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男を狂わせる魅了の祝福を持つ令嬢は、野獣と恐れられる辺境伯様と三か月の仮婚約をしたら溺愛されました  作者: 紳士テニス


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22/58

改稿中☆20 眠れない夜

※現在、改稿作業を進めています。


第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。

差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。

物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。

 雪が、横から殴りつけてくる。


 視界は白くかすみ、三歩先も見えない。頬の感覚は、とうに失せていた。


「閣下! 右です!」


 誰かの叫びに剣を振るう。手応えとともに、白い息と血の匂いが吹雪へ散った。


 雪狼(フロストファング)。群れで動く魔獣だ。その数が多い。


 ……三十では、きかない。斥候の報告は、十頭前後だった。


 次から次へと、白灰の影が湧いてくる。どれだけ倒しても、減った気がしない。


 退くべきだ。


 頭のどこかで、そう告げている。だが、ここを退けば、群れは麓の集落へ向かう。


「あと少し。あと少し押し込めば」


 迷った時間は、ほんの数呼吸だった。顔を上げたとき、退路はすでに魔獣の影に埋まっていた。


 ——そこで、悟った。


 自分は、間違えたのだと。


「閣下! 道は開けます!」


 その声に、心臓が凍る。吹雪の向こうで、一人の男が剣を構えていた。


 父の代から仕えた古株。まだ木剣の握り方すら知らなかった自分に、初めて剣を教えた人だ。


「サイモン!」

「兵をまとめて退いてくれ! ここは、俺が」


 止めようとした。腕を掴もうとした。


 届かなかった。


 男の背が、白灰の群れの中へ消えていく。




 ◇◇◇




 撤退は成功した。兵は誰一人欠けなかった。


 ——ただ一人を除いて。


 雪をかき分けて戻ったとき、その人は、赤く染まった雪の上に横たわっていた。


 抱き起こす。まだ、かすかに息がある。


「サイモン。……すまない。俺の判断が」

「……閣下」


 血の泡が、唇の端で弾けた。傷だらけの顔が、こちらを見上げて——笑う。


「辺境を、頼みます……」


 その手から、力が抜けた。




 ◇◇◇




 いつのまにか、吹雪の音が消えていた。


 顔を上げる。


 白い雪原に、人が立っていた。


 一人、二人。数えきれない。


 皆、見覚えのある顔だった。ともに飯を食い、剣を振り、そして——帰ってこなかった者たち。


 その先頭に、腕の中にいたはずのサイモンがいる。


 血だらけで、傷だらけで。それでも背筋を伸ばし、誇らしげに。


 ——全員が、笑っていた。


「……っ、ぐ」


 喉が、鳴った。


 違う。笑わないでくれ。あんたたちが死んだのは、俺が——。


 伸ばした手が、白い雪をかいた。




 ◇◇◇




 跳ね起きた。


 寝台の上。荒い呼吸が、静まり返った寝室に響く。


 ガレスは、片手で顔を覆った。


 身体が鉛のように重い。眠ったはずなのに、疲れは一つも抜けていなかった。


 窓の外は、まだ暗い。


 目を閉じれば、また、あの雪原へ戻される。それだけは確かだった。


「……」


 ガレスは寝台を降りた。





 ◇◇◇




 その夜も、リリアンナは寝つけずにいた。ジョルジュの一件のあとから、ずっとそうだ。


 寝台の上で何度も寝返りを打って、諦めた。


(……書庫へ行きましょう)


 こんなときは、本を読むに限る。文字を追っていれば、余計なことは忘れて、眠れるようになるから。


 夜着の上に上着を羽織って、リリアンナは廊下へ出た。


 ——と。廊下の先に、細く光が漏れている。談話室の扉が、わずかに開いていた。


(こんな時間に、どなたかしら)


 足音を忍ばせて、覗き込む。


 そこにいたのは、ガレスだった。


 長椅子に腰を下ろし、手元の書類に目を落としている。暖炉の火は落ちかけていて、その横顔を頼りなく照らしていた。


 しばらく見ていて、リリアンナは気づいた。


 ガレスは、書類を読んでいなかった。同じ一点を、ただ、ずっと見つめている。


(……ああ)


 胸の奥が、締め付けられた。


 その姿は、かつてのリリアンナ自身に重なった。


 誰にも頼れないまま、それでも何かをしていないと立っていられなくて。夜中ごと、一人で机に向かっていた——あの頃の自分に。


 声をかけようか、迷う。


 お邪魔ではないだろうか。ご迷惑ではないだろうか。


『昼食もほとんど手をつけずじまいなんですよ。もう三日です! 三日!』


 昼間のエマの声が、耳の奥で蘇る。


 リリアンナは、くるりと踵を返した。




 ◇◇◇




「……辺境伯様。お休みでしょうか」


 扉が控えめに叩かれて、ガレスは顔を上げた。


 現れたのは、盆を抱えたリリアンナだった。


「……リリアンナ嬢」


 ガレスは慌てて立ち上がる。


(……まずい)


 三日、まともに寝ていない。髭も剃っていないし、上着も羽織っていない。


 こんな姿を、よりによって彼女に。


「あ……失礼しました。今、支度を」

「お茶を、いかがですか」


 ガレスの言葉を、リリアンナが柔らかく遮った。


「……え」

「灯りが見えたものですから。お一人かと思いまして」


 それだけ言って、リリアンナは卓に盆を置く。


 湯気の立つカップと、一口大に切った焼き菓子。ほのかに、蜂蜜と茶葉の香りが立つ。


 何があったのかも、なぜ眠っていないのかも、彼女は尋ねなかった。


「……ありがとうございます」


 ガレスは、とまどいながら腰を下ろした。


 大きな手には頼りないほど小さなカップを、そっと持ち上げた。一口飲むと、温かさが喉から胃へ落ちていく。


 張りつめていた何かが、その熱で少しだけ緩んだ。


 リリアンナは、少し間を空けて腰を下ろす。


 それから、何も言わなかった。——ただ、同じお茶を飲んでいる。


 暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。沈黙がつづくが、不思議と気まずくはなかった。


 どれくらい、そうしていただろうか。


「……夢を、見ました」


 ぽつり、と。


 自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれ落ちた。


「悪い夢を、見て……眠れなくなりました」


 リリアンナは、何も言わない。今は言葉より、待つことが大事だと分かっていたから。


 ただ、ガレスを見つめている。急かさず。驚きもせず。凪いだ湖面のような目で。


 だからだろうか。


 普段なら決して口にしないことが、次から次へと溢れてきた。


「辺境というのは、人がよく死ぬ土地です。魔物が出ます。冬は餓えます」


 カップの水面を見つめたまま、ガレスは言った。


「俺が家督を継いだのは、十八のときでした」


 ——五年前。


「父が、討伐で大怪我を負いまして。片腕を失い、二度と前線には立てない身体になりました」


 運び込まれた父の姿は、今でも忘れられない。血の匂い。朦朧とする意識のなかで、父が告げた一言。


 ——ガレス。今日から、お前が当主だ。


「幸い、一命は取り留めました。ですが……俺は、なんの準備も、覚悟もないまま辺境伯になりました」


 ガレスは、カップを両手で包んだ。


「その年の冬に、サイモンを亡くしました。父の代から仕えていた男で……俺に、剣を教えてくれた人です」


 あとは、その繰り返しだった。


「他にも、たくさん見送りました。……辺境の兵は、誰も死を怖がりません。この土地の先を託して、逝くんです」


 だから、遺された者が継ぐしかない。戦うことしか能のなかった自分は、いつだって、継ぐ側だった。


「……俺は、当主には向いていません」


 こぼれた言葉に、自嘲が滲む。


「話すのも、書くのも下手で。人の顔色も読めない。……この図体と、腕っぷしくらいしか取り柄がないのです」


 だから、せめて。


 守れるものだけは、全部守ろうと決めた。背負えるものは、全部背負おうと。


 ——そうしなければ、散っていった者たちに顔向けができない。


 ガレスは、手元の書類へ目を落とした。


「戦うことしか知らずに来ましたから、こういう仕事は、どうにも慣れません。時間がかかる。……その分、眠る時間が削られるので、困ったものです」


 苦笑して——そこで、我に返った。


「……すみません。こんな話を、するつもりでは」

「……辺境伯様」


 リリアンナの声が、耳に届く。


 顔を上げると、彼女はこちらを見ていた。瑠璃色の瞳が、暖炉の火を映して揺れている。


「どれくらい眠っておられないのですか」


 問いかけは、穏やかだった。


「……三日ほど、まともには」

「……そうですか」


 リリアンナが、少しだけ目を伏せる。それから、指先をきゅっと握りしめた。


 ——ひとつ、大きく息を吸って。


「……あの、辺境伯様」


 顔を上げたその頬が、ほんのりと赤い。


「よろしければ……こちらへ、どうぞ」


 そう言って。リリアンナは、自分の膝を軽く叩いてみせた。


「…………は」


 ガレスの思考が、完全に停止した。


「い、いや。あの、それは」

「人のぬくもりがあると、安心して眠れることもあるそうですよ」


 リリアンナが、ふわりと微笑む。いつもと同じ、春の陽だまりのような笑顔だった。


「……ですが」

「大丈夫です。何も、お話にならなくていいですから」


 ——だめだ。


 自分の身体は大きすぎる。彼女の細い体には負担になってしまう。


 そもそも婚約者とはいえ、まだ仮であり未婚の女性だ。こんな、はしたない真似を。


「……重い、です」


 やっとの思いで絞り出した言葉に、リリアンナはくすりと笑った。


「存じております」


 小さな手が、ためらいがちに伸びてくる。ガレスの傷だらけの手を取って。


「……それでも、どうぞ」


 やんわりと、引かれた。


 ——抗えなかった。




 ◇◇◇




 ガレスは、その膝に頭を預けていた。


 華奢で、温かくて、柔らかかった。自分の頭一つで、その膝はほとんど埋まってしまう。


 なんとも収まりが悪く、あまりにも不釣り合いだった。


 なのに。


「…………」


 ガレスは、息を詰めた。


 嫌ではない。むしろ、


(こんなに安心したのは、いつぶりだろうか)


 拳を握りしめる。触れてはいけない。この手は、戦うための手だ。彼女に触れるには、あまりにも大きく、硬すぎる。


 だから動かずにいた。すると、髪に何かが触れた。


「……っ」


 リリアンナの指先だった。


 短く刈り込んだ髪を、細い指がゆっくりと梳いていく。壊れ物を扱うような手つきだった。


 子どもをあやすように、何度も、何度も。


「……よく、頑張ってこられたのですね」


 頭上から降ってきた声は、あまりにも優しかった。


 ガレスの喉が、鳴る。


(……ずるい人だ)


 誰にも言えなかった。言うつもりもなかった。


 背負うと決めたのは自分で、それを重いと思ったことすら、なかったはずなのに。


 この人は、たった一言、それだけで。


(……ああ、俺は、この人が)


 瞼が落ちていく。


 夢を見るのが、あれほど怖かったのに。恐ろしさは、どこかへ消えていた。


 ほどなく、規則正しい寝息が聞こえ始めた。


 リリアンナは、その寝顔を見下ろしている。


 あどけないほど無防備な表情に、胸の奥が切なくなった。

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