改稿中☆18 閉ざされた扉
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
結局、その夜は、一睡もできなかった。
窓の外が白みはじめる頃。リリアンナは、身支度を整えて部屋を出た。
厨房で湯を分けてもらい、清潔な布と、薬箱を借りる。
早朝から仕込みを始めていた料理人たちが、何か言いたげにこちらを見ていたけれど、誰も理由は尋ねなかった。
勝手口から外へ出ると、冷たい空気が肌を刺す。
訓練場の隅に、その背中はあった。
朝もやの中、バルドが片手で薪を割っている。左腕には、布が一枚、無造作に巻かれているだけだった。
「バルド様」
声をかけると、大男が振り返る。
「おお、リリアンナ様。こんな早くにどうしました」
「……お腕を、見せていただけますか」
リリアンナは、薬箱を抱えたまま、彼を見上げた。
「昨日、きちんと手当てをなさらなかったでしょう」
「あー……いや、あれは本当に、かすり傷でしてね」
「バルド様」
もう一度、名前を呼ぶ。
いつもの穏やかな声だ。けれど、そこには引く気配がまるでなかった。
「……かなわねえや」
バルドが、降参とばかりに肩をすくめて、丸太に腰を下ろす。
巻かれた布を解くと、太い腕に四本の裂傷が走っていた。乾きかけた血が、黒く固まっている。
リリアンナの喉が、ひくりと引き攣る。
「……失礼します」
膝をつき、湯で濡らした布を傷口へ当てた。そして、こびりついた血を、少しずつふやかして拭っていく。
「痛みますか」
「まさか。魔物にやられるのに比べりゃ、かゆいくらいです」
嘘だ、とリリアンナは思った。
爪で裂かれた傷は、くっきりと四本の溝を刻んでいて、縁が赤く腫れている。
軟膏を薄く伸ばし、清潔な布を巻いていく。きつすぎず、緩すぎず。加減に気をつけて。
その間、バルドは何も言わなかった。ただ、じっとされるがままになっている。
布を巻き終えて、リリアンナが頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした」
「そりゃあ、なんの謝りで」
「わたくしのせいで、こんな怪我を」
「姫さんのせいじゃありませんや」
バルドは、あっさりと言った。
「あの坊ちゃんが勝手におかしくなって、暴れただけでしょう。あんたは、何もしちゃいない」
——違う。
喉まで出かかった言葉を、リリアンナは飲み込んだ。
(わたくしのせいなのです……)
腕に嵌めた輪が外れただけで、令息は理性を失った。バルドが傷を負ったのも、彼が本来受ける以上の咎めを受けたのも、すべて——。
「……リリアンナ様」
顔を上げると、バルドがこちらを見ていた。
いつもの、豪快な笑みではない。眉を寄せて、真剣な顔だった。
「昨日のあれは、いったい——」
言いかけて。バルドは、口をつぐんだ。……少女の顔が、あまりにも白かったから。
眠っていないのは一目で分かる。
そのうえ、握りしめた指先が、細かく震え始めていた。
(ああ、こりゃ聞いちゃいけねえやつだ)
長年、命のやり取りをしてきた男の勘が、そう告げていた。踏み込んだところで、彼女をもう一度傷つけるだけだ。
「……いや。なんでもねえです」
バルドは、頭をかいて、大きく伸びをした。
「せっかく手当てしてもらったんだ。今日はおとなしくしときますかね」
気遣ってくれたと、リリアンナには痛いほど分かった。
(……本当に、優しい方たち)
だからこそ。
これ以上、巻き込みたくないと思ってしまう。
◇◇◇
その日の昼過ぎ。応接室に、深々と頭を下げる姿があった。
「このたびは、まことに——まことに、申し訳ございませんでした!」
ゴールドマン伯爵が、床につかんばかりに身を折っている。その隣で、ジョルジュも、青い顔で身を縮めていた。
前日の傲慢さは、影も形もない。
「息子には、屋敷で謹慎を申しつけます。……どのような処分でも、お受けいたします」
「……頭を、お上げください」
ガレスは、低く言った。
昨日の殺気は、すでに収めている。一晩かけて、無理やり抑え込んだのだ。
「……ご子息は、昨日のことを、覚えておられないと」
「は、はい……」
ジョルジュが、震える声で答えた。
「本当に、何も……あの、綺麗な人に声をかけたところまでは、覚えていますが。そこから先は、まるで……」
嘘をついている顔ではなかった。心底、自分でも何が起きたのか分かっていない。そんな顔だ。
(……どうなっている)
ガレスは、内心で眉をひそめる。
バルドの報告も、同じだった。
最初は、令息がただ無遠慮に口説いてきた。それが、ある瞬間を境に、人が変わったように豹変したのだと。
(真相は、あとで洗えばいい)
ひとまず、ガレスはそう思考を切り替えた。
「処分については、追ってご連絡いたします」
ガレスは、感情を削いだ声で言い渡す。
「……ただし。交易の話は、別です」
「え……」
伯爵が、顔を上げる。
「あれは、辺境の民のための話です。俺の私情で潰していいものではありません。昨日、話を進めていたものは、引き続きお願いしたい」
「辺境伯様……」
伯爵の目が潤んだ。
息子の不始末を許されたわけではない。それは態度で分かる。だが彼は、私怨と領民の利益を、きっぱりと切り分けてみせた。
「……ありがたく。誠心誠意、務めさせていただきます」
噛み締めるように一礼して、伯爵父子が退出していく。
扉が閉まると、ガレスは椅子の背に身を預けた。
「……お見事でした」
控えていたレオンが、眼鏡を押し上げる。
「正直、あの令息は魔物の餌にするものかと」
「……そうしたいのは、山々ですが、それで困るのは辺境の民です」
ガレスは、長く息を吐いた。
——それよりも。
床にへたり込んでいた彼女の姿が、瞼の裏に焼きついている。震える手で、左の手首を握りしめていた、あの姿が。
仮婚約の期間は、残りひと月半。
その短い時間で、彼女に自分を選んでもらわねばならないというのに——最悪の形で、彼女に恐怖を与えてしまった。
「……レオン」
「はい」
「リリアンナ嬢は、どちらに」
「今朝がた、バルドの手当てをなさっておりましたが」
ガレスは、立ち上がった。
まず、詫びなければならない。守れなかったことを。怖い思いをさせたことを。そのうえで、もう同じ轍は踏まないと伝えなければ。
——ちょうど、その時だった。
扉が、慌ただしく叩かれる。
「閣下! 失礼いたします!」
飛び込んできたのは、文官の一人だった。その腕には、麻紐で縛られた分厚い書簡の束が、いくつも抱えられている。
「辺境より、報告書が届きました!」
「……ずいぶん、遅かったですね」
「はい。北の峠が雪で塞がっていたそうで……ひと月分が、まとめて」
どさりと、机の上に積まれた書簡は、ちょっとした小山になった。
ガレスの眉間に、深い皺が刻まれる。
辺境の報告書には、目を通さないわけにいかない。
魔物の出没状況。境界の見回り記録。集落からの陳情。ひとつでも見落とせば、領民の命を脅かす。
「……分かりました。すぐに確認します」
「それと、閣下」
入れ替わりに、レオンが一通の書状を差し出した。封蝋には、王家の紋章が押されている。
「王宮より。来月の軍事会議について、事前の資料提出を求められております」
「……いつまでに」
「十日後です」
ガレスは、天を仰いだ。
軍事会議。北の国境防衛について、王国の主要な軍事貴族が集まる場だ。
辺境の実情を知る者として、最も発言せねばならない立場にある。
資料の準備を、他人任せにするわけにはいかない。
積み上がった報告書。十日後の締切。
「……閣下。手前どもがお手伝いいたします」
文官が、気遣わしげに声をかけた。
「いえ。……俺がやります」
ガレスは、そう答えて、椅子に腰を下ろした。
◇◇◇
その日から、ヴァルグレイブ邸の一角に、灯りの消えない部屋ができた。
朝、リリアンナが食堂に下りると、ガレスの席には、すでに空の皿だけが残っている。
昼は、執務室に軽食が運ばれていく。夜は、いつまで経っても顔を見せない。
「旦那様、またお食事を残されて……」
下げられた皿を見て、エマが項垂れた。
「あの量では、お身体がもちませんよ」
リリアンナは、廊下の奥へ目をやる。
執務室の扉は、今日も固く閉ざされている。その向こうに、あの方はいる。
歩いて、ほんの数十歩の距離だ。
(あの日から、まだ一度も話せていない……)
伝えたいことは、山ほどあった。
この間のことを詫びたい。バルド様のことも、ジョルジュ様のことも、すべて自分のせいなのだと。
そして。
リリアンナの指が、左の手首へ伸びる。
打ち明けなければならない。この装飾具のことを。自分に宿ったものの、正体を。
もう、隠したままではいられない。あんなことが起きてしまったのだから。
——そうしたらもう、お別れになるかもしれない。
(……それでも、いいのかも)
そんな考えが頭をよぎった。
この屋敷に来て、ひと月半。
厨房の皆と笑い、文官たちと数字を眺め、兵士たちと子犬を追いかけた。エマは友達になってくれた。バルドは身体を張って守ってくれた。
——そして、辺境伯様は。
いつも、わたくしのことを気遣ってくれていた。探検の日の廊下で——もっと仲良くなりたいと、歩み寄ってくださった。
好きになってしまった。ここにいる人たちを。——そして、彼を。
だからこそ。
(わたくしがいると、どこかで迷惑をかけてしまう)
家のために、この縁談を成功させたい。その気持ちは、今も変わらない。
けれど今は、それと同じ重さで、別の思いが胸に生まれてしまっている。
この人たちを、自分の事情に巻き込みたくない。
「……リリアンナ様?」
エマの声に、はっと我に返る。
「ごめんなさい。……なんでもないの」
リリアンナは、いつものように微笑んだ。
◇◇◇
一方その頃。
執務室では、ガレスが額を押さえていた。
机の上には、開かれたままの報告書。手元の紙には、書きかけの文字が並んでいる。
同じ行を、もう三度も読み返していた。
(……集中できん)
頭に浮かぶのは、震える手で手首を握りしめた、あの姿だ。
閉ざした扉へ目をやる。これを開けば、彼女に会える。
けれど、顔を見るだけで済ませたくはなかった。きちんと詫びて、ゆっくり話をしたい。
だがこの十日は、一刻も無駄にできなかった。
軍事会議の資料が不十分なら、北の国境の危うさは、中央に伝わらない。伝わらなければ、何の支援も辺境には回ってこない。
——国境が破られれば、真っ先に踏みにじられるのは、あの土地で暮らす者たちだ。
「…………」
ガレスは、羽ペンを握り直した。
一日でいい。この山を片づけて、必ず時間を作る。そう自分に言い聞かせて、彼はまた資料を書き始めた。
仮婚約の期間が、一日、また一日と減っていく。
ふたりを隔てる扉は、いまだ閉ざされたままだった。




