改稿中☆12 お屋敷探検②――文官部は修羅場です
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
厨房での騒動を切り抜け、二人が次に向かったのは、文官たちの仕事部屋だった。
「次は、文官さんたちのお部屋です! さっきは大変でしたけど、今度こそ、ゆっくりご挨拶できますよ!」
エマは気合を入れて、勢いよく扉を開けた。
「皆さーん! リリアンナ様が、ご挨拶に……」
だが——今度も、その声はつづかなかった。のしかかる空気に、エマの言葉は圧し潰された。
どんより、と沈みきった室内。文官たちは、誰ひとり顔を上げない。
がりがりと羽ペンを走らせる者。頭を抱えてうなだれる者。落ちくぼんだ目で書類を睨みつけ、ぶつぶつと何かを呟いている者すらいる。
「……ひっ」
エマが小さく悲鳴を上げた。
開けてはいけない扉を開けてしまった、とでもいうように、ずるずると後ずさる。
「な……なな、ななんですか、あれ」
エマは、リリアンナの背中にぎゅっとしがみついた。
だが、そう問われたところで、リリアンナにも分かるはずがない。ふるふると首を横に振るばかりだ。
ついさっきまでの喧騒に満ちた厨房とは、まるで別世界。人の話し声も、笑い声もない。低いうめき声だけが聞こえてくる。
「り、リリアンナ様……お化けがいます……」
「い、生きているわ。生きているはず、きっと……」
小声でひそひそと言葉を交わす。
そんな二人に気づきもせず、文官たちは、書類にかじりついていた。
(このままでは、埒が明かないわ)
リリアンナは、ごくりと唾を呑み込んだ。それから、背中にしがみつくエマの手を、そっと外す。
「り、リリアンナ様……?」
不安げなエマに小さく頷いて、恐る恐る一歩を踏み出した。怯えながらも、近くの文官のもとへ歩み寄っていく。
「あ……あの。何か、あったのでしょうか……」
精一杯の勇気を振り絞って、声をかける。その視線の先で、ひとりの文官が、この世の終わりのような顔をしていた。
「もう……おしまいだぁ……」
うわ言のように呟いて、がっくりと机に突っ伏す。
「あ、あの……?」
リリアンナが戸惑っていると、そばにいた年配の文官が、のろのろと顔を上げた。その目の下には、濃い隈が刻まれている。
「……これは、リリアンナ様。お見苦しいところを……」
「いえ……。それよりも、どうされたのですか」
力なく声をかけた文官は、絞り出すようにつづけた。
「実は……こちらが、冬に備えて、どの集落に何の物資を配るかの割り振りの書類でして」
年配の文官が、机に積まれた紙の束へ、力なく目をやる。それは……うんざりするほど膨大な量だった。
「例年なら、集落から出た申請を、時間をかけてリストにまとめるのです……」
二人目の文官が、落ちくぼんだ目のまま話を継いだ。
「ですが今年は……閣下の婚約者探しで、王都へ出てきておりますでしょう。集落からの申請が、王都へ届くのを待ってから作業が始まりました……」
「ただでさえ時間がないところに、この量です。三人で手分けして、どうにか申請をリストにまとめて、計算まで終わらせたのですが……」
「急いだせいで、間違いだらけ……」
突っ伏していた三人目の文官が、机に顔を埋めたまま、うめいた。
「間違いを探して、直しているのですが……この量では、どうしても時間が足りなくて……」
「できるだけ早く辺境に書類を送らねば、物資の配給に支障が……」
「もう、おとといから……誰も、眠っていません……」
「た、大変じゃないですか……!」
その言葉に怖がるのも忘れて、エマが目を丸くする。
リリアンナの視線は、机に広げられた書類へ吸い寄せられていた。びっしりと並んだ数字の列。上から下まで、目で追っていく。
指先がむずむずする。——放っておけない、と思ってしまった。
「……差し出がましいようですが」
控えめに、けれどはっきりと、リリアンナが口を開く。
「少しだけ、お手伝いしてもよろしいですか。父が王宮で文官を務めておりまして……手伝いで、こうした書類は見慣れておりますの」
文官が、驚いたように顔を上げる。
藁にもすがる思いだったのだろう。どうぞ、と書類を差し出した。
リリアンナは、一番上の紙を手に取ると、すっと目を走らせた。
「……こちらと、こちら。それから、この行も。間違っていますね」
「……え」
リリアンナは、細い木炭を借りて、間違った箇所に印をつけ、正しい数字を余白に書きこむ。
「こちらご確認いただいて、問題なければ修正してください」
書類を文官に手渡すと、次の紙へ。
「こちらは、足し算の繰り上がりが抜けています。……この集落は、ふたつの品を、取り違えていますわ」
指先が、迷いなく、上から下へと滑っていく。ここ、ここ、ここ——と、次々に、誤りだけが淀みなく拾い上げられていく。
桁の多い数字が並ぶ箇所では、指先で数字を追いながら素早く計算し、誤りを見つけるたびに余白へ正しい数字を書きつけていった。
三人の文官は、声も出せなかった。二日かけても進まなかった確認作業が、リリアンナの手が加わったことで、目に見えて進み始めていた。
「……ぜ、全部、合っています……」
震える声で、一枚目を確認し終えた文官が呟いた。
そこからは、リリアンナが印をつけ終えたものから、三人の文官が手分けしてリストを書き直していく。次の一枚、また次の一枚と、山が少しずつ低くなっていった。
やがて——リリアンナの手が、最後の一枚を置いた。
「これで、すべて確かめ終わりました。……あとの直しも、少しは楽になるとよいのですが」
「楽になるどころか——」
リリアンナが言い終わるより早く、先ほどまで突っ伏していた文官が、勢い込んで声を上げた。
「これなら……今日中に、終わります……!」
その声が震えていた。
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
「リリアンナ様……! あなたは、我らの命の恩人です……!」
涙目の男たちに、ぐいぐい詰め寄られ、リリアンナは目を白黒させた。
「ひえっ……わ、わたくしは、少しお手伝いしただけですわ」
そう言って、机に積まれた膨大な紙の束へ、優しく目をやる。
「これほどの数を、たった三人で、まとめようとなさっていたのでしょう。……数を一つひとつ確かめて、間違えずに書き上げる。本当に、根気のいる立派なお仕事です」
その言葉に、文官たちは言葉を失った。
ここは、武芸第一のヴァルグレイブ辺境領。書類を差しだせば『数字が多い』『見ているだけで眠くなる』『頭が痛い』と、屈強な男たちが悲鳴を上げて逃げ出す土地柄だ。
地道な働きを、誰にも分かってもらえない。そのもどかしさを、彼らは長年抱えてきた。
それが今、未来の女主人となるかもしれない令嬢に、仕事の中身を理解され、労わられている。
「いやあ、お分かりいただけますか! そうなんです。この数字一つ数え間違えれば、どこかの村が物資の足りない冬を過ごすことになる。だからこそ、何度も何度も見直して……気づけば夜が明けていて……」
「なのに脳筋どもときたら、いつもいつも『まだ数えているのか』なんて言いやがって……!」
「ですが、今……リリアンナ様が褒めてくださったので。ああ、報われました……!」
いつしか、部屋を覆っていた重い空気はすっかり晴れていた。
文官たちは口々に日頃の苦労を語り、リリアンナも相槌を打っては、ときおり自分の体験を交えて楽しそうに裏方の話に花を咲かせる。
(この方が奥方様になってくだされば……文官部にも光が当たるぞ……!)
この日から文官部には、密かな結束が生まれた。名づけて、『リリアンナ様を奥方様にお迎えする会』。
書類の山に頭を抱えていた男たちは、まったく別の議題に、かつてない熱意を燃やし始めたのだった。
◇◇◇
和やかな笑い声がする部屋を出る。窓の外では、日がすっかり高くのぼり、昼をとうに過ぎた頃合いになっていた。
挨拶周りのつもりが、気づけば半日仕事だ。
「リリアンナ様……!」
廊下に出るなり、エマがきらきらとした目で振り返った。
「本当に、すごいです……! お野菜の皮むきも、あの難しい書類の確認も、どうしてあんなに、なんでもできちゃうんですか!?」
興奮ぎみに、ぐっと身を乗り出してくる。リリアンナは困ったように、頬に手を添えた。
「たまたま、力になれることだっただけよ。皮むきも、書類の確認も、経験したことがあったから。……本当に、それだけなの」
ふふ、と控えめに笑う。だが、エマの尊敬の眼差しは、いっこうに収まる気配がない。
「……でも、皆様とたくさんお話ができたわ」
そう言って、リリアンナは満足そうに目を細める。
「そうですね……! でも」
うんうんと頷きかけて、エマは肩を落とした。
「朝からこんなに騒動ばっかりで……今日はいったい、どうしてしまったんでしょう……」
がっくりとうなだれるエマの隣で、リリアンナは、おかしそうに笑う。
屋敷の探検は、まだまだつづく。




