02 王家からの手紙
ルベルハルト伯爵邸。
午後の柔らかな陽射しが差し込む自室で、リリアンナは一人、本を読んでいた。
屋敷の中はいつもと変わらず静かで、聞こえるのは時折ページをめくる音くらい——のはずだった。
廊下の向こうから、ばたばたと走る音が近づいてくる。この屋敷では滅多にない慌ただしさに、リリアンナは本から顔を上げた。
(何かあったのかしら?)
そう思った直後、扉が強く叩かれた。
「お、お嬢様!」
切羽詰まった声に、リリアンナは思わず肩を跳ねさせた。
「ど、どうぞ」
返事をすると、待ちきれなかったように扉が開く。飛び込んできたのは使用人のセラフで、廊下を駆け通してきた彼は、すっかり肩で息をしていた。
「どうしたの、セラフ? 何があったの?」
「お嬢様! お、お、落ち着いて聞いてくださいね!」
「え、ええ……? でも、慌てているのはセラフの方じゃ……」
セラフの勢いにつられてうろたえるリリアンナに、セラフはぶんぶんと首を横に振った。
「今はそうですけど! この話を聞いたら、お嬢様だって絶対に落ち着いていられませんよ!」
「そ、そんなに大変なことなの?」
「大変です! ものすごく大変です!」
そこまで言うと、セラフは大きく息を吸った。
リリアンナもごくりと唾を呑む。
「お嬢様に——縁談のお話が来ました!」
「……えん、だん?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
(えんだん……縁談!?)
その言葉が頭の中で意味を結んだ途端、リリアンナは勢いよく立ち上がった。
「ほ、本当に縁談?」
「はい! なので旦那様のところへ——」
「ええ。すぐに行くわ!」
リリアンナは部屋を飛び出した。
◇◇◇
ルベルハルト伯爵家当主、ロイドの執務室に、弾むようなノックの音が響いた。
「リリアンナです。入ってもよろしいでしょうか」
「ああ、入りなさい」
許可を得ると同時に扉が開き、リリアンナが早足で机へ歩み寄った。
廊下を急いできたせいで、頬はわずかに紅潮し、息も弾んでいる。
「お父様! 縁談のお話が来たというのは本当ですか」
「ああ。本当だよ」
ロイドが答えると、リリアンナの瞳がぱっと輝いた。
「どちらのお家からですか? お相手は? ああ、まずはお手紙を——」
「リリアンナ」
次々と飛び出す言葉を遮るように名前を呼ばれ、リリアンナは口を閉じた。
ロイドはそんな娘を見て、苦笑を浮かべる。
「気持ちは分かるが、少し落ち着きなさい」
「……はい」
そこでようやくリリアンナは、自分がずいぶん前のめりになっていたことに気づいた。
恥ずかしそうに頬を染め、居住まいを正す。
「申し訳ございません。つい……」
「構わないよ」
ロイドは穏やかに笑うと、執務机の上に置かれていた二通の手紙へ目を向けた。
そのうち一通はすでに封が切られ、便箋が取り出されている。
「まずは、これを」
「はい」
差し出された便箋を受け取ったリリアンナは、その上部に型押しされた紋章を見て目を見開いた。
王家の紋章だった。
先ほどまでの浮き立った気持ちが、緊張へと変わる。
リリアンナは文章へ目を落とした。
そこに記されていたのは、ガレス・ヴァルグレイブ辺境伯との婚姻についての打診だった。
ヴァルグレイブ辺境伯家といえば、北方の守りを任される王国屈指の名家である。ルベルハルト伯爵家よりも、はるかに格上の家柄だ。
(そんなお家のご当主様と、わたくしが縁談……?)
驚きながら、さらに先を読み進める。
ただし、すぐに正式な婚約を結ぶわけではないらしい。
まずは三か月の仮婚約期間を設け、その間は王家の後見のもと、王都にあるヴァルグレイブ辺境伯邸で共に過ごす。そこで互いを知り、双方が望めば正式な婚約へ進む。どちらか一方でも望まなければ、この話は白紙に戻す——そう記されていた。
「……仮婚約、ですか」
「ああ。お前にも辺境伯殿にも、断る権利があるそうだ」
ずいぶん慎重な縁談なのだと、リリアンナはもう一度便箋へ目を落とす。
するとロイドが、机に残されていた封書を手に取った。
「それと、もう一通ある」
こちらはまだ封が切られておらず、宛名にはリリアンナの名が記されている。
「これは、クロード殿下からお前宛てだ」
「殿下から……わたくしに?」
ロイドから封書を受け取る。
手つかずの封蝋を前に、リリアンナは緊張しながら封を切った。中から便箋を取り出し、丁寧に広げる。
ルベルハルト嬢へ
久しぶりだな。変わりなく過ごしているだろうか。
君が顔を見せなくなってから、ずいぶん経つ。あの頃は本当に助けられた。
さて、本題に入ろう。正式な話は伯爵宛ての書状に記したとおりだが、君に紹介したい男がいる。
ガレス・ヴァルグレイブ辺境伯という、私の幼馴染だ。
見た目はいかつく、口も達者ではない。そのせいで女性から怖がられることが多く、本人もなかなか結婚相手を見つけられずにいる。だが誠実で、情に厚い良い男だ。それは私が保証する。
しかもガレスは、君の〈祝福〉のことを知らない。長く辺境で暮らしてきた男で、王都の噂には驚くほど疎いのだ。私からも、まだ伝えていない。
これまで君は、〈祝福〉があるというだけで遠ざけられ、君自身を知ってもらう機会すら得られずにきた。
だが今のガレスは、君に対して何の先入観も持っていない。噂ではなく、君自身を見てくれるはずだ。
もちろん、正式に婚約するかどうかを決める際には、〈祝福〉のことも伝えたうえで判断してもらうつもりだ。
この縁談は、決して強制ではない。君自身の目でガレスを見て、合わないと思えば、遠慮なく白紙に戻してくれて構わない。
また、辺境伯邸に滞在する間の君の身柄は、王家が責任を持って保証する。つらい思いをさせることはないと約束しよう。
できる限り、君にとっても悪くないかたちを考えてみたつもりだ。どうだろう。一度、ガレスに会ってみてはもらえないだろうか。
どのような返事であっても、君の決断を尊重する。
クロード
そこまで読み終え、リリアンナはゆっくりと便箋を下ろした。
思わず胸が熱くなる。
クロード殿下は自分のために、ここまで考えて縁談を取り持ってくれた。
その心遣いが、ただただありがたかった。
(見た目のせいで、怖がられてしまう方……)
自分ではどうにもできないことで遠ざけられ、本当の自分を見てもらえない。それは、リリアンナ自身がずっと味わってきたことでもあった。
まだ顔も知らない辺境伯に、親近感が湧く。
けれど同時に、胸の奥にひやりとしたものが落ちた。
リリアンナは無意識のうちに、左手首へ指を伸ばしていた。
指先に触れたのは、繊細な細工の施された銀の装飾具。〈魅了の祝福〉の力を抑えるための、リリアンナにとって欠かせないものだ。
(辺境伯様が、〈祝福〉のことを知ったら……)
これまで何度、〈祝福〉を理由に遠ざけられてきただろう。辺境伯もまた、同じように離れていってしまうかもしれない。
ひんやりとした銀の感触を確かめるように、リリアンナは装飾具をそっと握りしめた。
——それでも。
握りしめていた指から、リリアンナはゆっくりと力を抜いた。
(お会いしてみたい。この方に)
噂だけで遠ざけられるつらさを、リリアンナは誰よりも知っている。だからこそ、辺境伯を外見や評判で決めつけたりはしない。自分の目でその人を見て、言葉を交わしたい。
そしていつか、〈祝福〉のことも含めて、ありのままの自分を知ってもらいたい。
そのうえで、お互いに心から納得できたなら——。
ロイドはしばらく娘の様子を見つめてから、静かに問いかけた。
「それで、リリアンナ。お前はどうしたい?」
リリアンナが顔を上げる。
「ぜひ、お受けしたいです」
その声に迷いはなかった。
「そう言うとは思っていたよ」
「お父様……?」
「……おいで、リリアンナ」
ロイドに手招きされ、リリアンナは素直にその側へ歩み寄った。
するとロイドは娘の手を取り、手首の装飾具ごと包み込むように優しく握る。そのまま、娘の目をまっすぐに見つめた。
「いいかい、リリアンナ。私は、お前を犠牲にしてまでこの家を発展させたいとは思っていないよ」
穏やかな声音だった。けれど、その言葉には父としての強い思いが滲んでいた。
「少しでも嫌だと思ったら、決して我慢しないこと。無理をせず、帰ってくると約束しておくれ」
リリアンナは父の手をしっかりと握り返した。
「はい。約束します、お父様」
リリアンナが頷くと、ロイドはその返事を確かめるように、握った手へわずかに力を込めた。それからようやく表情をやわらげ、穏やかに目を細める。
「よし。それでは、この話を受けると返事をしよう」
「ありがとうございます!」
喜びを抑えきれず、リリアンナはそのまま飛びつくようにロイドの首へ腕を回した。
「おっと」
突然のことにロイドは目を丸くしたものの、すぐに優しく笑って娘の背へ手を添えた。
——嬉しい。
もう自分は結婚できないかもしれないと、半分以上諦めかけていた。
だから、こんな機会が訪れるとは思ってもみなかった。
リリアンナは父から身体を離すと、クロードからの便箋を胸元へ大切に抱きしめた。
「わたくし、このご縁を大切にします。辺境伯様ときちんと向き合ってまいります」
「ああ。お前らしく、行っておいで」
ロイドはそう言って、娘の髪を優しく撫でた。
その眼差しには、娘の行く先を案じる気持ちと、それでも踏み出そうとする背中を押してやりたいという思いが滲んでいた。
◇◇◇
数日後。ヴァルグレイブ辺境伯邸へ、リリアンナが仮婚約を受けるとの知らせが届いた——。
「やったああ! 閣下がついに婚約なさるぞ!」
「夜会で連戦連敗の閣下が……」
「旦那様、おめでとうございます!」
屋敷はお祭り騒ぎだった。
侍女も、兵士も、文官も、まるで我が子の結婚が決まったかのような喜びようである。ガタイのいい男たちが肩を叩き合い、侍女たちは目にうっすら涙を浮かべていた。
王都の貴族や従者が見れば、あまりに遠慮のない賑やかさに呆気に取られることだろう。
「……静かに。まだ仮婚約です」
ガレスが低い声で言うと、周りの動きがぴたりと止まる。
だが、それも一瞬だった。
「仮でも十分だ!!」
「実質、婚約したも同然ですよ、旦那様!!」
「よし、今すぐ鹿を狩ってきて宴の準備を——」
「しません」
ぴしゃりと言われて、宴の計画は儚く消え去った。
そこへ、侍女のエマが元気に手を挙げた。
「はい、はいっ! お相手のリリアンナ様って、どんな方なんでしょう? 旦那様のお話では、クロード殿下が優秀な方だとおっしゃっていたんですよね?」
エマは心底不思議そうに首をかしげる。
「それなのに、今まで結婚相手が見つからなかったなんて不思議です」
その言葉に、兵士たちがいっせいに食いついた。
「容姿に難があるとか」
「いや、とんでもない浪費家かもしれん」
「気の強いご令嬢だったりしてな」
好き勝手に盛り上がる野郎どもを見て、側近のレオンが眼鏡を押し上げ、鋭い声で一喝した。
「推測で物を言うな。閣下の婚約者になられるお方だぞ。あまりにも失礼だ」
「「す、すみません……!」」
兵士たちが首をすくめて頭を下げる。
ガレスの脳裏に、別れ際のクロードの笑みがよぎった。
——会ったら、たぶん驚くぞ。
あの言葉の意味は分からないが、どんな事情があろうと、自分のやるべきことは変わらなかった。
ガレスは屋敷の者たちを見回して口を開く。
「どんな事情があるにせよ、俺との仮婚約を受けてくださった方です。来てよかったと思ってもらえるようにしたい。皆も力を貸してください」
「もちろんです!」
「任せてください、旦那様!」
兵士や使用人たちから、次々と威勢のいい返事が上がった。
その様子を見ていた執事のハンスが、満足げに頷く。先代の頃からヴァルグレイブ家に仕えてきた古参の執事だ。
「では、早速お迎えの準備に取りかかりましょう」
ハンスの言葉に屋敷の者たちがそろって頷いた。
——どんな令嬢が来ても、精いっぱい歓迎しよう。
誰もがそう思っていた。
まさか、その覚悟など軽々と吹き飛ばすほどの衝撃が待っているとも知らずに。




