改稿中☆28 手放したくないもの
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
「……以上がわたくしに噂が立ったことと、社交界を離れた理由です」
話し終えるのを待っていたかのように、暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。
そのあとは、誰も口を開かなかった。
リリアンナは伏せていた目を、そっと膝の上へ向ける。そこにはガレスの頭があった。
二メートル近い大きな身体が、長椅子をほとんど占領するように横たわっている。こうして間近で見ると、肩も腕も、膝に預けられた頭さえも、何もかもが大きい。
そんな人が今は、まるで幼子のように無防備な顔で、穏やかな寝息を立てている。
リリアンナは、そっとその髪へ触れた。
これまで、自分の祝福のせいで、どれだけの人を巻き込んできただろう。
父も。ルベルハルト家の者たちも。祝福の騒動に巻き込まれた人たちも。
そして——マリアベルも。
(……この方まで)
もし自分のせいで傷つけてしまったら。
考えたくないのに、一度浮かんだ不安は胸の奥へ冷たく広がっていく。
どれほどそうしていただろう。
「……なるほど」
ようやくハンスが口を開いた。
いつもの柔らかさを失った低い声に、リリアンナはおそるおそる顔を上げる。
「実に腹立たしいお話でございますな」
「……え?」
柔和な老執事の顔から、笑みが消えていた。
「八歳の幼子を化け物と呼ぶ者。十五歳の娘が懸命に積み重ねた努力を、面白半分に踏みにじる者。そして、ようやくできたご友人まで傷つけられた。それのどこにリリアンナ様の罪がございましょう」
言葉の一つひとつは落ち着いているのに、その奥には押し殺した怒りがにじんでいた。
「……ですが」
「ケージ子爵令嬢がお怪我をなさったのは、リリアンナ様のご友人だったからではございません」
先ほどよりもハンスの声音が強くなる。
「他人の友情を気に入らないというだけで脅し、傷つけようとした者が悪いに決まっております」
「……」
父も、伯爵家の者たちも、これまで何度も同じように言ってくれた。
——リリアンナは悪くない、と。
頭では分かっていても、心は納得してくれない。
マリアベルが傷ついたあの場に自分がいた。自分と友人にならなければ、彼女はあんな目には遭わなかった。
その事実だけが、今も胸の奥に棘のように残っている。
だからこそ——。
「……ハンスさん」
「はい」
「わたくし……仮婚約を、終わらせようと思っております」
空気が止まった。
ハンスは瞬きもせず、リリアンナを見つめている。
「…………はい?」
ハンスから、予想もしていなかった間の抜けた声が返ってきた。
リリアンナは驚いて、わずかに肩を揺らす。
つい先ほどまで静かな怒りをにじませていた老執事が、今度は目を丸くしていた。
「その……三か月が終わる前に、わたくしからお断りした方がよいのではないかと」
「……それは、これまでのお話をすべて踏まえてのご判断でございますか」
「……はい。先日のジョルジュ様のことも含めて考えました」
リリアンナは左手首へ目を落とした。
「わたくしの祝福は、わたくしの意思とは関係なく、人に影響を与えてしまいます。装飾具で抑えていても……先日のように何かの拍子に外れてしまえば、また誰かが傷つくかもしれません」
けれど、それだけではない。
「それに……わたくしの評判のこともございます」
ハンスは口を挟まず話を聞いている。
「辺境伯夫人になれば、辺境伯様のお隣に立つことになります。王都の方々とお会いする機会もあるでしょう。ですが、今のわたくしでは……きっと辺境伯様の足を引っ張ってしまいます。何をしても悪く取られてしまうような人間が、辺境伯家に嫁ぐべきではないと思うのです」
それに。またデボアのような人間が現れたら。今度は自分だけではなく、ヴァルグレイブ家まで巻き込むことになるかもしれない。
ハンスはしばらく考えるように目を伏せていたが、やがて静かに息を吐いた。
「……リリアンナ様のおっしゃりたいことは、よく分かりました。これまでのことを考えれば、そのような結論に至られるのも無理はございません」
その言葉に、リリアンナは黙って耳を傾ける。
「ですが、それを承知したうえで、私個人の意見を申し上げてもよろしいでしょうか」
「……はい」
ハンスは、リリアンナを安心させるように柔らかな笑みを浮かべた。
「確かに、リリアンナ様の祝福には、人を傷つける可能性がございます。ですが大切なのは、そのような力を持っていることではなく、その力とどう向き合っているかではございませんか」
「……どう、向き合っているか」
「ええ」
ハンスは眠っているガレスへ目をやった。
「性質こそ違いますが、旦那様をはじめ、この屋敷にいる兵士たちも、人を傷つけうる力を持っております。むしろ、これまで実際に剣を振るってきた者なら、リリアンナ様より多くの人を傷つけているでしょう」
リリアンナは思わずガレスを見る。
「ですが、私は彼らを危険な人間だとは思いません。己の力を知り、むやみに振るうことなく、必要なときにだけ使う者たちだからでございます」
諭すような声音に、責める響きは少しもなかった。
「リリアンナ様も同じでしょう。ご自身の祝福がどのようなものかを理解し、装飾具で抑え、決して悪用しようとはなさらない。先日のように装飾具が外れることがあるのなら、次は外れぬ方法を考えればよい。万が一外れたときにどうするかも、皆で考えればよいのです」
「皆で……」
「はい。何か起こるかもしれないからと、リリアンナ様ご自身を遠ざけることだけが、解決方法ではございませんよ」
その言葉が、ゆっくり胸へ染み込んでいく。
これまでは何かが起こるたび、自分がいなければよかったのだと思っていた。自分さえ離れれば、それで済むのだと。
けれどハンスは、一人で抱えて消えてしまうのではなく、次に起こさないための方法を一緒に探そうと言っている。その考え方は、リリアンナにとってあまりにも新しかった。
「それから、リリアンナ様が気にしておられる評判についてですが……私はそちらの方が、よほど気にする必要がないと思っております」
「……気にする必要が、ないのですか?」
「ええ。このひと月半、リリアンナ様がどのようなお方なのか、十分に見てまいりましたので」
厨房で料理人たちと言葉を交わす姿も。文官たちの仕事に興味を示す姿も。兵士たちを気遣う姿も。
そして今、眠れずにいたガレスをこうして休ませている姿も。
「噂で聞いていたお方とは、まるで違う。そんなことは、とうに分かっております」
ハンスはそう言うと、何やら企むように目を細めた。
「間違った噂であるならば、この先も黙って受け入れ続ける必要などございません。正していく方法はございます」
「そ、そんなことが……」
「ほっほっほ」
返ってきたのは、妙に楽しげな笑い声だった。
「年寄りを侮ってはいけませんぞ。噂というものには流れがございます。作られた流れなら、こちらから変えることもできる。……場合によっては、口を閉ざしていただく方が早いこともございますが」
「……ハンスさん?」
今、さらりと物騒なことを言わなかっただろうか。
思わず聞き返したリリアンナに、ハンスは何食わぬ顔で微笑んだ。
「おや。何も悪いことをするわけではございませんよ」
それ以上は何を聞いても教えてくれそうにない。
ハンスはその話を切り上げるように笑みを深めると、今度はまっすぐリリアンナを見る。先ほどまでの含みのある笑顔とは違う、ひどく優しい眼差しだった。
「少なくとも私は、旦那様のお相手がリリアンナ様以外であるなど、もはや考えたくもございません」
あまりにも迷いなく言い切られて、リリアンナは戸惑うように目を見開いた。
「……そんなふうに、思ってくださっているのですか」
「ええ。もちろんでございます。ですから今度は、リリアンナ様ご自身のお気持ちをお聞きしたいのです」
「わたくしの……?」
「祝福のことも、評判のことも、いったん脇へ置いてくださいませ。そのうえで——リリアンナ様は、旦那様との仮婚約をどうなさりたいのでございますか」
そう問われて、リリアンナは言葉に詰まった。
これまで考えていたのは、ずっと「どうするべきか」だった。
辺境伯家のために。ガレスのために。周囲へ迷惑をかけないために。
では、自分はどうしたいのか。
「……わたくしは」
膝の上へ目を落とす。眠るガレスの顔がある。
彼と過ごしたひと月半を思い出した。
「……諦めたく、ありません」
口にした途端、胸の奥に押し込めていた気持ちが溢れた。
手放したくない。
この仮婚約も。この屋敷で過ごす時間も。——そして、辺境伯様のことも。
「本当は……この仮婚約を終わらせたくないのです」
そこまで言うと、もう誤魔化せなかった。
「けれど、わたくし一人では、どうしても諦める以外の答えを見つけられませんでした。だから……ハンスさんに、すべてお話ししてみようと思ったのです」
「そのように頼っていただけたことが、何より嬉しゅうございます。リリアンナ様が、お一人で答えを出してしまわず、私に話してくださったことも」
ハンスは心から嬉しそうに目元をやわらげた。
(……ハンスさんに相談して、よかった)
不安がすべて消えたわけではない。
祝福が危険であることも、悪評が消えていないことも変わらない。
それでも。もう、自分一人で二人の未来を決めてしまうのはやめようと思った。
リリアンナはひとつ息を吸い、覚悟を決める。
「ハンスさん……わたくし、辺境伯様にお話しいたします」
「ええ。それがよろしいでしょう」
ハンスは嬉しそうに頷いた。
「……ちゃんとお話しできるでしょうか」
「できますとも」
返事には、わずかな迷いもなかった。
「それに、旦那様ならば、リリアンナ様のお話を聞くだけで終わりにはなさいませんよ」
「……え?」
「二人の未来をどうするのが一番よいのか。きっと、リリアンナ様と一緒に考えてくださいます」
その言葉には、長くガレスを見てきた者だからこその確信があった。
「ですから、どうか怖がらずにお話しくださいませ。お一人では見つけられなかった答えも、お二人なら見つけられましょう」
「……はい」
今度の返事には、先ほどまでの迷いはなかった。
膝の上で眠るガレスを見る。
(彼にすべてを話そう)
祝福のことも。怖いと思っていることも。それでも本当は、仮婚約を終わらせたくないことも。
どんな答えが返ってくるのかは、まだ分からない。
それでも今度は。自分一人で、終わりを決めてしまわないために。




