第9話 平成元年、沈黙の断罪
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「あと十秒遅ければ、ドアを叩き壊すところだった」
「あ……?」
琴子の父親の赤ら顔を見据える。
「お前、自分の娘に何をしたか、分かってるのか?」
父親は一瞬怯んだが、酒の勢いで怒鳴り返す。
「あ? 関係ねえだろう! よその家の『しつけ』に口出すんじゃねえ!」
「しつけ? どう見ても、ただの家庭内暴力だろう」
「金も稼いでねえガキが! 生意気言ってんじゃねえ!」
父親がモワッと酒くさい息を吐き、拳を振り上げる。
素人丸出しの威嚇に、つい、笑いが漏れてしまう。
「いや、それスパルタンXかよ……」
「なに笑ってんだ!いいか、この家じゃ俺が食わせてやってるんだよ!」
「ふん。クソみたいな人間性でも、金を稼いでいれば全て許されるとか。 いかにも昭和のダメ人間だな」
問答も頃合い。さて、散歩に連れ出してやろう。
「お前でも理解できる『痛み』で、わからせてやる」
俺の踏み込みは、こいつの肉眼では捉えられない。
「ぐっ……!?」
鳩尾と喉仏に手刀を入れる。
男は崩れ落ちそうになるが、襟元を掴んで強引に引きずり出した。
「……無責任な母親はともかく、娘を怖がらせたくないからな。外に行くぞ」
居間にいた琴子は、震えながら畳に伏せていた。
怒鳴り散らして玄関へ向かった父の背中。また激しい怒号が響く――そう身構え、耳を塞ごうとした。
しかし、しばし、話し込む声。
(え……男の子の声?)
隣の席の彼の声と、わずかに重なる。
(ううん、そんなわけない……けど、誰?)
直後、扉が閉まる「バタン!」という音のあと、一切の音が消えた。
怒鳴り声も、言い争う声もない。ただ、夜の静寂だけが居間に流れ込んでくる。
「ねえ、お母さん。今の、お父さんの知り合いだったのかな?」
母が、皿を並べながら、無機質な声を出す。
「琴子、お父さんがいないうちにご飯食べちゃいなさい」
「……うん」
琴子は、そっと玄関を覗いた。
そこには、誰もいない扉があるだけ。父の姿も、来客の姿も、夜の闇に飲み込まれたように消えていた。
街灯の乏しい、人気のない公園。
「この後、犬の散歩があるんだ。 さっさと済ませるぞ」
(は、離せ……っ!)
琴子の父の声は、掠れていた。
「娘を殴るのをやめられないなら、二度と力が入らぬよう、処置すればいいわけだ」
俺は、素人親父に精密な殴打を浴びせ、手足の末梢神経の一部を潰す。
日常生活に支障はないだろうが、今後、小学生程度の筋力しか出せない。
「恫喝をやめられないなら、でかい声を出せなくしておけば問題ない」
ミリ単位の指突を浴びせ、声帯を麻痺させる。今後、リハビリなしでは掠れた声しか出せなくなる。
最後は、みっちりと心を折る処置をこなす。
(……そういや、こっちの世界で、『予防処罰』を下すのは初めてだな)
皮膚に傷は残さない。神経と筋肉、骨の髄に激痛の雨を降らせていく。
鈍く重い音が、俺と男の耳に響く。
奴は叫び続けるが、潰された喉からは乾ききった極小の悲鳴が繰り返されるだけだった。
「……お前が今日壊したのは、ただの紙じゃない。あいつがやっと手に入れた『自信』だ。だから、俺はお前の『しょうもない自信』を一滴残らず取り上げる」
一時間ほど経った頃だろうか。
玄関の扉が、弱々しく開いた。
「お、お父さん……?」
琴子が見たのは、幽霊のように青白い顔をした父の姿だった。
ガタガタと全身を震わせ、脂汗を流している。その瞳には、先ほどまでの傲慢さは微塵もなかった。
鉄男はフラフラと居間に辿り着くなり、琴子の前に崩れ落ちた。
「すまない……ゆるしてくれ……すまない……」
聞こえるか聞こえないかの細い声で、念仏のように謝罪を繰り返す。
「ど……どうした……の」
「どうもしない……謝らないと……謝らないと死ぬ……もう二度としないから……」
鉄男は震える手で、自分が引き裂いたノートの破片を拾い集め始めた。
「お、お父さん、どうしたんですか?そんな」
母も驚いて駆け寄るが、鉄男は耳に貸さない。
(これは直さないと……完璧に直さないと、あいつが来る……)
根源に刻みつけられた、激痛と恐怖。
(逃げられない……聞かれてる……見られてる)
鉄男は泣きそうな顔で、セロハンテープを手に取り、一画一画を繋ぎ合わせる作業に没頭し始めた。一ミリのズレも許されないと言わんばかりの、強迫観念に満ちた手つき。
その様子を、琴子は呆然と見つめていた。
背を丸めて、必死にノートを修復する父の姿は、滑稽で、哀れで……そして、怖くはなかった。
あんなに震えていた琴子の指先は、今はもう止まっている。
(……なんで、こんな人を恐れていたんだろう……)
学校で慎太が言っていた言葉を、ふと、思い出す。
『お前の親父ってさ。平和な日本の一般人だろ? どこに怖さを見つけるんだ?』
(そうだね、どこも怖くない……)
翌日。
授業中も、休み時間も、琴子の視線は無意識に、隣の席を向いていた。
「……ん、俺のノート見たいのか? 覗き見しないでも、見せてやるぞ」
「ち、違うから! カンニングはもうしないし!」
「ははっ、そりゃよかった」
慎太が軽く微笑む。
ドキリとした。
(な、なに……)
彼の静かな眼差しが、その姿勢の良さが、今は何よりも大きく、そして遠い存在に見えた。




