改稿中☆16 外れた枷
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
その日、ヴァルグレイブ邸の空気は、いつもより引き締まっていた。
「ゴールドマン伯爵様、ならびにご令息様。ご到着でございます」
ハンスの落ち着いた声が響き、正面の扉が開かれた。
入ってきたのは、壮年の紳士。柔和な笑みをたたえ、ガレスへ丁寧に頭を下げた。
「本日はお招きにあずかり、光栄に存じます、ヴァルグレイブ辺境伯様」
「こちらこそ。ご足労いただき、感謝いたします」
ガレスも、社交の礼を返す。
その伯爵の後ろから、仕立てのいい上着に身を包んだ、整った顔立ちの若い男がつづいた。
「息子のジョルジュでございます。いずれ家を継がせますので、商いを学ばせておりまして。本日は勉強のために、連れてまいりました」
「ジョルジュ・ゴールドマンと申します。本日は、よろしくお願いいたします」
青年が、丁寧に一礼する。
先日の夜会では、父親の挨拶回りにも付き添わず、令嬢たちに囲まれていた男だ。だが、こうして向き合ってみれば、何ということはない。ごく普通の青年だった。
「では、こちらへ」
応接室へ促しながら、ガレスは、ちらりと廊下の奥へ視線を投げる。
仮婚約の身であるリリアンナには、この日、客の目に触れないところで過ごしてもらっている。
(いや……今は、目の前の商談に集中しよう)
応接室の扉が、重い音を立てて閉ざされた。
◇◇◇
一方その頃、リリアンナは食堂にいた。
しゅる、しゅると、小気味いい音を立てて、じゃがいもの皮が細く長く剥かれていく。
「よっと。リリアンナ様、次はこいつを頼みます」
バルドが、山と積まれた野菜の籠を、厨房から片手で軽々と運んできた。
「まったく、うちの姫さんの手際は大したもんだ。料理人より速いんじゃねえですか」
「まあ。それは褒めすぎですわ」
リリアンナは、くすぐったそうに笑った。
商談の間、部屋でじっとしているのも落ち着かない。それならばと厨房を覗いてみたら、料理人たちに「ぜひ手伝ってください」と喜ばれた。
それから、食堂に野菜を移動して、下拵えの手伝いをしていた。
そんなリリアンナに、熊のような大男が、ぴたりとそばを離れず付き添っている。
「バルド様。お仕事の邪魔をしてしまって、申し訳ありません」
「なあに、これも仕事のうちです!」
バルドは、豪快に笑う。
彼が、リリアンナのそばを離れないのには、理由があった。
「閣下から、きつく言いつかってるんですよ。客がいる間は、リリアンナ様のおそばを離れるなってね」
その言葉に、リリアンナはかすかに目を伏せる。
わざわざ、討伐隊長を護衛につけてくれたのだ。申し訳ない気持ちもあるが、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「辺境伯様には、いつも、よくしていただいてばかりですね」
「そりゃあ、そうでしょう」
バルドは、なんでもないことのように言った。
「閣下は、大事なものは、必ず守る人ですから」
——大事なもの。
その言葉がどこか照れくさくて、リリアンナは返事の代わりに、こくりと頷いた。
それから、しばらく皮むきをつづけて、次の野菜へ手を伸ばしたとき。左の手首が、わずかに揺れたのに気付く。
「……あら」
包丁を置いて、袖をめくる。
現れたのは、銀の装飾具。その留め具が少しだけ緩んでいた。
さっと、頭から血の気が引く。
(……すぐに直さなくては)
だが、留め具を締め直す道具は、自室の引き出しの中だった。
「リリアンナ様? どうかしましたか」
「バルド様。申し訳ありませんが、一度お部屋へ戻ってもよろしいでしょうか。少し直したいものがありまして」
「もちろんです。俺もお供しますよ」
リリアンナが席を立とうとした——そのときだった。
◇◇◇
「……まったく、退屈な話だ」
応接室を抜け出したジョルジュは、あくびを噛み殺しながら、屋敷の廊下を歩いていた。
交易路がどうの、関税がどうの。父親たちは、ずっとつまらない話ばかりしている。
(いずれ家を継げと言われているが、あんな話を聞かされるくらいなら、街で遊んでいた方が、よほど有意義だ)
ジョルジュは、厠に立つふりをして部屋を出てきた。
(どうせ、あと半刻もすれば終わるだろう)
それまで、適当に時間を潰そうと考えていた。
「しかし、辺境の家というのは、こうも飾り気がないものかね」
ぐるりと廊下を見渡して、鼻を鳴らす。
絵画のひとつもない。花も飾られていない。無骨で、無駄がなくて、面白みがない。
(ゴールドマンの屋敷なら、廊下にある一枚一枚の絵に金がかかっているのにね)
そんなことを考えながら、廊下を進んでいたときだった。
開いた扉の向こうに、人影が見えた。
なんとなく、覗き込む。そして——息を呑んだ。
窓から差し込む午後の光の中に、ひとりの少女が座っていた。
琥珀を薄めたような薄茶の髪。
伏せたまつ毛が落とす、淡い影。
彫刻のように、整いすぎた横顔。
(……なんだ。あの子は)
夜会という夜会に顔を出し、数えきれないほどの令嬢を見てきた。王都一と評判の侯爵令嬢も、着飾った美姫も、一通り知っている。
だが、こんな娘は、見たことがない。
気づけばジョルジュは、食堂へと足を踏み入れていた。
「やあ。こんなところに、こんな綺麗な子がいるなんて」
声をかけられ、リリアンナの手が止まる。
顔を上げた先にいたのは、見知らぬ青年だった。仕立てのいい服に身を包んで、口元がにやついている。
リリアンナは、バルドと素早く目をあわせた。
——まずい。
仮婚約のことは、まだ公にできない。ここで下手に素性を明かせば、余計な噂が立ってしまう。
(……幸い、この方はわたくしをご存じなさそうだわ)
ならば、名乗らなければいい。
リリアンナはそのまま立ち上がり、頭を下げた。
「……お客様でいらっしゃいますね。挨拶が遅れました」
とっさに、自分の素性をごまかした。
「わたくしは、ヴァルグレイブ辺境伯様の遠縁の者で。こちらに、ご厄介になっております」
「へえ。辺境伯様のご親戚か」
使用人にしては身なりも所作も整いすぎていると思ったが、貴族の娘なら納得だ。しかも辺境伯家の遠縁なら、ゴールドマン伯爵家の自分が声をかければ喜ぶだろう。
「ねえ、君。名前は?」
ずかずかと距離を詰めてくる。
「こんな台所仕事なんて、綺麗な君には似合わないよ。……僕はジョルジュ・ゴールドマン。ゴールドマン伯爵家の嫡男だ」
名乗れば、たいていの令嬢は目の色を変える。
うちの領の貿易事業は、ここ数年で王国屈指の規模になった。名を知らぬ貴族は、まずいない。
「今度、王都を案内させてくれないか。君みたいな子に、もっと似合う場所がある。有名な仕立て屋も、宝石店も、僕なら顔が利くよ」
「……ありがたいお話ですが」
リリアンナは、首を横に振った。
「わたくしのような者には、もったいないお話ですわ。どうぞ、応接室へお戻りくださいませ」
やんわりと断って、一歩、後ろへ下がる。
その反応が、かえってジョルジュを煽った。
(……いいね。初心な子だ)
これまで、彼が声をかけてなびかなかった令嬢はいない。まして目の前の娘は、声も、物腰も、いかにも大人しそうだ。強く出られることに慣れていない。
しかも、部屋には、無骨な兵士がひとりいるだけ。面倒な邪魔者はいない。
少し押せば、すぐに折れる。彼のこれまでの経験が、そう告げていた。
「そう言わずに。ほんの少し、話をするだけだよ」
伸ばされた手が、リリアンナの手首へ届こうとした——そのとき。
「お客人」
ぬっ、と巨大な影が、ふたりの間に割り込んだ。
バルドだった。
見上げるほどの巨体が、壁のように立ちはだかる。
「……なっ」
ジョルジュが、思わず半歩後ずさった。
「ここはただの食堂でしてね。お客人のいらっしゃるような場所じゃあありません」
バルドの声は、あくまで丁寧だ。だが、その声には、有無を言わせぬ圧があった。
「な……なんだ、貴様は」
ジョルジュが、たじろぐ。
そのとき、料理人がそっと食堂を抜け出していった。ガレスを呼びに行ったのだ。
バルドは、それを視線の先に捉える。
(よし。あとは、閣下が来るまでの辛抱だ)
ここで手荒な真似をすれば、ガレスの商談に傷がつく。
食堂の出入り口は、ジョルジュの背後だ。リリアンナを外へ出すにも、まずは彼を入口から遠ざける必要がある。
「まあまあ、そうおっしゃらず。そうだ、あちらで茶でも召し上がってください。うちの茶は、辺境の茶葉を使っておりましてね。なかなか旨いんですよ」
のらりくらりと、話をずらしていく。その巨体で、さりげなくリリアンナを背に隠しながら。
「……っ、僕は今、その子と話しているんだ!」
いなされつづけたことで、ジョルジュの声に苛立ちがにじんだ。
ジョルジュは伯爵家の嫡男だ。それが、たかが兵士風情に邪魔をされている。
(目の前には、あの娘がいるというのに……!)
「どいてくれと言ってるんだ!」
むきになった令息が、バルドの脇をすり抜けようと、大きく一歩を踏み込んだ。
バルドが、それを遮るように身体を寄せる。リリアンナも、その動きにあわせて、後ろへ下がった。
——カツンッ。
下がった拍子に、左の手首が、背後の机の角にぶつかった。
いつもなら、なんでもない衝撃だった。
だが。
かしゃん。
緩んでいた留め具があっけなく外れて、銀の装飾具が手首を滑り落ちていく。
「あ……っ」
(いけない……!)
リリアンナの目の前で、乾いた音を立てて、銀の輪が、床の上に転がった。
——カアアアアアアアン。
聞こえるはずのない鐘の音が、リリアンナの頭の中に響いた。
その音は、清らかに澄み渡っていく。
——ああ。
この音を、リリアンナは知っている。忘れられるはずがない。
これは。
『祝福』が、目を覚ます音だ。




