改稿中☆24 社交界の悪評
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
祝福による事件のあと、父はしばらく屋敷にいなかった。
朝早くに出ていって、日が暮れてから帰ってくる。リリアンナが眠る前に顔を出してくれる日もあれば、そうでない日もあった。
「お仕事なの?」
一度、そう尋ねたことがある。
「ああ。そうだよ」
父は微笑んで、それ以上は何も言わなかった。
——あの夜のあと、ロイドは屋敷に居合わせた家々を、一軒ずつ訪ねて回っていた。娘の力によって正気を失わせてしまったことを詫び、自ら頭を下げるために。
それだけではない。
事情を説明するため、ロイドはリリアンナの祝福についても公にした。
男性に作用する魅了の力であること。本人の意思とは関係なく発現すること。
そして現在は、教会から与えられた装飾具によって、その力を完全に抑えていること。
伯爵家当主として、娘の父として、できる限り誠実に事態を収めようとしたのだ。
——けれど。
娘が魅了の祝福を持つと広く知られたことこそが、長い苦しみの始まりとなった。
◇◇◇
あの夜、広間には王都中から多くの貴族が集まっていた。
正気に戻った男たちは、自分が何をしたのかを、周りの人間から聞かされることになる。
——八つの子どもに、群がったのだと。
彼らは、名のある家の紳士たちだった。妻がいる者もいた。娘がいる者もいた。
幼い少女へ欲望をむき出しにして襲いかかったという事実は、彼らにとってあまりにも受け入れがたいものだった。
「あれは、私の意思ではない」
「あの娘の力のせいだ」
「恐ろしい力だよ。……本当に」
誰も、嘘をついてはいない。実際、彼らはリリアンナの魅了によって正気を失っていた。
だが、同じ言葉が何人もの口を渡っていくうちに、話の重点は少しずつずれていった。
いつの間にか、あの夜に被害を受けたのは男たちの方だったことになっていた。
一年もしないうちに、噂はすっかり形を変えた。
男を狂わせる娘。
人の理性を奪う令嬢。
化け物。
ロイドはそれらと必死に戦った。
誤った話には訂正を求め、書状を送り、教会から出された報告書を写しては各家へ届けた。
娘が望んで力を使ったわけではないこと。現在は装飾具によって力は完全に抑えられていること。危険などないこと。
何度も、何度も説明した。
だが、ルベルハルト家は伯爵位こそ持っているものの、ただの文官家。広大な領地もなければ、歴史を誇る名門でもない。社交界における発言力は、決して強くなかった。
訂正すれば、噂がまた新しくなる。黙れば、認めたことにされる。
どちらを選んでも、娘の名は汚れていった。
そうした逃げ場のない状況で、ロイドはたった一人、娘の名誉を守ろうと戦い続けた。
——幼いリリアンナは、そのことを何ひとつ知らない。何も知らないまま、彼女は屋敷の中で育っていった。
◇◇◇
事件の後、教会の指示によってリリアンナの外出は厳しく制限された。伯爵家の者以外を会うことも、ほとんど許されなかった。
装飾具が確実に働いているのか。本当に周囲へ害を及ぼさないのか。長い時間をかけて証明しなければいけなかった。
月に一度、リリアンナは教会へ向かった。
装飾具が確実に働いているか。祝福に変化はないか。細かな検査が行われ、その結果は逐一王家へ報告された。
教会へ向かう馬車の窓には、外から姿が見えないよう、いつも厚い布が掛けられていた。
布の隙間から、王都の音が聞こえてくる。物売りの声や、子どもの笑い声。
リリアンナは、楽しそうに耳を傾ける。
◇◇◇
九つの春。
リリアンナは、窓越しに庭師の仕事を見るのが好きになった。
「あのお花は、何というの?」
「春告げ草ですよ、お嬢様」
花の名前。植える季節。土や日当たりの違い。
気になったことを尋ねているうちに、いつしか小さな帳面が一冊できあがっていた。
外へ出られなくても、窓の向こうを知ることはできた。
◇◇◇
十一の夏。
貴族令嬢としての教育が、本格的に始まった。
礼儀作法、手紙、家紋、席次、ダンス。
けれどリリアンナは、教えられたことを覚えるだけでは終わらなかった。
「どうして、この方が上座なのですか?」
「爵位が上だからですよ」
「では、爵位が同じなら?」
一つ知るたびに、また新しい疑問が生まれる。
やがて机の上には、礼儀作法の本だけでなく、貴族名鑑や歴史書、地理書まで積まれるようになった。
◇◇◇
十三になって。
今度は、屋敷の者たちから話を聞くようになった。
侍女からは王都の流行を。料理人からは料理の仕方や食材のことを。庭師からは草花を。文官からは帳簿や物価を。
「気になったことを、そのままにしてはいけないよ」
父の言葉だった。
「調べて、聞いて、分かるまで考えなさい。好奇心が広がれば、どんなに狭い場所にいても、広い世界で生きていける」
リリアンナは、それを素直に実践した。
知らないことがあれば尋ね、分からなければ本で調べる。
そうして彼女の中には、料理も、植物も、数字も、貴族社会の知識も、少しずつ積み重なっていった。
屋敷の外へは出られなくても。彼女の世界だけは、年を追うごとに広がっていった。
◇◇◇
七年の間、ロイドは娘に多くのものを与えた。
本。講師。学ぶための時間。
娘が何かを知りたいと言えば、ロイドは惜しむことなく用意した。
外へ自由に出してやれないなら、せめて知識だけでも、どこまでも遠くへ行けるように。
優秀な文官であったロイドは、知識が身を守る武器になることを、誰よりもよく知っていた。
娘を取り巻く悪評を消してやることはできなかった。ならばせめて、いつかリリアンナが自分の力で外の世界へ踏み出す日のために、誰にも奪うことのできないものを与えてやりたかった。
それが、父にできる精いっぱいだった。
娘が成長すると、ロイドは自分の仕事についても教えるようになった。
最初は書類を種類ごとに分けるだけだったものが、やがて簡単な集計や、帳簿の確認まで任されるようになる。
ある日、リリアンナは古い帳簿を眺めて首を傾げた。
「お父様。どうして塩の値段を、こんなに昔まで残しているのですか」
「リリアンナはどう思う?」
「……値段が上がった理由を調べるため、でしょうか」
「それも一つだね」
ロイドは娘の隣に腰を下ろし、並んだ数字を指先で示した。
「数字は、ただ覚えるだけでは意味がない。その後ろで何が起きているのかを考えるんだ」
「何が起きているのか……」
「去年と違うなら、違う理由がある。答えが昔の数字にあるときも。それを見つけるのも、文官の仕事だよ」
リリアンナは、もう一度帳簿へ目を落とした。
ただの数字だったものが、少し違って見えた。
父から教わったのは、知識そのものだけではない。知ったことを考え、つなぎ合わせ、自分の力に変えていく方法だった。
◇◇◇
十五になる年の冬。
七年にわたる経過観察を終え、教会から王家へ報告書が提出された。
『装飾具は問題なく機能しており、祝福にも危険な変化はない』
その判断によって、ついにリリアンナの社交界への参加が許された。
「お父様!」
教会から届いた書状を握りしめ、リリアンナは執務室へ飛び込んだ。
「お許しが出ました! デビュタントできます!」
「……ああ」
「ずっと練習してきた作法も、ようやくお見せできます。ルベルハルト家のためになるような、良いご縁も……きっと」
嬉しさを隠しきれず、次から次へ言葉がこぼれた。
七年間、ずっと待っていたのだ。夜会へ出て、同年代の令嬢たちと話をして、いつか運命の人と出会う。
ようやく自分にも、そんな当たり前の未来が訪れるのだと信じていた。
何も知らなかったからこそ、そう信じることができた。
「……そうか」
ロイドは書状を受け取り、しばらく黙って文字を見つめた。
「よく、頑張ったね」
「はい!」
「リリアンナ」
低くなった父の声に、少女が顔を上げる。
「……いや。なんでもない」
ロイドは微笑み、娘の頭を撫でた。その手が離れるまでの時間が、いつもより長かった。
父は知っていた。
七年が経った今もなお、王都から娘の噂は消えていない。
教会が安全を認めても、人の心まで変えられるわけではない。
それでも、外の世界を待ち続けた娘に、その現実を告げることはできなかった。
◇◇◇
社交界へ出る準備が始まった。
新しいドレスが仕立てられ、宝飾商が訪れ、長く静かだった伯爵邸にも、久しぶりに華やかな空気が戻ってくる。
そんなある日、ロイドは小さな箱を娘へ差し出した。
「これを」
蓋を開けたリリアンナは、息を呑んだ。
中に入っていたのは、母の髪飾りだった。八歳のあの夜に壊れたまま、しまわれていたものだ。
折れた金細工には修復の跡が残っている。それでも、大切に直されたことは、ひと目で分かった。
「……お父様」
「時間がかかってしまったよ」
ロイドは少し困ったように笑った。
リリアンナは髪飾りを両手でそっと包み込む。幼い頃とは違い、今の彼女の髪はもう、母と同じ栗色ではない。
昔ほど似合わないかもしれないが、それでも、初めて社交界へ出る日は、この髪飾りをつけようと決めた。
母が残してくれたものを身につけて。父が七年間支えてくれた、その先へ。胸を張って歩いて行こうと思った。
——このとき、リリアンナはまだ何も知らなかった。
王都で自分がどう呼ばれているのか。七年前の出来事が、どれほど歪んだ形で語り継がれているのか。
そして、憧れ続けた社交界で何が待っているのかも。
何も知らないまま。リリアンナは夜会へ向かうのだった。




