改稿中☆22 八歳、発現の夜
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
「……あれは、わたくしが八つの年のことでした」
その夜、ルベルハルト伯爵家では夜会が開かれ、王都の貴族たちが招かれていた。
優雅な弦楽器の調べ。笑い声。杯のぶつかる音。
分厚い扉を隔てていても、階下の熱気は部屋まで届いてくる。
「お嬢様、じっとしていてくださいませ」
「はいっ」
鏡台の前で、リリアンナはピンと背筋を伸ばした。
じっとしていなさいと言われているのは分かっている。けれど、扉の向こうの様子がどうしても気になって、そわそわと落ち着かない。
「はい、できあがりでございます」
「わあ……!」
鏡の中に、知らない女の子がいた。
今日のために新調してもらった、若草色のドレス。裾には、きらきらしたお花の刺繍。どこからどう見ても、素敵な貴族のお嬢様だ。
「お嬢様、最後にこちらを」
侍女が小箱の蓋を開けた。
繊細な金細工に、一粒大のエメラルドが乗ったそれは、亡くなった母が、生涯大切にしていた髪飾りだった。
「リリアンナ、準備はできたかい」
扉を叩く音とともに、ロイドが顔を出す。
「お父さまっ!」
「おっと」
リリアンナは椅子から飛び降りて、そのまま父に飛びついた。勢いよく抱きついても、父はびくともしない。優しく笑って、娘をひょいと抱き上げた。
「よく見せておくれ。我が家のかわいいお姫様」
「ふふっ、見て見て」
優しく床に下ろしてもらう。リリアンナは、その場でくるりと回ってみせた。若草色のスカートが、花が開くように、ふわりと広がる。
「世界一綺麗だよ」
ロイドは目を細めた。娘の栗色の髪に留められた髪飾りに、指を触れる。
「……その髪飾りをつけていると、本当にお母様そっくりだね」
「ほんとう? 嬉しい……!」
リリアンナの顔が、ぱっと綻んだ。
母の顔も、声も、リリアンナは知らない。生まれてすぐに、病で死別してしまったからだ。
それでも、父がいつも話してくれる母は、優しくて、温かくて、とても素敵な人だった。だからリリアンナは、会ったこともない母のことが大好きだった。
そして何より父は、この髪を撫でるたびに「お母様とそっくりだね」と言ってくれる。だからリリアンナは自分の栗色の髪が一番好きだった。
「さあ、行こうか。みんなが待っているよ」
「はいっ!」
ロイドが差し出した大きな手に、幼い手が重なる。
頼もしい父に手を引かれて、リリアンナは光の中へ歩き出した。
◇◇◇
広間は光でいっぱいだった。
色とりどりのドレスを着た大人たち。宝石の輝き。美味しそうなご馳走が、テーブルにずらりと並んでいる。
(すごい! おうちが、おうちじゃないみたい)
「皆さま、私の娘のリリアンナです」
「まあ、なんて可愛いお嬢様!」
「こんばんは、リリアンナです」
教わったとおりに、膝を折る。
「お人形さんみたいね」「賢そうなお嬢様だ」と褒められるたび、リリアンナは嬉しさでいっぱいになった。
挨拶が一段落して、父が他の客と話し始める。その隙に、リリアンナは大人たちの間を縫って走った。
「セラフ。いっこちょうだい!」
「お嬢様。ひとつだけですよ」
顔なじみの給仕が、周囲をちらりと見てから、皿のお菓子をこっそり渡してくれる。
「ありがとう」
それは、星の形をした焼き菓子だった。いつも食べているものより、ずっと綺麗な形をしている。
リリアンナは、宝物みたいに、それを両手で包み込んだ。
——楽しかったのは、そこまでだった。
◇◇◇
カアアアアアアアン。
鐘の音が、鳴った。
高いところから、澄んだ音がひとつ。
リリアンナは顔を上げた。
(……わあ)
教会の鐘とは違う。もっと高らかで、もっと綺麗な音。
(どこで鳴っているんだろう)
天井を見た。柱を見た。楽団のいるほうを見た。
どこにも、鐘なんてなかった。
——そのかわりに、気がついた。
遠くでは、弦楽器が鳴っている。どこかで、女の人の笑い声が上がっている。
それなのに、リリアンナの周りだけ、音がすっぽりと抜け落ちていた。
杯を持ったまま、動かない人がいる。話しかけられて、返事をしない人がいる。
男の人ばかりが、あちこちで足を止めて、こちらを向いていた。
誰も、瞬きをしない。
(……なに)
リリアンナは、一歩下がった。
握っていた菓子が、指から滑って床に落ちる。
誰も、それを見なかった。みんな、リリアンナだけを見ていた。
「ほしい……」
誰かの口から、それはこぼれた。
「素敵だ……」
「俺のだ……」
男たちが、ふらり、と足を踏み出す。
騒ぎに気づいて顔を出した男性が、リリアンナを見て——同じ顔になる。
「せ、セラフ……」
「お嬢様、こちらへ」
セラフの目は、いつもと同じだった。急いでリリアンナを側に寄せる。
人垣の向こうに、父の姿が見えた。
「リリアンナ!」
「お父さまっ……!」
その声に反応したように、誰かが床を蹴った。
「よこせっ……!」
「離せ、私のだ!」
父を飲み込み、人垣がどっと動いた。
二人、三人ではきかない。我先にと、リリアンナへ押し寄せてくる。
悲鳴が上がった。杯が割れた。波に押された女の人が転んだ。
「お嬢様!」
セラフの腕から、身体が引き剥がされる。
髪を掴まれた。飾りが飛んだ。襟が引っ張られて、布の裂ける音がした。
「やだ……っ、離して……!」
振りほどけない手。
顔を上げる。知らない顔がいくつも、こちらを覗き込んでいた。
その全部が、同じ目をしていた。——欲に濁った、いくつもの瞳。
「リリアンナ、逃げろ!」
父の声が飛んだ。
リリアンナは身をよじった。指の隙間から腕を抜いて、大人の脚の間へ潜り込む。
踏まれそうな足。振り下ろされる手。
息が上がり、体が痛くても、全力で走った。
あと少しで、会場の外だった。
背中から、腕を掴まれた。
身体が、宙に浮く。
「いや——!」
脇の下に回された腕は、木の幹みたいに硬かった。叩いた。蹴った。
びくとも、しない。
広間の光が、遠ざかっていく。
悲鳴も、怒鳴り声も、父の声も——全部、遠くなる。
扉が、閉まった。
薄暗い部屋だった。放るように、寝台へ転がされる。身体を起こす間もなく、影がのしかかってきた。
「離して、離してください……」
男は、何も言わない。荒い息だけが、すぐ上から降ってくる。
「おねがい、ゆるして、おねがい……!」
泣いても、叫んでも、その手は止まらない。肩が押さえつけられ、背中が寝具に沈む。
男の身体が視界をふさいだ。その向こうに、わずかに天井が見える。……知っている天井なのに、まるで知らない場所のようだった。
逃げ場のない恐怖。
怖い、怖い、――怖い!
「お父さま——っ!」
そのとき。
木の裂ける音がした。
蝶番ごと、扉が倒れてくる。
「リリアンナ!」
護衛が飛び込む。男の腕が捻り上げられ、身体が床へ叩きつけられた。
肩が、軽くなった。
——息が、吸えない。
喉が引き攣れて、空気の吸い方を忘れてしまったみたいだった。
寝台に、誰かが膝をつく気配がする。
「ひっ……!」
ロイドが、娘の姿を見た。
裂けた襟。乱れた髪。片方だけになった靴。
次の瞬間、リリアンナは抱き上げられていた。そのまま胸へきつく押しつけられ、上から父の上着が被せられる。
「見るな」
低い声だった。
「誰も、この子を見るな!」
布一枚隔てた途端、世界の音が遠くなった。怒号も、床を引きずる音も、全て向こう側に行ってしまう。
代わりに、嗅ぎ慣れた父の匂いがした。
「もう大丈夫だ、リリアンナ」
「うぁ……っ、あ、ああああ……っ」
声を上げて、しゃくり上げて、息が詰まるほど泣いた。
あとにも先にも、これほど泣いたことはない。
「お父さま、こわかった」
「ああ」
「こわかったよう……っ」
「ああ、こわかったね……」
父は震える手で娘の背中を叩いた。
何度も、何度も。
◇◇◇
暖炉の火は、いつのまにか小さくなっていた。
リリアンナはそこで一度、言葉を切った。
「……これが、わたくしの祝福が発現したときの話です」
「なんという……」
「幸い、父が間に合ってくれましたので……それ以上のことは、ありませんでした」
穏やかな声だった。もうずっと昔の、終わった話をするような。
——けれど。
膝の上。ガレスが寝ているその横で、リリアンナは装飾具をぎゅっと握りしめていた。その指先が、細かく震えている。
「……怖い思いを、なさいましたね」
ハンスは絞り出すように、声を出した。
「……はい」
老執事は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開く。
「ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」
「なんでしょう」
「お父上殿と、給仕と護衛の方は……お力の影響を、受けなかったのですね」
リリアンナは、手元の銀色へ目を落とした。それから、顔を上げる。
「はい。それには、理由があるのです」
一度深く息を吸って、つづきを話し出す。
「……そのことを知ったのは、祝福の事件の三日あとでした」




