改稿中☆19 不器用な男
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
談話室には、柔らかい日差しが差し込み、暖炉に温かい火が灯っている。過ごしやすい、穏やかな午後だった。
することのないリリアンナは、エマとフィーネに交じって、洗濯物をたたんでいた。
「リリアンナ様。そちらはわたくしどもが」
「いいえ。手を動かしている方が、落ち着きますの」
シーツの端を持ち上げながら、リリアンナは微笑む。
じっとしていると、あの日のことばかり考えてしまう。
濁った目。伸ばされた手。バルドの腕を流れた血。迷惑をかけてしまった事実。
だから、手を動かしていたかった。
「……ぐぬぬ」
そのとき、部屋の隅から、苦しげな唸り声が聞こえた。
卓を挟んで、レオンとバルドが向かい合っている。二人の間には、白と黒の駒が並んだ盤があった。……もっとも、黒の駒はもう、数えるほどしか残っていない。
「バルド。そこへ動かすと、三手で詰むぞ」
「言うなって! 今、考えてんだ!」
バルドが、太い指で頭をかきむしっている。
「それにしても、旦那様ったら。今朝もお顔を見せずに執務室へ直行して! 昼食もほとんど手をつけずじまいなんですよ。もう三日です! 三日!」
シーツをたたんでいたエマが、ぷう、と頬を膨らませて指を三本立てた。
「あんなに大きなお身体なんですから、普通の人よりたくさん食べないと倒れちゃいますよう……」
「そうねえ。あの方は、こうと決めたら止まらないから」
フィーネが、たたんだシーツの端を揃えながら、困ったように笑う。その声には、呆れよりも、手のかかる我が子の話をするような色があった。
「……それほど、お忙しいのでしょうか」
リリアンナが尋ねると、ふたりが顔を見あわせた。
「忙しいのは本当ですけど……旦那様の場合、それだけではないのですよねえ」
含みのある言い方に、リリアンナが首を傾げる。
「あのですね、リリアンナ様」
エマが、シーツをたたむ手を止めて打ち明けた。
「旦那様、書類仕事がものすっっっごく遅いんです! 一枚書き上げるのに、文官さんの三倍時間がかかるんですよ」
「内容に抜けはないんですけどね。細かいところまでご自分で何度も確かめるものですから。そのうえ、書き上げた順に、そこらへんに積んでいかれるので、あとで探すのに苦労しております」
レオンが、涼しい顔で駒を進めながら言った。
「はははっ! まだ坊ちゃんの頃、あまりに机を散らかすんで先代様から大目玉喰らってましたね! 全然改善してねえや」
バルドが豪快に笑った。
「これで終わりだぞ、バルド」
「あ! 待った!」
「わたくしどもも、文官の皆様も、何度もお手伝いを申し出ておりますが、いつも同じお返事で」
溜息まじりに言うフィーネ。
「『いえ。俺がやります』」
エマが。声をうんと低くして、真似てみせる。その物真似があまりに特徴を捉えていて、リリアンナはくすくすと笑ってしまった。
「しかし、どうしてでしょう。皆様にお任せすれば、その分楽になりますのに」
リリアンナの問いに、レオンが駒を持つ手を止めた。
「……閣下は、自分が背負えるものは、全部背負おうとなさるので」
顔は盤に向けたまま。声だけが、少し柔らかい。
「人に任せる、という考えが、そもそも頭にないのです。自分の仕事は自分がやるもの。それ以外の道を、思いつきもしない。……難儀なことに、本人はそれが当たり前だと思っている」
——ああ。
(……なんて、不器用なのかしら)
このひと月半のことが、次々と思い出される。
初めてお会いした日。あの方は、歓迎の言葉ひとつ、まともに口にできなかった。
自分のことになると、途端に言葉が出てこなくなる。こちらが少し踏み込めば、返ってくるのは素っ頓狂な答えばかり。
それなのに、辺境の話なら、驚くほど饒舌に語れる。仕事について尋ねれば、返ってくる答えは、隙も迷いもない。
態度だってそうだ。
誰よりも優しくて、細やかに気を配ってくれているのに。無骨で、ぶっきらぼうで、たいていそれが伝わらない。
——ずっと、不器用な人。
思い出しただけで、胸の奥が、きゅうっと甘く疼いた。
(……本当に、ずるい)
身を引くべきだと思い始めていた。これ以上、関わらない方がいいのだと。
——それなのに。
そんな人が、書類の山に埋もれて、三日も食事を摂れずにいると聞いてしまったら。
誰にも頼らないまま、たった一人で頑張っていると知ってしまったら。
どうしたって、手を貸したくなってしまう。
けれど、きっと、リリアンナが申し出たところで、ガレスは律儀に断ってしまうのだろう。
思わず、溜息がこぼれる。
その拍子に、以前から気になっていたことを思い出した。
「……そういえば。辺境伯様は、どうして、どなたにも敬語をお使いになるのでしょう」
初めて会った日から、不思議に思っていた。
ヴァルグレイブ辺境伯といえば、王国でも指折りの高位貴族だ。
それなのにあの方は、使用人にも、兵士にも、誰に対しても丁寧な言葉を崩さない。
リリアンナ自身、この屋敷では言葉を選んでいる。よその家に身を寄せている以上、当然のことだ。
けれど、実家であれば、もう少し力を抜いた話し方をしている。
リリアンナの疑問に、部屋にいた四人が、盛大に噴き出した。
「え……あ、あの?」
「あらあら。それには理由があるのですよ」
目を丸くするリリアンナに、フィーネが口元を押さえて笑った。
「閣下は、昔から人によって態度を変えるのが、からっきしで」
バルドが、膝のあたりに手のひらをかざしてみせる。
「これっぽっちの頃から、王族の方にも庭師にも、まったく同じ調子で話しかけるんでさあ。誰が上で誰が下かなんて、はなから頭にねえんですよ」
上下関係を理解し、身分に応じた振る舞いをするのは、貴族の子であれば当然に身につけるべき作法だ。
目上には敬い、対等には対等に、目下には主として。その使い分けを、幼い頃から叩き込まれる。
だが、幼いガレスには、それがどうしてもできなかった。
「それはもう、口をすっぱく言われつづけておりました。先代様とハンス様に、代わる代わる。そうやってしばらく経った、ある日のことでした」
フィーネが、当時を思い出すように目を細めて言う。
するとおもむろに、バルドが咳ばらいを挟み、背筋を伸ばした。腕を組んで、ずしりと重い声を作る。
「『これからは、全員に敬語を使います。それなら問題ないでしょう』」
「まあ……!」
リリアンナが思わず声を上げた。
「先代様もハンス様も開いた口が塞がらないご様子でした。レオン様だけは、お腹を抱えて笑っていらっしゃいましたけれど」
「いやあ。あれは面白かった」
レオンが、しれっと駒を進めた。
「あんとき、俺も横で聞いてましたけどね。坊ちゃん、真顔でしたよ、真顔。『これで解決しました』って顔してるんです」
「……ふふっ」
こらえきれず、リリアンナの肩が震える。
叱られつづけて困り果てた末に、ひとつの結論にたどり着いてしまった幼い少年。悪気などまったくない、名案を思いついたと信じきった顔をしていたのだろう。
「……それで、そのまま今まで?」
「ええ。もう十年以上、一度も崩れておりません。さすがに、敵と認めた相手には使っておられませんが」
フィーネとエマが、たたみ終えたシーツを籠へ積み上げていく。
「言い出したら、絶対に曲げねえんですよ、あの人は」
「態度のほうは、相変わらずどなたにも同じですがね。まあ、そこがまた閣下らしいですが」
レオンが、すっと駒を置いた。
「——詰みだ、バルド」
「ぬあーっ!?」
その大げさな崩れっぷりに、リリアンナはとうとう声を上げて笑ってしまった。
◇◇◇
談話室を出た廊下は、しんと冷たかった。窓の外では、日がすっかり傾いている。
リリアンナは、執務室の前で足を止めた。
扉は、今日も閉ざされたままだ。
その向こうで、あの不器用な人が、たった一人で紙の山と格闘している。内容を考えあぐねて唸りながら。誰にも頼らないまま。
仮婚約の娘が、辺境伯の政務に口を出すなど、出過ぎた真似で。何より自分は、この方に迷惑をかけた張本人で。
(……それでも)
せめて、ここにいる間だけは。
(少しでも、お力になれたら)
閉ざされた扉を見上げ——やがて、諦めたように目を伏せた。




