改稿中☆27 初めての友達
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
それからの数か月を、リリアンナは今でも覚えている。夜会が待ち遠しかったのは、後にも先にも、あの秋だけだった。
夜会のたびに、小部屋の隅でマリアベルが手を振ってくれた。
「リリアンナ様、これを」
いつも本を持ってきていた。
「先週の続きです。後半の……ああ、言ってはだめですね。すごいので、読んでください」
「あら、それは楽しみだわ」
「はい、本当にすごいんです!」
眼鏡の奥でマリアベルの目が輝いている。語彙が消えるほど興奮している彼女に、リリアンナは笑った。
二人は本を交換した。
借りた本に、感想を書いた紙を挟んで返すと、次はもっと長い紙が挟まって返ってくる。
やがて手紙をやりとりするようになった。
茶会にも招かれた。そこで案内されたケージ家の書庫は、壁一面を埋め尽くすほど本が並んでいた。
「父が本ばかり買うのです。おかげで我が家は貧乏なのに本だけ多くて」
マリアベルが恥ずかしそうに言った。
二人はその日、日が暮れるまで書庫で語り合った。
◇◇◇
異変に気づいたのは、秋の終わりだった。
その夜、小部屋にマリアベルの姿はなく、広間を探しても見つからない。次の夜会でも会えなかった。
三度目の夜会でようやく見つけた彼女は、柱の陰でうつむいていた。
「マリアベル様」
リリアンナが声をかけると、その肩が跳ねた。
「……リリアンナ様」
「どうかなさいましたか」
「……いいえ」
明らかに顔色が悪かった。その手を取るとひんやり冷たい。
しばらく黙っていたマリアベルの唇が、ようやく動いた。
「……あの方に、言われました」
「あの方?」
「バーリンガム侯爵令嬢に」
その名前を聞いて、リリアンナの指がこわばる。
「リリアンナ様と関わるのは、およしなさい、と……」
「……」
「……あなたのお家がどうなってもよいのか、と」
リリアンナは目を伏せた。
自分が何を言われるかは、いつも考えていた。けれど、自分と関わっただけで、彼女まで傷つけられるなんて考えてもいなかった。
「マリアベル様……もう、わたくしとは」
「お断りしました」
「……え」
リリアンナは顔を上げた。マリアベルは指まで震えていた。
「……お、お断り、いたしました」
「なぜ」
「なぜ、と言われましても……」
彼女はうつむいたまま、それでもはっきりと言った。
「わたしは、リリアンナ様と本のお話がしたいのです」
マリアベルは、挨拶をされただけでも緊張して声の出なくなる人だった。夜会のたびに人目を避け、小部屋へ逃げ込んでいた。
そんな彼女が、デボアに脅されながらも、リリアンナとの付き合いをやめることだけは拒んだのだ。
「……マリアベル様」
「わ、わたし、……間違っていることは、間違っていると言うべきだと思って……」
「……ありがとう、ございます」
握り合う手には同じ震えがあった。
◇◇◇
その報いは、二週間後に訪れた。
侯爵家主催の夜会。広間の中央に、不自然なほど大きな人だかりができている。
笑い声の中に、かすかに聞き覚えのある声が聞こえた。
「……返して、ください……」
リリアンナの胸がざわついた。
人垣へ駆け寄り、隙間を縫うようにして前へ出る。そこで目に飛び込んできた光景に足が止まった。
マリアベルが床に膝をついている。
彼女の周囲には、何枚もの紙が無残に散らばっていた。そこに見覚えのある表紙が目に入って、息を呑む。
本だ。
つい先日、リリアンナが彼女へ貸した本だった。
表紙が外れ、引き剥がされた頁が広間の床一面へ散っている。
「お礼を言っていただいてもよろしくてよ」
デボアは扇で口元を隠し、満足そうな笑みを浮かべる。
「こんな埃くさいもの、置いておく価値もございませんでしょう? ですから、ごみにして差し上げましたわ」
「……ひどい」
マリアベルが震える指で、床に散った頁を必死にかき集めていた。
「これはリリアンナ様の……」
「あら、聞こえないわ」
取り巻きの令嬢が、マリアベルの手元から一枚の紙をつまみ上げる。
「なあにこれ。……感想を書いていらっしゃるの?」
くすくすと笑い声が広がった。
「ねえ、読んで差し上げましょうか。みなさまに」
——気づいたときには、リリアンナは人垣の前へ踏み出していた。
「おやめください」
自分でも驚くほどはっきりとした声が出る。
笑い声が途切れた。
広間にいた者たちの視線が、一斉にリリアンナへ向けられる。
リリアンナは散らばった頁を踏まないように進み、マリアベルを庇うように、その前に立った。
「その紙をマリアベル様へお返しくださいませ」
リリアンナはデボアから目を逸らさなかった。
これまで何を言われても、言い返したことはない。ワインを浴びせられても、化け物と呼ばれても、自分のことならいくらでも耐えられた。
——けれど。
「わたくしのことは、何とおっしゃっても結構です。ですが、その方は関係ございません」
誰も声を発しなかった。
デボアの目が細くなる。その視線がリリアンナの左腕へ落ちた。袖の下に隠された銀を確かめるように。
「ずいぶん勇ましくなられたのね、リリアンナ様」
デボアは口元に微笑みを浮かべたまま、背後の令嬢へ視線を送った。
衣擦れの音がして、背後に控えていた令嬢の手がリリアンナの左腕に触れる。
止める間もなかった。
何をされるのか理解するより早く、金具が外れた。
「あ——」
銀の輪が腕を滑り落ちる。
カアアアアアアアン。
鐘が鳴った。
八つのあの夜から一度も聞いていなかった音が、広間いっぱいに響き渡った。
変化はすぐに訪れる。
「……美しい」
隣にいた若い令息がそう漏らした。彼は瞬きもせずリリアンナを見つめていた。その瞳からみるみる理性の色が消えていく。
「……っ」
リリアンナは、床に転がった銀の輪へ手を伸ばしたが、あと少しというところで腕を掴まれた。
悲鳴が上がる。杯が割れた。誰かが誰かを突き飛ばした。
「離してっ……!」
人が動く。誰かが誰かを押し退け、椅子が倒れる。
先ほどまで華やかだった広間が、混乱に飲み込まれた。
(早く装飾具を着けないと……!)
人が押し寄せる。
我先にと伸ばされる手。欲に濁ったいくつもの瞳が、自分だけを追っている。
「リリアンナ様!」
その声に心臓が跳ねた。
紙を抱えたまま、彼女が駆け寄ってくる。
(だめ。来ないで)
声を出す前に、もつれ合う人の腕が小さな身体を弾いた。
華奢な身体が大きくよろめき、人波に飲まれ視界から消えた。直後、何か硬いものが割れる音が響く。
「マリアベル様!」
リリアンナは掴まれた腕を渾身の力で振り払い、手を伸ばす。装飾部を掴んで金具を押し込んだ。
すぐに令息が、呆けたように瞬きをする。
「……私は、何を」
そんなことに構っている余裕はなかった。
リリアンナは、人を押し分けマリアベルのもとへ走る。
「マリアベル様……!」
床に倒れた彼女は、左腕を胸元へ抱え込み、痛みに耐えるように身体を丸めていた。
傍らには割れた眼鏡。レンズが砕け、破片が床に散らばっている。
「……り、リリアンナ、さま」
か細い声が返ってくる。その手がまだ、破れた頁を握りしめていた。
ほどなくして、ケージ家の者たちが駆けつけ彼女を運んでいく。
リリアンナはただ見送ることしかできなかった。足に力が入らず、床に膝をついたまま動けない。
——ふいに、視線を感じた。
顔を上げると、デボアが立っていた。扇の向こうで口元だけが笑っている。
「ご自分では、何もしていないおつもり?」
視線が、はめ直されたばかりの銀の装飾具へ向いた。
「あなたが存在しているのが悪いのよ」
◇◇◇
翌日には、昨日の出来事はまるで別の話へと姿を変えていた。
『ルベルハルト伯爵令嬢が男を使って騒ぎを起こした。止めようとしたケージ子爵令嬢が巻き込まれて怪我をした』
リリアンナはケージ家へ手紙を書いた。
マリアベルの容態を案じ、自分のせいで巻き込んでしまったことを詫び、どうか一度だけでも会わせてほしいと願った。
三度書いて。三度とも返事は来なかった。それでも諦めきれず、四通目を書いた。
数日後、ようやく届いたのは、ケージ子爵からの短い書状だった。
『娘は療養している。当面、面会も文通も控えていただきたい』
……責める言葉はひとつも書かれていなかった。罵られた方がまだよかったかもしれない。
何も書かれていないことが、かえって胸に深く刺さった。
◇◇◇
その夜、リリアンナは執務室の扉を叩いた。
「お父様、お願いがございます」
父の机の前まで進み、膝を折った。七年間、繰り返し練習をしてきた礼。
「……もう、社交の場へ出るのを止めてもよろしいでしょうか」
「……リリアンナ」
「わたくしは……わたくしがいると、みなさまが……」
続けようとして、声が詰まった。
自分のせいでワインを浴びせられるのなら、まだよかった。
化け物と呼ばれるのも、自分のことなら堪えられた。
けれど、大切な人が自分のせいで傷つくのは……嫌だった。
「……すまなかった」
ロイドが机を回りこみ、娘の前で膝をつく。
いつも見上げていた父の顔が、同じ高さにあった。
「謝るのは、わたくしです」
「いや」
ロイドの手が娘の頭に触れる。
「もっと早く私が止めるべきだった」
髪に触れた指先がかすかに揺らぐ。
リリアンナは何も言えずうつむいた。
泣きたかった。でも、泣けば父はもっと自分を責める。
だから唇を噛み、込み上げるものを懸命に飲み込んだ。
◇◇◇
十六の春。リリアンナは社交界から姿を消した。
デビュタントから、わずか一年。夜会にも。茶会にも。二度と参加しなかった。
そして——それきり、マリアベル・ケージに会うことは、なかった。




