改稿中☆11 商会にて
※現在、改稿作業を進めています。
第1話から順番に、改稿版へ差し替えております。
差し替えが完了した話から、こちらの前書きは外していく予定です。
物語の大筋に変更はありませんが、細かな描写や内容については、改稿前と改稿後で異なる部分があります。
「きゃっ……!」
その拍子に、身を乗り出していたリリアンナの身体が、勢いよく前へ傾く。
ガレスはとっさに腕を伸ばした。
目に入ったその大きな腕が、リリアンナの記憶と重なった。
——伸びてくる手。
力任せに掴まれた腕は、どれだけもがいても振りほどけない。
『やだ……っ、はなして……!』
見下ろしてくるのは、欲に濁った瞳。
(怖い、怖い——怖い!)
強張ったまま動けないリリアンナの身体を、ガレスの腕がしっかりと抱きとめた。
けれど、リリアンナにはそれすら分からない。呼吸は浅くなり、指先から血の気が引いていく。
「——大丈夫ですか」
その声が、リリアンナを現在へと引き戻した。
おそるおそる見上げると、すぐそこにガレスの顔があった。
眉はきつく寄せられ、金色の瞳が、怪我はないかと確かめるようにこちらの顔をなぞっている。そこに浮かぶのは、ただ身を案じる色だけ。濁りなど、どこにもない。
自分を支える腕はたくましいのに、少しも痛くなかった。抱きとめた瞬間の力はもう抜け、壊れ物でも扱うように加減されている。
(……あのときとは、違う)
そう思った途端、強張っていた身体から力が抜けていった。
腕の中で、リリアンナはわずかに身を離した。するとガレスの視線が、彼女の左腕へと落ちる。
「左腕を、どこかにぶつけましたか」
「え……あ」
言われて視線を落とし、リリアンナは気づいた。右手が左腕の装飾具を固く握りしめている。無意識のうちに掴んでいたらしい。ガレスの目には、それがぶつけた腕を庇っているように見えたのだろう。
リリアンナは装飾具から手を離し、何事もなかったように微笑んだ。
「いいえ、大丈夫です。どこもぶつけておりませんわ」
そう言って、リリアンナは元の席へ座り直す。
ところが、ガレスは御者台側の小窓を開け放った。
「行き先を変えてください。医者へ向かいます」
「……え?」
冗談だろうか。リリアンナはガレスの顔をうかがったが、そこにあるのはどこまでも真剣な表情だった。
つい先ほど、馬車へ乗せたときの一件から、ガレスの中でリリアンナはすっかり『軽くて、か弱い生き物』になっていた。
(あれほど細い腕だ。今の揺れでぶつけたなら、折れていてもおかしくない)
ガレスは本気で、そう考えていたのだ。
「折れていないか、心配です。すぐに診てもらいましょう」
「お、折れ……!?」
思いもよらない言葉に、リリアンナは目を丸くした。
「本当に大丈夫です。ほら、このとおり動きますから」
リリアンナが左腕を軽く振ってみせると、ガレスはぎょっと目を見開いた。
「振らないでください……!」
とっさに伸びた大きな手が、彼女の腕に触れる寸前で止まる。
「骨は、折れていても動くことがあるんです。ですから、どうか安静に」
「ですが、本当にどこにもぶつけていないのです。痛みだって、少しも……」
「今は痛まなくても、後から腫れることもあります。……念のためです」
「念のため、とおっしゃいましても……辺境伯様、わたくし、本当に……!」
大真面目なガレスと、必死に首を横に振るリリアンナ。どちらも一歩も譲らない。
小窓の向こうでは、御者が困り果てたように眉を下げていた。
「あのう……どうしますか」
「医者へ行ってください」
「商会へ行ってください」
二人の声が、きれいに重なった。
◇◇◇
それから、しばらくして。
馬車が停まったのは、大通りに面した商会の前だった。
医者行きはどうにか回避された。リリアンナが言葉を尽くし、ガレスを説き伏せたのだ。
ガレスの手を借りて馬車を降りると、リリアンナは小さく息をついた。まだ商会に着いたばかりだというのに、その顔はひと仕事終えたあとのようにくたびれている。
御者台の御者が、そんなリリアンナを見送っていた。『お疲れさまでございました』と、その目がしみじみと語っている。
ガレスに続いて、リリアンナは重厚な石造りの商館へ足を踏み入れた。
中にいた商人たちは、ガレスの姿を認めた途端、慌ただしく動きはじめる。
奥から、商会の代表が足早に歩み寄ってきた。
「ヴァルグレイブ辺境伯様、ようこそお越しくださいました。本日は——」
朗らかな挨拶が途中で途切れた。代表の視線が、ガレスの隣に立つリリアンナに吸い寄せられたまま動かない。口を半ば開いたまま、すっかり見惚れている。
それに気づいたガレスが、すっとリリアンナの前へ割って入った。大きな背中がリリアンナの姿を覆い隠してしまう。
代表を見下ろす金色の眼光は、刃のように鋭い。
「ヒッ」
射すくめられた代表は、喉を鳴らして縮み上がった。
「し、失礼いたしました!」
慌てて頭を下げ、代表は背筋を正してガレスに向き直る。
「改めまして、辺境伯様。いつもご贔屓にしていただき、誠にありがとうございます」
「こちらこそ、いつも世話になっています。今日は、彼女が物資の確認を見学します。説明しながら、ゆっくり回らせてください」
「かしこまりました」
そう答えたあと、代表はわずかに視線を泳がせた。
「……それと、辺境伯様にひとつご報告がございまして。のちほど、ご相談させていただけますでしょうか」
「分かりました」
それから一行は、代表の案内で倉庫へ向かった。
重い扉の先には、天井近くまで積み上げられた木箱や樽が並んでいた。冷えた空気に、乾いた木と麻袋の匂いが混じっている。リリアンナは、その光景に目を奪われた。
「こちらが、今年お納めする燃料でございます」
代表が示した一角には、薪の束と炭俵が小屋ほどの高さまで積み上げられていた。
リリアンナは思わず、その頂を見上げる。
「すごい量……。これだけあれば、冬も越せそうですね」
「いえ。これだけでは冬は越せません」
ガレスは炭俵の山に目をやり、淡々と続けた。
「領地でも冬に向けて薪を蓄えますが、それだけでは足りないんです。その不足分を、こうして買い入れています」
そう言うと、ガレスは炭俵の口をほどいた。中から炭を一つ取り出し、指先で軽く割って断面を確かめる。
「炭はよく乾いていないと使い物になりません。湿っていると火がつきにくく、煙も多く出ます。冬は窓を閉め切りますから、煙がこもると身体に障るんです」
説明を聞きながら、リリアンナはガレスの手元を食い入るように見つめていた。
断面を確かめ終えたガレスが、小さく頷く。
「……いつもどおり、いい炭です」
「恐れ入ります」
代表が、ほっとしたように頭を下げた。
それから、ガレスと代表は帳面を突き合わせ、数と金額をひとつずつ確かめていった。
燃料の確認が済むと、次は保存食、その次は薬と、一行は順に倉庫の中を回っていく。どの区画でも、ガレスは同じように品を手に取り、その質を確かめていった。
リリアンナは、その後ろを興味深そうについて回った。樽の中をのぞき込み、見慣れない薬草の名を尋ね、ガレスや代表の答えに熱心に耳を傾ける。その足取りは終始軽やかだった。
そうして一行は倉庫の奥の一角に差しかかった。壁際の棚には、鎧や盾、槍が整然と並べられている。
そこで代表が足を止めた。
「……辺境伯様。先ほど申し上げた、ご報告の件なのですが」
代表は言いにくそうに一度口を閉ざし、それから意を決したように頭を下げた。
「実は、剣の納品数が……ご注文いただいた数の、半分ほどしかご用意できておりません」
「半分」
ガレスが繰り返す。
「仕入れ先からの納品が、大幅に遅れておりまして。ほかの商会にもあたってはみたのですが、どこも剣の在庫が少なく……申し訳ございません。まだ集めきれておりません」
代表の額には、うっすらと汗がにじんでいた。
ガレスは黙ったまま、剣が並ぶはずだった棚の空きを見つめた。
今は戦の気配こそないものの、武具が足りなければ、兵たちは満足な装備もないまま魔物の前に立つことになる。それは、そのまま領地の人間の命に関わることだ。
けれど、目の前の男が手を抜いたわけではないことも、ガレスにはよく分かっていた。
毎年、一度も期待を裏切らなかった商会だ。その代表がこれほど頭を下げているのなら、打てる手はすべて打ったのだろう。
ガレスは腕を組み、眉間に深い皺を刻んだまま、しばらく口を開かなかった。
重い沈黙のなか、リリアンナの視線が動いた。その目が、代表の抱えた管理表へ向けられる。
「あの……」
張りつめた空気をほどくような、柔らかな声だった。
「剣を仕入れている工房と、それぞれの納品数を見せていただけますか」
「は、はい。どうぞ」
代表が慌てて差し出した管理表を、リリアンナは両手で受け取った。細い指が紙をめくり、並んだ工房の名を一つずつ追っていく。
工房は、どれも王都の西にある同じ領地のものだった。
以前、父から聞いたことがある。あの地の工房は、どれも川に面して建てられていて、寒い年には川風で炉の温度が安定しないのだと。
今年は、例年にない冷え込みだった。納品が大きく遅れるほど、炉の火に苦労したのだろう。
リリアンナは管理表を閉じると、代表に向き直った。
「恐れ入りますが、王都周辺の地図をお借りできますか」
すぐに運ばれてきた地図が、木箱の上に広げられる。そこには、王都周辺に点在する工房の名と所在地も細かく記されていた。
「先ほどの工房は、どれも川沿いにあります。今年の冷え込みでは、炉の温度を保つのは難しかったはずです」
そう言って、指先を川から離れた場所へ移していく。
「ですが、こちらと、こちら……それから、こちらの工房。どれも個人の工房で、川風の当たらない場所にありますから、炉の温度も安定しているかと思います。この量でしたら、これらの工房にお願いすれば、不足分を補える可能性があるのではないでしょうか」
控えめに、けれどはっきりと、リリアンナはそう告げた。
代表が身を乗り出し、地図の上の工房を一つずつ確かめていく。
「たしかに……個人の工房なら、交渉次第ですぐに動いてもらえるかもしれません」
その横で、ガレスは言葉もなく立ち尽くしていた。
地図に置かれた細い指先と、穏やかなリリアンナの横顔とを何度も見比べる。迷いなく代わりの手を示してみせたその姿には、頼もしささえあった。
ガレスの中の『小さくて、か弱い生き物』とは、まるでかけ離れている。
「これなら、荷馬車の出立までに数を揃えられるかもしれません。——おい、すぐにこの工房へ使いを出してくれ!」
代表の声に、控えていた商人たちが慌ただしく駆け出していく。
「急な手配を、ありがとうございます」
ガレスが代表へ深く頭を下げると、代表はとんでもないと両手を振った。
「お礼を申し上げるのは、こちらのほうでございます」
張りつめていた空気が、ようやくほどけていく。
そこでリリアンナは、二人の視線が自分に集まっていることに気がついた。はっと我に返り、慌てて地図から手を引っ込める。
「も、申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました……」
「まさか! そんなことはございません。実に見事なご提案でした」
代表が勢いよく首を横に振る。ガレスも、リリアンナに向き直った。
「辺境を代表して、礼を言わせてください。……貴女がいてくれて、本当によかったです」
二人から続けざまに褒められて、リリアンナの頬がみるみる赤く染まっていく。
「そんな……わたくしは、ただ……」
小さな身体をさらに縮こまらせるリリアンナに、代表がにこやかに目を細めた。
「いやはや、奥ゆかしいうえに、これほど優秀でいらっしゃるとは。辺境伯様は素晴らしい奥方様をお迎えになりましたな」
ガレスとリリアンナは、同時に固まった。
仮の婚約者だとは言えない。けれど、そうですと頷くこともできない。
「……ええ、まあ」
「は、はい……その……」
二人の曖昧な返事が、倉庫の高い天井へ気まずく吸い込まれていった。




