改稿中☆20 眠れない夜
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
雪が、横から殴りつけてくる。
視界は白くかすみ、三歩先も見えない。頬の感覚は、とうに失せていた。
「閣下! 右です!」
誰かの叫びに剣を振るう。手応えとともに、白い息と血の匂いが吹雪へ散った。
雪狼。群れで動く魔獣だ。その数が多い。
……三十では、きかない。斥候の報告は、十頭前後だった。
次から次へと、白灰の影が湧いてくる。どれだけ倒しても、減った気がしない。
退くべきだ。
頭のどこかで、そう告げている。だが、ここを退けば、群れは麓の集落へ向かう。
「あと少し。あと少し押し込めば」
迷った時間は、ほんの数呼吸だった。顔を上げたとき、退路はすでに魔獣の影に埋まっていた。
——そこで、悟った。
自分は、間違えたのだと。
「閣下! 道は開けます!」
その声に、心臓が凍る。吹雪の向こうで、一人の男が剣を構えていた。
父の代から仕えた古株。まだ木剣の握り方すら知らなかった自分に、初めて剣を教えた人だ。
「サイモン!」
「兵をまとめて退いてくれ! ここは、俺が」
止めようとした。腕を掴もうとした。
届かなかった。
男の背が、白灰の群れの中へ消えていく。
◇◇◇
撤退は成功した。兵は誰一人欠けなかった。
——ただ一人を除いて。
雪をかき分けて戻ったとき、その人は、赤く染まった雪の上に横たわっていた。
抱き起こす。まだ、かすかに息がある。
「サイモン。……すまない。俺の判断が」
「……閣下」
血の泡が、唇の端で弾けた。傷だらけの顔が、こちらを見上げて——笑う。
「辺境を、頼みます……」
その手から、力が抜けた。
◇◇◇
いつのまにか、吹雪の音が消えていた。
顔を上げる。
白い雪原に、人が立っていた。
一人、二人。数えきれない。
皆、見覚えのある顔だった。ともに飯を食い、剣を振り、そして——帰ってこなかった者たち。
その先頭に、腕の中にいたはずのサイモンがいる。
血だらけで、傷だらけで。それでも背筋を伸ばし、誇らしげに。
——全員が、笑っていた。
「……っ、ぐ」
喉が、鳴った。
違う。笑わないでくれ。あんたたちが死んだのは、俺が——。
伸ばした手が、白い雪をかいた。
◇◇◇
跳ね起きた。
寝台の上。荒い呼吸が、静まり返った寝室に響く。
ガレスは、片手で顔を覆った。
身体が鉛のように重い。眠ったはずなのに、疲れは一つも抜けていなかった。
窓の外は、まだ暗い。
目を閉じれば、また、あの雪原へ戻される。それだけは確かだった。
「……」
ガレスは寝台を降りた。
◇◇◇
その夜も、リリアンナは寝つけずにいた。ジョルジュの一件のあとから、ずっとそうだ。
寝台の上で何度も寝返りを打って、諦めた。
(……書庫へ行きましょう)
こんなときは、本を読むに限る。文字を追っていれば、余計なことは忘れて、眠れるようになるから。
夜着の上に上着を羽織って、リリアンナは廊下へ出た。
——と。廊下の先に、細く光が漏れている。談話室の扉が、わずかに開いていた。
(こんな時間に、どなたかしら)
足音を忍ばせて、覗き込む。
そこにいたのは、ガレスだった。
長椅子に腰を下ろし、手元の書類に目を落としている。暖炉の火は落ちかけていて、その横顔を頼りなく照らしていた。
しばらく見ていて、リリアンナは気づいた。
ガレスは、書類を読んでいなかった。同じ一点を、ただ、ずっと見つめている。
(……ああ)
胸の奥が、締め付けられた。
その姿は、かつてのリリアンナ自身に重なった。
誰にも頼れないまま、それでも何かをしていないと立っていられなくて。夜中ごと、一人で机に向かっていた——あの頃の自分に。
声をかけようか、迷う。
お邪魔ではないだろうか。ご迷惑ではないだろうか。
『昼食もほとんど手をつけずじまいなんですよ。もう三日です! 三日!』
昼間のエマの声が、耳の奥で蘇る。
リリアンナは、くるりと踵を返した。
◇◇◇
「……辺境伯様。お休みでしょうか」
扉が控えめに叩かれて、ガレスは顔を上げた。
現れたのは、盆を抱えたリリアンナだった。
「……リリアンナ嬢」
ガレスは慌てて立ち上がる。
(……まずい)
三日、まともに寝ていない。髭も剃っていないし、上着も羽織っていない。
こんな姿を、よりによって彼女に。
「あ……失礼しました。今、支度を」
「お茶を、いかがですか」
ガレスの言葉を、リリアンナが柔らかく遮った。
「……え」
「灯りが見えたものですから。お一人かと思いまして」
それだけ言って、リリアンナは卓に盆を置く。
湯気の立つカップと、一口大に切った焼き菓子。ほのかに、蜂蜜と茶葉の香りが立つ。
何があったのかも、なぜ眠っていないのかも、彼女は尋ねなかった。
「……ありがとうございます」
ガレスは、とまどいながら腰を下ろした。
大きな手には頼りないほど小さなカップを、そっと持ち上げた。一口飲むと、温かさが喉から胃へ落ちていく。
張りつめていた何かが、その熱で少しだけ緩んだ。
リリアンナは、少し間を空けて腰を下ろす。
それから、何も言わなかった。——ただ、同じお茶を飲んでいる。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。沈黙がつづくが、不思議と気まずくはなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
「……夢を、見ました」
ぽつり、と。
自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれ落ちた。
「悪い夢を、見て……眠れなくなりました」
リリアンナは、何も言わない。今は言葉より、待つことが大事だと分かっていたから。
ただ、ガレスを見つめている。急かさず。驚きもせず。凪いだ湖面のような目で。
だからだろうか。
普段なら決して口にしないことが、次から次へと溢れてきた。
「辺境というのは、人がよく死ぬ土地です。魔物が出ます。冬は餓えます」
カップの水面を見つめたまま、ガレスは言った。
「俺が家督を継いだのは、十八のときでした」
——五年前。
「父が、討伐で大怪我を負いまして。片腕を失い、二度と前線には立てない身体になりました」
運び込まれた父の姿は、今でも忘れられない。血の匂い。朦朧とする意識のなかで、父が告げた一言。
——ガレス。今日から、お前が当主だ。
「幸い、一命は取り留めました。ですが……俺は、なんの準備も、覚悟もないまま辺境伯になりました」
ガレスは、カップを両手で包んだ。
「その年の冬に、サイモンを亡くしました。父の代から仕えていた男で……俺に、剣を教えてくれた人です」
あとは、その繰り返しだった。
「他にも、たくさん見送りました。……辺境の兵は、誰も死を怖がりません。この土地の先を託して、逝くんです」
だから、遺された者が継ぐしかない。戦うことしか能のなかった自分は、いつだって、継ぐ側だった。
「……俺は、当主には向いていません」
こぼれた言葉に、自嘲が滲む。
「話すのも、書くのも下手で。人の顔色も読めない。……この図体と、腕っぷしくらいしか取り柄がないのです」
だから、せめて。
守れるものだけは、全部守ろうと決めた。背負えるものは、全部背負おうと。
——そうしなければ、散っていった者たちに顔向けができない。
ガレスは、手元の書類へ目を落とした。
「戦うことしか知らずに来ましたから、こういう仕事は、どうにも慣れません。時間がかかる。……その分、眠る時間が削られるので、困ったものです」
苦笑して——そこで、我に返った。
「……すみません。こんな話を、するつもりでは」
「……辺境伯様」
リリアンナの声が、耳に届く。
顔を上げると、彼女はこちらを見ていた。瑠璃色の瞳が、暖炉の火を映して揺れている。
「どれくらい眠っておられないのですか」
問いかけは、穏やかだった。
「……三日ほど、まともには」
「……そうですか」
リリアンナが、少しだけ目を伏せる。それから、指先をきゅっと握りしめた。
——ひとつ、大きく息を吸って。
「……あの、辺境伯様」
顔を上げたその頬が、ほんのりと赤い。
「よろしければ……こちらへ、どうぞ」
そう言って。リリアンナは、自分の膝を軽く叩いてみせた。
「…………は」
ガレスの思考が、完全に停止した。
「い、いや。あの、それは」
「人のぬくもりがあると、安心して眠れることもあるそうですよ」
リリアンナが、ふわりと微笑む。いつもと同じ、春の陽だまりのような笑顔だった。
「……ですが」
「大丈夫です。何も、お話にならなくていいですから」
——だめだ。
自分の身体は大きすぎる。彼女の細い体には負担になってしまう。
そもそも婚約者とはいえ、まだ仮であり未婚の女性だ。こんな、はしたない真似を。
「……重い、です」
やっとの思いで絞り出した言葉に、リリアンナはくすりと笑った。
「存じております」
小さな手が、ためらいがちに伸びてくる。ガレスの傷だらけの手を取って。
「……それでも、どうぞ」
やんわりと、引かれた。
——抗えなかった。
◇◇◇
ガレスは、その膝に頭を預けていた。
華奢で、温かくて、柔らかかった。自分の頭一つで、その膝はほとんど埋まってしまう。
なんとも収まりが悪く、あまりにも不釣り合いだった。
なのに。
「…………」
ガレスは、息を詰めた。
嫌ではない。むしろ、
(こんなに安心したのは、いつぶりだろうか)
拳を握りしめる。触れてはいけない。この手は、戦うための手だ。彼女に触れるには、あまりにも大きく、硬すぎる。
だから動かずにいた。すると、髪に何かが触れた。
「……っ」
リリアンナの指先だった。
短く刈り込んだ髪を、細い指がゆっくりと梳いていく。壊れ物を扱うような手つきだった。
子どもをあやすように、何度も、何度も。
「……よく、頑張ってこられたのですね」
頭上から降ってきた声は、あまりにも優しかった。
ガレスの喉が、鳴る。
(……ずるい人だ)
誰にも言えなかった。言うつもりもなかった。
背負うと決めたのは自分で、それを重いと思ったことすら、なかったはずなのに。
この人は、たった一言、それだけで。
(……ああ、俺は、この人が)
瞼が落ちていく。
夢を見るのが、あれほど怖かったのに。恐ろしさは、どこかへ消えていた。
ほどなく、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
リリアンナは、その寝顔を見下ろしている。
あどけないほど無防備な表情に、胸の奥が切なくなった。




