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男を狂わせる魅了の祝福を持つ令嬢は、野獣と恐れられる辺境伯様と三か月の仮婚約をしたら溺愛されました  作者: 紳士テニス


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20/58

改稿中☆18 閉ざされた扉

※現在、改稿作業を進めています。


第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。

差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。

物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。

 結局、その夜は、一睡もできなかった。


 窓の外が白みはじめる頃。リリアンナは、身支度を整えて部屋を出た。


 厨房で湯を分けてもらい、清潔な布と、薬箱を借りる。


 早朝から仕込みを始めていた料理人たちが、何か言いたげにこちらを見ていたけれど、誰も理由は尋ねなかった。


 勝手口から外へ出ると、冷たい空気が肌を刺す。


 訓練場の隅に、その背中はあった。


 朝もやの中、バルドが片手で薪を割っている。左腕には、布が一枚、無造作に巻かれているだけだった。


「バルド様」


 声をかけると、大男が振り返る。


「おお、リリアンナ様。こんな早くにどうしました」

「……お腕を、見せていただけますか」


 リリアンナは、薬箱を抱えたまま、彼を見上げた。


「昨日、きちんと手当てをなさらなかったでしょう」

「あー……いや、あれは本当に、かすり傷でしてね」

「バルド様」


 もう一度、名前を呼ぶ。


 いつもの穏やかな声だ。けれど、そこには引く気配がまるでなかった。


「……かなわねえや」


 バルドが、降参とばかりに肩をすくめて、丸太に腰を下ろす。


 巻かれた布を解くと、太い腕に四本の裂傷が走っていた。乾きかけた血が、黒く固まっている。


 リリアンナの喉が、ひくりと引き攣る。


「……失礼します」


 膝をつき、湯で濡らした布を傷口へ当てた。そして、こびりついた血を、少しずつふやかして拭っていく。


「痛みますか」

「まさか。魔物にやられるのに比べりゃ、かゆいくらいです」


 嘘だ、とリリアンナは思った。


 爪で裂かれた傷は、くっきりと四本の溝を刻んでいて、縁が赤く腫れている。


 軟膏を薄く伸ばし、清潔な布を巻いていく。きつすぎず、緩すぎず。加減に気をつけて。


 その間、バルドは何も言わなかった。ただ、じっとされるがままになっている。


 布を巻き終えて、リリアンナが頭を下げた。


「……申し訳、ありませんでした」

「そりゃあ、なんの謝りで」

「わたくしのせいで、こんな怪我を」

「姫さんのせいじゃありませんや」


 バルドは、あっさりと言った。


「あの坊ちゃんが勝手におかしくなって、暴れただけでしょう。あんたは、何もしちゃいない」


 ——違う。


 喉まで出かかった言葉を、リリアンナは飲み込んだ。


(わたくしのせいなのです……)


 腕に嵌めた輪が外れただけで、令息は理性を失った。バルドが傷を負ったのも、彼が本来受ける以上の咎めを受けたのも、すべて——。


「……リリアンナ様」


 顔を上げると、バルドがこちらを見ていた。


 いつもの、豪快な笑みではない。眉を寄せて、真剣な顔だった。


「昨日のあれは、いったい——」


 言いかけて。バルドは、口をつぐんだ。……少女の顔が、あまりにも白かったから。


 眠っていないのは一目で分かる。


 そのうえ、握りしめた指先が、細かく震え始めていた。


(ああ、こりゃ聞いちゃいけねえやつだ)


 長年、命のやり取りをしてきた男の勘が、そう告げていた。踏み込んだところで、彼女をもう一度傷つけるだけだ。


「……いや。なんでもねえです」


 バルドは、頭をかいて、大きく伸びをした。


「せっかく手当てしてもらったんだ。今日はおとなしくしときますかね」


 気遣ってくれたと、リリアンナには痛いほど分かった。


(……本当に、優しい方たち)


 だからこそ。


 これ以上、巻き込みたくないと思ってしまう。




 ◇◇◇




 その日の昼過ぎ。応接室に、深々と頭を下げる姿があった。


「このたびは、まことに——まことに、申し訳ございませんでした!」


 ゴールドマン伯爵が、床につかんばかりに身を折っている。その隣で、ジョルジュも、青い顔で身を縮めていた。


 前日の傲慢さは、影も形もない。


「息子には、屋敷で謹慎を申しつけます。……どのような処分でも、お受けいたします」

「……頭を、お上げください」


 ガレスは、低く言った。


 昨日の殺気は、すでに収めている。一晩かけて、無理やり抑え込んだのだ。


「……ご子息は、昨日のことを、覚えておられないと」

「は、はい……」


 ジョルジュが、震える声で答えた。


「本当に、何も……あの、綺麗な人に声をかけたところまでは、覚えていますが。そこから先は、まるで……」


 嘘をついている顔ではなかった。心底、自分でも何が起きたのか分かっていない。そんな顔だ。


(……どうなっている)


 ガレスは、内心で眉をひそめる。


 バルドの報告も、同じだった。


 最初は、令息がただ無遠慮に口説いてきた。それが、ある瞬間を境に、人が変わったように豹変したのだと。


(真相は、あとで洗えばいい)


 ひとまず、ガレスはそう思考を切り替えた。


「処分については、追ってご連絡いたします」


 ガレスは、感情を削いだ声で言い渡す。


「……ただし。交易の話は、別です」

「え……」


 伯爵が、顔を上げる。


「あれは、辺境の民のための話です。俺の私情で潰していいものではありません。昨日、話を進めていたものは、引き続きお願いしたい」

「辺境伯様……」


 伯爵の目が潤んだ。


 息子の不始末を許されたわけではない。それは態度で分かる。だが彼は、私怨と領民の利益を、きっぱりと切り分けてみせた。


「……ありがたく。誠心誠意、務めさせていただきます」


 噛み締めるように一礼して、伯爵父子が退出していく。


 扉が閉まると、ガレスは椅子の背に身を預けた。


「……お見事でした」


 控えていたレオンが、眼鏡を押し上げる。


「正直、あの令息は魔物の餌にするものかと」

「……そうしたいのは、山々ですが、それで困るのは辺境の民です」


 ガレスは、長く息を吐いた。


 ——それよりも。


 床にへたり込んでいた彼女の姿が、瞼の裏に焼きついている。震える手で、左の手首を握りしめていた、あの姿が。


 仮婚約の期間は、残りひと月半。


 その短い時間で、彼女に自分を選んでもらわねばならないというのに——最悪の形で、彼女に恐怖を与えてしまった。


「……レオン」

「はい」

「リリアンナ嬢は、どちらに」

「今朝がた、バルドの手当てをなさっておりましたが」


 ガレスは、立ち上がった。


 まず、詫びなければならない。守れなかったことを。怖い思いをさせたことを。そのうえで、もう同じ轍は踏まないと伝えなければ。


 ——ちょうど、その時だった。


 扉が、慌ただしく叩かれる。


「閣下! 失礼いたします!」


 飛び込んできたのは、文官の一人だった。その腕には、麻紐で縛られた分厚い書簡の束が、いくつも抱えられている。


「辺境より、報告書が届きました!」

「……ずいぶん、遅かったですね」

「はい。北の峠が雪で塞がっていたそうで……ひと月分が、まとめて」


 どさりと、机の上に積まれた書簡は、ちょっとした小山になった。


 ガレスの眉間に、深い皺が刻まれる。


 辺境の報告書には、目を通さないわけにいかない。


 魔物の出没状況。境界の見回り記録。集落からの陳情。ひとつでも見落とせば、領民の命を脅かす。


「……分かりました。すぐに確認します」

「それと、閣下」


 入れ替わりに、レオンが一通の書状を差し出した。封蝋には、王家の紋章が押されている。


「王宮より。来月の軍事会議について、事前の資料提出を求められております」

「……いつまでに」

「十日後です」


 ガレスは、天を仰いだ。


 軍事会議。北の国境防衛について、王国の主要な軍事貴族が集まる場だ。


 辺境の実情を知る者として、最も発言せねばならない立場にある。


 資料の準備を、他人任せにするわけにはいかない。


 積み上がった報告書。十日後の締切。


「……閣下。手前どもがお手伝いいたします」


 文官が、気遣わしげに声をかけた。


「いえ。……俺がやります」


 ガレスは、そう答えて、椅子に腰を下ろした。




 ◇◇◇




 その日から、ヴァルグレイブ邸の一角に、灯りの消えない部屋ができた。


 朝、リリアンナが食堂に下りると、ガレスの席には、すでに空の皿だけが残っている。


 昼は、執務室に軽食が運ばれていく。夜は、いつまで経っても顔を見せない。


「旦那様、またお食事を残されて……」


 下げられた皿を見て、エマが項垂れた。


「あの量では、お身体がもちませんよ」


 リリアンナは、廊下の奥へ目をやる。


 執務室の扉は、今日も固く閉ざされている。その向こうに、あの方はいる。


 歩いて、ほんの数十歩の距離だ。


(あの日から、まだ一度も話せていない……)


 伝えたいことは、山ほどあった。


 この間のことを詫びたい。バルド様のことも、ジョルジュ様のことも、すべて自分のせいなのだと。


 そして。


 リリアンナの指が、左の手首へ伸びる。


 打ち明けなければならない。この装飾具のことを。自分に宿ったものの、正体を。


 もう、隠したままではいられない。あんなことが起きてしまったのだから。


 ——そうしたらもう、お別れになるかもしれない。


(……それでも、いいのかも)


 そんな考えが頭をよぎった。


 この屋敷に来て、ひと月半。


 厨房の皆と笑い、文官たちと数字を眺め、兵士たちと子犬を追いかけた。エマは友達になってくれた。バルドは身体を張って守ってくれた。


 ——そして、辺境伯様は。


 いつも、わたくしのことを気遣ってくれていた。探検の日の廊下で——もっと仲良くなりたいと、歩み寄ってくださった。


 好きになってしまった。ここにいる人たちを。——そして、彼を。


 だからこそ。


(わたくしがいると、どこかで迷惑をかけてしまう)


 家のために、この縁談を成功させたい。その気持ちは、今も変わらない。

 けれど今は、それと同じ重さで、別の思いが胸に生まれてしまっている。


 この人たちを、自分の事情に巻き込みたくない。


「……リリアンナ様?」


 エマの声に、はっと我に返る。


「ごめんなさい。……なんでもないの」


 リリアンナは、いつものように微笑んだ。




 ◇◇◇




 一方その頃。


 執務室では、ガレスが額を押さえていた。


 机の上には、開かれたままの報告書。手元の紙には、書きかけの文字が並んでいる。


 同じ行を、もう三度も読み返していた。


(……集中できん)


 頭に浮かぶのは、震える手で手首を握りしめた、あの姿だ。


 閉ざした扉へ目をやる。これを開けば、彼女に会える。


 けれど、顔を見るだけで済ませたくはなかった。きちんと詫びて、ゆっくり話をしたい。


 だがこの十日は、一刻も無駄にできなかった。


 軍事会議の資料が不十分なら、北の国境の危うさは、中央に伝わらない。伝わらなければ、何の支援も辺境には回ってこない。


 ——国境が破られれば、真っ先に踏みにじられるのは、あの土地で暮らす者たちだ。


「…………」


 ガレスは、羽ペンを握り直した。


 一日でいい。この山を片づけて、必ず時間を作る。そう自分に言い聞かせて、彼はまた資料を書き始めた。


 仮婚約の期間が、一日、また一日と減っていく。


 ふたりを隔てる扉は、いまだ閉ざされたままだった。

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