改稿中☆閑話②――リリアンナの風邪
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
「ルカさん、フレッドさん」
鈴を転がすような声がして、雪かきの手を止めた若い兵士たちが、そろって振り返った。
リリアンナが大きな籠を大事そうに抱えて歩いてくる。
「朝からご苦労様です。厨房で作っていただきましたので、どうぞ」
籠から取り出された容器から、白い湯気が立ちのぼった。
「生姜入りのスープです。温まるそうですよ」
「うわあ、ありがてえっす!」
フレッドが受け取り、さっそく口をつけた。喉から腹へ、じんわりと熱が落ちていく。かじかんで感覚のなくなっていた指先まで、血が巡ってくるようだった。
「あー……」
「生き返ります……」
「ふふ。よかったです」
リリアンナが嬉しそうに笑って、すぐに——。
「……くしゅん」
小さなくしゃみが出た。
「……失礼いたしました」
「い、いけません! 中に戻った方がいいですよ」
「向こうにいる方々にお配りしたら、すぐに戻りますわ」
そう言って、リリアンナは籠を抱え直して小走りに去っていく。その背中を見送りながら、ルカが呟いた。
「なあ……。なんでリリアンナ様って、結婚相手が見つからなかったんだ?」
「さあ。王都の奴らの見る目がないんじゃねえの」
「だよなあ」
二人は再びスープをすすった。
「「あったまるー……」」
◇◇◇
リリアンナがヴァルグレイブ邸へ来て、そろそろひと月半になるが、屋敷での毎日は驚くほど充実していた。
厨房へ行けば料理人たちが笑って迎えてくれるし、文官の仕事を手伝えば喜ばれる。書庫にはまだ読んでいない本が山ほど残っていて、いくら通っても足りないくらいだった。
ガレスとも、ずいぶん話せるようになった。廊下ですれ違えば足を止めてくれるし、こちらが本の話を始めると、短い相槌を挟みながら、最後まできちんと聞いてくれる。
楽しくて、嬉しくて、毎日があっという間に過ぎていく。——だから気づけなかった。
◇◇◇
「ただの風邪ですね」
寝台の脇で、初老の医官がそう告げた。
リリアンナの手首から指を離し、額に乗せられた濡れ布の位置を直してから、後ろを振り返る。
そこにはガレスとエマ、フィーネとハンスがそろって立っていた。
「慣れない環境で、疲れも溜まっていたのでしょう。熱が下がるまで安静にしていれば、すぐに治ります」
「うわああん。リリアンナ様がかわいそうです……!」
エマが目を真っ赤にして、リリアンナの足元にしがみついた。
「……リリアンナ嬢」
ガレスが険しい顔で見下ろしている。
「熱が下がるまで、絶対に安静にしてください」
「はい……」
「絶対にです」
「……はい」
◇◇◇
少しして、うとうとしていたリリアンナは、耳慣れない物音で目を開けた。
がたごと、と何か重いものを引きずる音がする。寝返りを打つと、寝台のすぐ横に椅子と小さな文机が据えられていて、その上には書類の束が積まれていた。
「……辺境伯様?」
「どうしました? 寒いですか」
「いえ……その、辺境伯様は何をなさっているのですか」
「仕事です」
「……ここで、でございますか」
「はい」
ガレスは当たり前のように、椅子へ腰を下ろした。
「容体が気になりますので、今日はここで仕事をします。何かあれば、すぐに言ってください」
リリアンナは、ぽかんと彼を見上げた。領主として朝から晩まで忙しく働いている人だ。それなのに、たかが風邪ひとつのために執務室を離れ、わざわざ仕事のしづらいこの部屋にまで来ている。
「あの、辺境伯様。わたくしは本当に、ただの風邪で……」
「用がないのでしたら、休んでください」
「……はい」
たしなめられて、言われるままに目を閉じた。すぐ横で、紙をめくる音が規則正しく続いている。その音を聞いているうちに、リリアンナはいつのまにか眠りについていた。
◇◇◇
その日、リリアンナの部屋には人が絶えなかった。
料理長が消化に良いスープを届けに来て、レオンが読みやすい本を選んで持ってきた。兵士たちは代わる代わる果物を置いていき、エマは数十分おきに様子を見に来ては、そのたび泣きそうな顔をする。
バルドはどこかで狩ってきた猪を担いで現れ、お見舞いの言葉も言わせてもらいないまま、ガレスに摘まみ出された。
他にも屋敷の者たちが次々に訪れ、気づけば寝台のまわりはお見舞いの品で埋まっていた。
◇◇◇
夜になって、熱が上がった。リリアンナの視界が、ゆらゆらと揺れている。
ガレスはもう書類を見ていなかった。ぬるくなる前にと、額の布を取っては水に浸し、固く絞ってまた乗せる。それを何度も繰り返していた。
リリアンナは、ぼんやりとそれを眺めていた。
(……失敗してしまった)
体調管理を怠った。
自分のような人間は、ひとつでも多く役に立って、ここにいてよいのだと認めてもらわなければいけないのに。それなのに、こうして風邪をひいて、ガレスや屋敷の方々の手を煩わせている。
(……ここに来てから毎日楽しくて、油断してしまったのだわ)
ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「リリアンナ嬢!?」
ガレスが布を取り落とした。
「苦しいのですか? すぐに医官を——」
「ち、違います。大丈夫です。すみません、すぐに泣き止みますので」
「……」
ガレスは困ったように眉を寄せた。それから、おそるおそる手を伸ばしてリリアンナの髪を撫でる。壊れ物を扱うような手つきだった。
「……ただ、少し。何のお役にも立てず、皆さまにご迷惑ばかりかけている自分が、情けなくなっただけです」
「情けない?」
「はい……」
ガレスは手を止めて、真剣な顔で考え込んだ。
愚痴までこぼしてしまったことに、リリアンナはさらに落ち込む。こんなことを言われても、ガレスが困るだけなのに。
「……もし」
「……?」
「うちの兵が怪我をして療養中だとします。リリアンナ嬢は、その者を見てどう思われますか」
突然の問いに、リリアンナは瞬きをした。
「それは……早く治ってほしいと思います」
「役立たずだと思いますか」
「思うわけがありません! 怪我をした方が悪いなんて、そんなことは……」
「……そうですか」
ガレスが頷いた。そして、少し間を置いてから続ける。
「俺も、そう思います」
リリアンナは、はっと目を見開いた。
「その……つまり、ですね」
ガレスの視線が泳ぐ。
「貴女が熱で休んでいるのを、迷惑だなどと思うわけがなく……。俺も、他の者たちもです。それどころか、いつも頑張りすぎだと思っていて、いや、助かってはいるのですが、そうではなく……」
うーん、眉を寄せて言葉に詰まる。それでもガレスは話すのを止めなかった。
「……すみません。うまく言えませんが——」
一度、短く言い切った。
「何かをしてくれなくても、いいんです」
「……」
「リリアンナ嬢が元気でいてくれたら、それだけで、俺は嬉しいです」
部屋が、静かになった。
何か言わなければと思うのに、ありがとうの一言すら出てこなかった。
リリアンナの目から、ぽろぽろと涙が溢れた。
滲んだ視界の中で、ガレスが慌てて手を伸ばしてくるのが見える。
「あーっ! 旦那様がリリアンナ様を泣かせてる!」
「なっ……! いや、違っ……」
「泣いてます! 絶対泣いてます!」
「お、俺のせいですか……?」
「お二人とも、騒がしくするなら出て行ってください」
フィーネが二人を叱る声が、遠くなっていく。薬が効いてきたのだろう。リリアンナは、その騒がしさに包まれながら眠りに落ちた。
◇◇◇
三日後。
すっかり熱の下がったリリアンナは、その日も屋敷の外にいた。雪かきをしている兵士たちへ、温かな飲み物を配って回る。
以前とまったく同じ光景のはずが、一つだけ違っていた。
「リリアンナ様、もう平気なんですか」
「はい。ご心配をおかけしました」
「……それにしても、えらく重装備ですね」
厚手のフード付きマント。大きめの耳当て。裏地に毛の入った手袋。雪の入らない編み上げのブーツ。マントの下には、ふわふわのストールまで巻かれている。どれも辺境仕様の品で、風をまるで通さない。
「辺境伯様が選んでくださいました」
言いながら、リリアンナは頬が熱くなるのを感じた。
熱が下がってすぐのことだった。「王都のものでは心もとない」という言葉とともに、防寒具一式が部屋に運び込まれてきたのだ。
兵士たちが、にやにやと顔を見合わせてた。
「……なんですか。そのお顔は」
「いえ、何も」
「とにかく、病み上がりなんですから、すぐに戻ってくださいよ」
「ええ。ありがとうございます」
リリアンナは笑った。
——この屋敷が好きだ。ここにいる人たちが好きになってしまった。
だからこそ、胸の奥に小さな痛みが生まれる。
手袋の上から、そっと左手に触れる。布の下に、硬い感触があった。
こんなに優しくしてもらっているのに、リリアンナは大切なことを何も話していない。
(だましているのと同じではないかしら)
「リリアンナ嬢」
ふいに視界が暗くなり、肩に重たいものが乗った。
「わっ……」
振り返ると、ガレスが立っていた。自分の外套を、リリアンナの肩へ掛けたところだった。
「病み上がりです。早く戻ってください」
「あの、これでは辺境伯様が寒く……」
「俺は寒いのには慣れています」
言い終わる前に、そう返された。
見下ろせば、外套はリリアンナには大きすぎて、身体はすっかり布に埋もれてしまっている。裾は今にも雪に届きそうだった。それでも中は、ガレスの体温が残っていて、ぽかぽかと温かい。
「……ふふ」
思わず笑ってしまった。
「何か」
「いいえ。大きいから、転ばないように気をつけないと、と思っただけですわ」
「俺が支えるので心配なく。それよりも早く戻りましょう」
「はい」
大きすぎる外套を引きずらないように気をつけながら、二人は並んで屋敷へ戻る。ガレスは歩幅を狭めて、リリアンナに合わせて歩いてくれていた。
——この婚約を、まだ終わらせたくない。
祝福について話せていない罪悪感が強くなる一方、そんな思いがリリアンナの中で形になり始めていた。




