改稿中☆21 祝福
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
膝の上で、ガレスが寝息を立てている。
リリアンナは、その髪から手を離せずにいた。
(……よく眠っているわ)
寝入ってからずいぶん時間が経つが、うなされている様子はない。
卓の上の紅茶はとうに冷めていて、茶葉の匂いが、部屋にゆるく残っていた。
——こつ。
扉が、控えめに叩かれた。
リリアンナは顔を上げる。
「……失礼いたします」
入ってきたのは、執事長のハンスだった。
音を立てぬよう二歩ほど進み、ハンスは膝の上で眠る主と、その頭を支えるリリアンナを順に見た。
——そして、深く頭を下げる。
「まずは、お詫びを申し上げます」
「え……」
「旦那様のご様子が気になりまして。……先ほどから、扉の外におりました」
リリアンナは目を瞬かせた。
「聞き耳を立てるなど、執事のすることではございません」
ハンスは、頭を下げたままだった。
「申し訳ございませんでした」
「は、ハンスさん、顔を上げてください」
リリアンナは、慌てて言った。
「ご心配なさっていたのでしょう」
「……はい」
「では、お詫びなどいりません」
ハンスがようやく顔を上げる。その視線が、ガレスの寝顔へ落ちた。
「リリアンナ様。旦那様を移します。その姿勢では、お辛いでしょう」
「……いいえ」
リリアンナは、庇うようにガレスの頭に手をかざす。
「このままにしておいてあげてください」
「しかし」
「三日、お眠りになっていないそうです。起こしてしまいたくないのです」
ハンスは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと目を細める。
「……ありがとうございます」
「いえ、そんな」
「このように穏やかな寝顔の旦那様を拝見するのは、久しゅうございます」
たくさんの皺が刻まれた顔が、柔らかく寄っている。
リリアンナは、膝の上へ視線を落とした。
頬に、大きな傷痕がひとつ走っている。顎の下にも。首筋にも。髪に触れている自分の指のすぐ横、こめかみのあたりにも、引き攣れた痕がある。
数えきれないほどの傷。大きな身体。低い声。何を言われても揺らがない立ち姿。
そのどれもが、長く辺境を治めてきた領主のように、ガレスを見せる。
けれど、彼の年は二十三だと聞いていた。
(……わたくしと、四つしか違わない)
まだ若い。青年と呼ぶべき年だ。
冬になれば雪に閉ざされ、魔物の出る土地。そこに暮らす領地の人間たち。そして、ヴァルグレイブ家そのもの。その全てを、青年は身ひとつで背負っている。
リリアンナは、短い髪を、労わるように優しく梳いた。ガレスは起きなかった。
「……リリアンナ様は、他の貴族のご令嬢とは違うのですね」
「わたくしが、ですか」
「はい」
ハンスは、少し離れた椅子のそばに立ったまま言った。
「旦那様が王都へいらしてから、幾度も夜会に出ておられます。そのたびに、ご令嬢は逃げたり、顔を背けたり。中には、その場で倒れられた方も」
リリアンナは少し考えてから口を開いた。
「わたくしも、こちらへ伺う前に、ヴァルグレイブ家のことをお調べいたしました」
ハンスの眉が、わずかに動く。
「失礼があってはいけませんから。……その折に、お噂も耳にいたしました」
『恐ろしい野獣のようだ』『近寄れば喰われる』『生贄を探している』
「ずいぶんと酷いいわれようでございましょう」
ハンスが、苦いものを含んだ声で言う。
「そうですね」
リリアンナも、つられて苦笑した。
「……辺境伯様は、いつもわたくしから三歩ほど離れているんです」
リリアンナの指が、また髪へ伸びる。
「声も、わざと抑えてゆっくりと。お身体も、大きく見せないよう縮めてくださる。怖がらせまいと必死なのが、伝わってくるのです」
「……」
「この方の、どこが怖いというのでしょうか」
「……リリアンナ様」
リリアンナは目を伏せた。それから、少し寂しそうに笑う。
「噂なんて、当てにならないものですね」
ハンスはしばらく黙って彼女を見つめていた。やがて、何かを決めたように近くの椅子へ腰を下ろす。
「リリアンナ様」
「はい」
「リリアンナ様が当家をお調べになっていたように。……私も執事長として、ルベルハルト家について調べさせていただきました」
リリアンナの指が、止まる。
「——リリアンナ様の『祝福』のことも」
その言葉に、リリアンナの顔から色が引いた。
髪に置いていた手が、膝へ下りる。その手が、もう片方の腕を探した。左の手首。銀の装飾具が、指の下でひやりとしている。
「……そう、ですか」
それだけだった。
「ああ、リリアンナ様。責めているのではございません。どうか、そのようなお顔をなさらないでください」
老執事は、目を伏せた。
「——男性を惑わせる、魅了の祝福を持つ化け物……そのように噂されておりました」
「……っ」
装飾具を握る指に、力がこもる。
「私が得ておりました情報でございます。他にも、社交界でのリリアンナ様のいわれようは、随分とひどいものでございました」
「……はい」
「私も、初めのうちは警戒をしておりました」
当たり前だ、とリリアンナは思う。
主の妻として迎える人間に、ひどい噂が立っていたら、警戒するに決まっている。
出ていってほしい。婚約はなかったことに。
(そう告げられても……仕方ない)
俯こうとした顔を、ハンスの声が引き止めた。
「ですが、ひと月半」
その目が、まっすぐリリアンナを見ている。
「リリアンナ様を、見てまいりました」
「……」
「リリアンナ様が噂のように、誰かを魅了し惑わせたところも、陥れたところも、私は一度も見ておりません」
ハンスは、一度言葉を切った。
「それどころか」
老執事は、ひとつずつ置くようにつづけた。
「リリアンナ様は、旦那様を一度も怖がりませんでした。あの方に、あれほど話しかけてくださる女性は、初めてでございます」
「……」
「お疲れと見れば、労わってくださる。使用人にも、兵士にも、分け隔てなく声をかけてくださる」
「そんな、わたくしは……」
「屋敷の者の名を、ひとり残らず覚えてくださいました」
言いかけて、リリアンナは口をつぐんだ。
「辺境の冬のこと。作物のこと。魔物のこと。……こちらが恐縮するほど、お尋ねくださいます」
老執事は、目を細めた。
「いまやこの屋敷に、リリアンナ様を慕っておらぬ者はおりません」
——喉の奥に、声が詰まった。
リリアンナは、左腕を握ったまま動けなかった。
なにか返事をしないと。……そう思うのに。
なのに、口が動かない。
視界の端がじわりと滲んできて、慌てて瞬きをした。
(……いけないわ)
ここで泣いてしまったら、ハンスさんに気を遣わせる。
「先ほどの、リリアンナ様のお言葉をお借りいたしますと」
ハンスは、その様子に気づかぬふりをした。
「……噂なんて、当てにならないものでございますね」
はっと、リリアンナがハンスを見る。瑠璃色の瞳が大きく揺れた。
「リリアンナ様」
ハンスは、膝の上で手を組みなおす。
「私が持っておりますのは、一部の公のお話と、あとは噂の域を出ぬものばかりでございます。そのような不確かな話を、事実であるかのように旦那様へお伝えすることはできませんでした。ですから、まず貴女様ご自身を見ようと思ったのでございます」
「……はい」
「もしよろしければ、この老いぼれに話してみる気はございませんか」
リリアンナは、息を呑んだ。
「決して、悪いようにはいたしません。——貴方様の味方になりたいのでございます」
◇◇◇
部屋が静かになった。
暖炉の薪が崩れる音がした。
装飾具を握ったリリアンナの指に、力が入る。緩む。また入る。
祝福の話を、自分から誰かにしたことは一度もなかった。この屋敷へ来た日から、ずっと言わなければと思っていた。けれど、怖くて言えなかった。
そのとき、膝の上でガレスが身じろぎをした。
リリアンナが視線を向ける。
年相応の青年のあどけない顔が、そこにあった。
——諦めたくない。
初めて、はっきりとそう思った。
この仮婚約をなかったことにしたくない。この方の隣にいることを、まだ手放したくない。
(……けれど)
ひとりで考えていると、いつも同じところにたどり着く。
——迷惑を掛ける前に、身を引くべきだ。
リリアンナは、ハンスを見た。
彼は、リリアンナの事情を知っていて、味方になりたいと言ってくれた。
もしかしたら自分ひとりでは見つからなかった道が、見つかるかもしれない。まだ諦めないでいい道が。
リリアンナは、ガレスの髪にもう一度だけ触れ、深く息を吸った。
「……ハンスさん」
声は少し震えるが、思ったよりも落ち着いていた。
「長くなりますが、よろしいですか」
「かまいません」
「……わかりました」
リリアンナは語り出した。
「始まりは、わたくしが八つの年でした」




