改稿中☆17 豹変
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
ジョルジュの動きが、ぴたりと止まった。
(妙だ……)
先ほどまで、あれだけ喚いていた男の急な変わりように、バルドは眉をひそめる。
そして、その顔を見て——背筋が、ぞわりと粟立った。
だらりと開いた口。焦点のあわない、濁った目。
それは、女に色目を使う男の顔ではなかった。
(……なんだ、こいつ)
バルドは、その目を知っていた。
獲物を前にして、ただそれだけを見つめる。腹を裂かれても、腕を落とされても、なお喰らいつこうとする。
理性のとんだ——魔物の目だ。
そして、その目線の先にいるのは。
「ぁ……あ……ほしい……」
うわ言のような声を漏らして、ジョルジュがリリアンナめがけて飛びかかった。
「——つッ!!」
考えるより先に、バルドの身体が動いていた。
突っ込んでくる男の胴へ、正面から腕を回し、力任せに引き剥がす。
魔物すら組み伏せる膂力に、細身の身体が宙に浮いた。
「ぐ、あ……っ! 放せ! 放せぇっ!」
ジョルジュが、獣のように暴れる。
「よこせ! あの子を……よこせぇ……!」
もはや人の言葉というより、唸り声に近い。
振り回された爪が、バルドの腕を掻き裂いた。分厚い皮膚に、四筋の赤い線が引かれる。
だが、バルドは離さない。
「てめぇ……いい加減にしろやァ!」
丁寧な物腰は、とうに剥がれていた。
(分からねぇ。急にどうしちまったんだ)
薬でもやってるか、はたまた、何かに憑かれでもしたか。
——だが、考えるのは後でいい。
今、大事なことは、たった一つ。
この娘に、指一本、触れさせないことだ。
「うおおおおおおおっ!!」
渾身の力で、暴れる男を床へねじ伏せる。
骨が軋むほどの力を込め、その視線ごと、リリアンナから遮った。
◇◇◇
その、広い背中の向こうで。
リリアンナは、床にへたり込みながら、落ちた装飾具をなんとか拾い上げていた。
息がうまく吸えない。指が震えて、言うことをきかない。
背中越しに聞こえる、男の唸り声。
——同じだ。
八歳の、あの夜と。
(……っ、だめ。今は、考えては、だめ)
ぎゅっと目をつむり、頭を振る。
(大丈夫、大丈夫よ、リリアンナ)
震える指を何度も滑らせて、留め具を手繰り寄せる。外れた金具を左の手首へ回し、強く押し込んだ。
かちり。
固い音を立てて、銀の輪が、再びその腕へ収まった。
「……あ、れ?」
押さえつけられていた身体から、ふっと力が抜けた。
バルドの腕の中で、ジョルジュが瞬きをする。
狂気に染まっていた目に、少しずつ、正気の色が戻っていく。
「な……なんだ、これ。なんで、僕は……」
まるで、たった今、目が覚めたような顔だった。
自分が何をしようとしていたのか。なぜ床に押さえつけられているのか。まるで心当たりがない、という様子だった。
バルドが面食らって、わずかに力を緩める。その拍子に、ジョルジュがもがいて起き上がろうとした。
「放せ! 無礼だぞ、貴様! 僕を誰だと思って——」
——そのときだった。
「……俺の屋敷で、何をしている」
地を這うような、低い声。
食堂の入口に、大きな影が立っていた。
息を切らせた料理人の後ろから現れたのは——ガレスだった。
床に押さえつけられた令息。
腕から血を流すバルド。
そして、床にへたり込んだままのリリアンナ。
この光景を見た瞬間、ガレスの金色の目が、剣呑に細められた。
「ひっ……」
全身から殺気を溢れさせた巨躯を前に、ジョルジュが悲鳴を上げる。
「い、いや、これは……僕は、何も……」
「黙れ」
ガレスは、冷たく切り捨てた。
「事情は、お前の父親の前で聞く」
その一言で、ジョルジュの顔から、完全に血の気が引いた。
駆けつけた兵士たちに引き渡され、青ざめた令息が連れ出されていく。
ガレスは、その背中を、凍りつくような目で見送った。
——そして、令息の姿が扉の向こうへ消えるなり、その表情が、ふっと変わる。
「……リリアンナ嬢」
大きな体を、できるだけ小さく屈めて、ガレスは彼女のそばへ膝をついた。
「……お怪我は、ありませんか」
いつもの、不器用だけれど丁寧な言葉遣いだった。
「……はい。バルド様が、守ってくださいましたので。……わたくしは、なんともありません」
言いかけて、リリアンナが、はっと顔を上げる。そして、ふらつきながら立ち上がった。
「それより、バルド様。腕を……血が出ています。すぐに手当てを」
「こんなもん、かすり傷でさあ」
バルドが、豪快に笑ってみせる。その笑顔に、リリアンナは深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございました」
そして、力なく顔を上げる。
「あの……申し訳ありません。少し、疲れてしまって……。お部屋に、戻らせていただきます」
ガレスの返事を待たず、リリアンナはもう一度深く一礼して、逃げるように食堂を出て行った。
去っていく背中を見送るガレスの目に、一つだけ、焼きついたものがあった。
彼女が震える手で、左の手首を、強く、強く握りしめていたことだ。
(……怖い思いを、させた)
この屋敷は、彼女にとって安全な場所であるはずだった。ここでだけは、穏やかに過ごしてほしかった。
それを守るのが、自分の役目だったはずだ。
「…………」
みしり、と。握りしめた拳から、骨の鳴る音がした。
◇◇◇
自室に戻るなり、リリアンナは後ろ手に扉を閉めた。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる。ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
しばらく、動けなかった。
やがて、のろのろと立ち上がると、引き出しから細い金具を取り出す。いまだに震える指で、留め具を締め直した。
一度。二度。
何度も、何度も、確かめるように。
(……もう、外れない)
だけど。
どれだけ確かめても、胸に溢れた不安は収まってくれなかった。
あの男性の理性を奪い、暴走させてしまった。
バルド様に、怪我をさせてしまった。
辺境伯様の大切な商談も、きっと台なしにしてしまった。
あの方が、無遠慮に声をかけてきたのは事実だ。
けれど、あんな大事になるはずでは、なかった。
軽い気持ちで話しかけただけの人が、理性を失って、床に押さえつけられて、挙げ句、辺境伯様に咎められることになった。
悪いのは——自分だ。
どれだけ気をつけていても。どれだけ努力を重ねても。自分は、そこにいるだけで、誰かに迷惑をかけてしまう。
「……やはり、わたくしは」
その先を、言葉にすることはできなかった。
膝を抱えて、リリアンナは、小さくうずくまった。




