレスの許可はとっている。
「皆様。お忙しいところを恐れ入りますが、わたくしにお力を貸していただけないでしょうか」
突然現れたリリアンナに頭を下げられて、驚く文官たち。しかし事情を聞くと、三人は身を乗り出す。
「もちろんです。むしろお礼を言わせてください」
「私たちもずっと、閣下のお力になりたいと思っておりました」
そこから先の仕事は、驚くほど速かった。
リリアンナは聞き取った内容を項目ごとに分け、分かりやすいようまとめていった。清書は文官たちへ振り分け、三本の羽ペンが紙を走る音が部屋にずっと響いている。
夕暮れが窓を赤く染める頃、資料は綴じ上がっていた。
(急ぎの仕事が片づいたら、今度こそお話ができる……)
◇◇◇
「こちらを」
差し出された資料を、ガレスは一枚ずつめくっていく。
項目ごとに情報が分けられ、重要なものほど自然と目に入る。内容についても不足はなく、それどころか根拠まで添えられ、口では説明しきれずにいた懸念まで、ちゃんと文字になって並んでいた。
(読みやすい……)
何度めくっても、抜けが見つからない。
「……これを、一日で」
「文官の皆様が力を貸してくださいましたので」
「いえ。……俺が何日かけても、ここまで分かりやすくまとめられません。……見事です。本当に」
「……ここに書かれていることは、すべて辺境伯様から伺ったものです。もし内容がよいのでしたら、それは辺境伯様がしっかりと領地のことを考えていらっしゃるからですわ」
リリアンナは、なんでもないことのようにそう言って微笑んだ。
ガレスは、しばらく資料とリリアンナを交互に見つめて、感心したように息を吐いた。
◇◇◇
その夜、執務室の机の上にはまだ報告書の山が残っていた。ガレスはそれを見つめたまま、しばらく動かなかった。
これは自分の仕事だ。ずっとそう思ってやってきた。
——他の者に任せられる仕事まで、抱え込む必要はございません。
「……レオン」
「はい、なんでしょう」
「……手伝ってもらえますか」
報告書から目を逸らさずに言った。背後でわずかに息を呑む音がする。それから、いつもより少し弾んだ声がした。
「もちろんです」
◇◇◇
翌日の午後には、最後の報告書へ署名を入れていた。
「……終わった」
七日近くかかると覚悟していた急務が、二日で片づいた。空になった机を見下ろしても、まだ実感がわかない。
ガレスは立ち上がると、リリアンナの元へ向かった。
「リリアンナ嬢、仕事がすべて終わりました」
はっとリリアンナは目を見開く。そして、ひとつ息を吸った。
「……辺境伯様」
「はい」
「改めて、お話したいことがございます」
リリアンナは左腕の銀の装飾具へ、指先を添えた。




