03 辺境伯、一目惚れする
ヴァルグレイブ邸は、朝から落ち着かない空気に包まれていた。
理由はただ一つ。
まもなくガレスの花嫁候補が、屋敷へやって来る。
兵士たちはそわそわと鎧の紐を締め直し、侍女たちは客間に不備がないか何度も確認している。文官たちは緊張のあまり、抱えていた書類を派手にぶちまけていた。
その中心で、レオンが自作の分厚い『リリアンナ様お迎えパーフェクトマニュアル』を片手に、最後の厳しい訓戒を飛ばしている。
「いいですか。どのような女性が来ても、決して動揺しないように。こちらが慌てれば、お相手に不安を与えます。笑顔、礼節、そして落ち着き。これが基本です。返答は簡潔に。質問は丁寧に。侍女は距離を詰めすぎないように。エマ、あなたに言っているのですよ」
「は、はいっ!」
こうして、まだ見ぬ未来の婚約者を迎える準備は整った。
◇◇◇
「ば、馬車が来たぞお——っ!」
門番の野太い声が、冷えた空気を震わせた。
その途端、それまでそわそわしていた面々が一斉に背筋を伸ばし、ずらりと並んだ。まるでこれから閲兵式でも始まるかのような物々しさである。
その最前列には、もちろんガレスが立っていた。
「閣下、くれぐれも怖がらせないようにお願いしますよ。いつもの仏頂面は封印してください。できるだけ柔らかく、優しい顔で。そうですね……普段の三倍くらい大げさにやるつもりで、ちょうどいいです」
「分かりました」
ガレスは真剣な顔で頷いた。
せっかく仮婚約を受けてくれた相手を初対面で怯えさせて、逃げ帰らせるようなことだけは何としても避けたかった。
ほどなくして、白い息を吐く馬に引かれ、馬車が音を立てて停まった。
出迎えの者たちの頭に、それぞれの想像がよぎる。
(ユニークなご尊顔か……)
(手のつけられない、じゃじゃ馬娘か……)
(男関係の絶えない妖艶な美女か……)
結婚相手が見つからない事情とはいったい何か。
これから現れる令嬢を見れば、その理由が分かるかもしれない。
どんな女性が現れても驚かない。誰もが覚悟を決めたそのとき——馬車の扉が開き、一人の少女が姿を現した。
まるで時が止まったようだった。
誰も動かない。
誰も声を発しない。
出迎えた一同は、吸い寄せられるように彼女を見つめていた。
冬の淡い日差しを溶かし込んだような、ミルクティー色の髪。瑠璃色の瞳に、すっと通った鼻筋、薄く色づいた唇。そのどれもが、見惚れるほど美しく整っている。
名工が丹精込めて作り上げた人形のようだった。
「はじめまして。リリアンナ・ルベルハルトと申します」
鈴を転がすような澄んだ声。流れるように優雅な一礼のあと、彼女はふんわりと微笑んだ。
笑うと、印象がまるで変わった。
近寄りがたいほど整った美貌が、春の陽だまりのような温かさを帯び、思わず守りたくなるほどの愛らしさをのぞかせる。
「「「…………」」」
レオンの訓戒など、もはや誰の頭にも残っていなかった。
ガレスもまた、ただリリアンナを見つめていた。
これほど美しい女性を見たのは、生まれて初めてだった。どこを見ても整いすぎていて、視線の置き場に困るほどだ。
それでも目を逸らすことができない。ただ呆然と、その姿を見つめ続けていた。
一方、リリアンナは出迎えの列へと視線を巡らせていた。
その視線が、最前列に立つひときわ大きい男のところで止まる。
男はヴァルグレイブ家の紋章が入った軍服を身にまとい、その場にいるだけで周囲を圧するような存在感を放っている。
(この方が……辺境伯様かしら)
リリアンナは軽やかな足取りで、男の前まで歩み寄った。
すぐ目の前まで来ると、ますますその大きさが際立つ。リリアンナの頭は、彼の胸元にようやく届くほどしかない。
見上げる彼女と、見下ろす彼。その体格差は、大人と子どもほどもあった。
「……もしかして、ヴァルグレイブ辺境伯様でいらっしゃいますか」
まっすぐに問いかけられ、ガレスはわずかに息を詰めた。
「……はい。俺がガレス・ヴァルグレイブです」
その答えを聞いて、リリアンナは改めて目の前の男を見上げた。
リリアンナをすっぽり覆い隠してしまえそうなほど大きな体に、鋭い金色の瞳。顔を大きく横切る傷跡。
(なるほど。クロード殿下の手紙にあった『見た目はいかつい』というのは、こういうことなのね)
北の国境地帯は、戦だけでなく魔物も多い土地だと聞いている。顔の傷も、戦いの中で負ったものなのだろうか。
リリアンナは興味深そうにガレスの姿を眺めていた。
そんなふうにじっと見つめられているガレスは、それどころではない。
頭の中が真っ白だった。
歓迎の言葉も、昨夜遅くまで繰り返し練習した挨拶も、何一つ出てこない。どうにか口にできたのは、自分の名前だけ。
しかも、顔の筋肉が強張っているのが自分でも分かった。三倍優しい顔をするどころか、いつも以上に恐ろしい顔になっているかもしれない。
ガレスの背筋を嫌な汗が伝う。
(しまった……絶対に怖がらせた……!)
また怯えられる。また逃げられる。
ガレスの気持ちが沈みかけた、そのとき——。
リリアンナが、ふわりと笑った。
「お会いできて嬉しいです。どうぞ、よろしくお願いいたします」
その顔には怯えも、逃げ出そうとする素振りもない。
瑠璃色の瞳が、まっすぐにガレスだけを映していた。
どくん、と心臓が大きく跳ねる。
これまで向けられてきたのは、怯えた顔と逃げていく背中ばかりだった。
それなのに彼女は——この自分に、会えて嬉しいと笑いかけてくれたのだ。
冬の冷たい空気も、背中を伝っていた汗も、周囲の視線も、何もかもが遠のいていく。
目に映るのは、自分を見上げて微笑む可憐な少女ただ一人。
その瞬間——。
ガレス・ヴァルグレイブは、あっけないほど簡単に恋に落ちた。
「……っ」
胸の奥が、焼けるように熱い。
けれど本人は、突然芽生えたこの感情をどう扱えばいいのか分からない。小柄な令嬢を前に、ただ立ち尽くしていた。
そんなガレスを、レオンの声が現実へ引き戻した。
「閣下、しっかりしてください。ご令嬢を、いつまでも寒空の下に立たせておくおつもりですか」
「……っ、すみません。すぐにお部屋へご案内します」
慌てて案内に立とうとするガレスの後ろで、兵士たちが小声でささやき合う。
「……おい。本当にあの方が、結婚相手が見つからなくて困ってたご令嬢なのか?」
「誰だよ、容姿に難があるかもなんて言ったやつ」
「じゃあ、いったい何が理由なんだ……?」
その声は、リリアンナの耳にも届いていた。
ほんの一瞬、その瞳に翳りがよぎる。右手の指先が、左手首の銀の装飾具に触れた。
ほんのわずかな変化だった。
だがガレスは、それを見逃さなかった。
「そこまでです」
ガレスの鋭い声に、兵士たちはびくりと肩を跳ねさせた。
「人の事情を、面白半分に詮索するものではありません」
「「も、申し訳ありません!」」
兵士たちは一斉に頭を下げた。
ガレスは申し訳なさそうにリリアンナへ向き直る。
「部下が失礼をしました」
「いいえ、気にしておりません。突然決まった仮婚約ですもの。どんな相手なのか気になるのは当然ですわ」
そう言って、穏やかに微笑む。
その笑顔をまともに向けられたガレスの顔が、みるみる赤くなった。
「……では、こちらへ。お部屋までご案内します」
「はい。お願いいたします」
二人は並んで屋敷の中へと入っていく。
その後ろ姿を見送りながら、兵士たちはしばらく呆然としていた。
「……俺たち、あんな失礼なことを言ったのに……」
「笑って許してくださった……」
しゅんと肩を落とす兵士たちの横で、文官の一人が心配そうに屋敷の方を振り返った。
「……閣下は大丈夫だろうか」
「あの様子じゃ、駄目かもしれないですよ」
使用人の言葉に、周囲の者たちも深く頷いた。




