第8話 平成元年、恐怖の家庭
「あのさ、ありがとう。……私も、できそうな気がしてきた」
亀井琴子は、小さく微笑んだ。
「ああ、お安いご用だ。どうせ、小学生は基本、暇だからな」
「あはは、まるでオジサンみたい。……一緒に帰る?」
「いや、俺は軽く筋トレして、走って帰るから」
「……そう、じゃあ、またね」
「ん、そうだ。 だいぶ上達したとはいえ、まだ、親や教師には見せるなよ」
「え……?なんで?」
一瞬、(お前の自信の芽を潰す奴らだからだ)と言いかけたが、踏みとどまる。
「ああ、もっと上手くなってから、鼻をあかしてやった方が面白いだろ?」
「あははっ。 あんた、本当に性格悪いわね。またね!」
琴子は笑いながら、ノートを抱えて図書室を出ていった。
俺は、その背中を見送る。
さて、俺自身のトレーニングの時間だ。
空は、早くも暗くなり始めていた。
昭和が終わりを告げ、平成という新しい時代の幕が開けても、この家の空気は澱んだままだった。
亀井家の居間には、安物のウイスキーと、湿った畳の匂いが充満している。
ブラウン管のテレビが、巨人戦中継を垂れ流していた。
「……あ、あの。お父さん」
琴子が、震える手で一冊のノートを差し出した。
父親の鉄男は、顔を赤くして座椅子にふんぞり返っている。今日はパチンコで勝ったらしく、機嫌よく酒を煽っていた。だからこそ、琴子も勇気を出したのだ。
「これ、今日……学校で、書いたの。漢字、パズルみたいに書いたら、私でも、はみ出さないで書けたから……」
差し出されたノートには、慎太に教わった通り、ぎこちないながらも一画一画が自立した『左』と『右』の文字が並んでいた。彼女なりに、必死に「正しさ」を求めた証拠。
鉄男は、ひったくるようにノートを奪った。
数秒の沈黙。
期待に胸を膨らませる琴子の横で、台所の母親は、鍋の蓋を見つめたまま、置物のようになっている。
「……なんだ、これは」
鉄男の声の温度が、一気に氷点下まで落ちた。
「幼稚園児みたいな字を書きやがって! ふざけてるのか、お前は!」
「……えっ?」
「こんな、やる気のない字を見せつけて、親を馬鹿にしてるのか!」
鉄男は、琴子が懸命に埋めたページを、躊躇なく引き裂いた。
ビリッ、という乾いた音が、琴子の心を切り裂くように響く。
「お父さん、やめて! せっかく教えてもらったのに……っ!」
「俺のセリフだ! せっかくいい気分で酒飲んでたところを……台無しだ!」
鉄男の重い掌が、琴子の頬を弾いた。
畳に倒れ込む琴子。
散らばったノートの破片に、彼女の涙が落ちる。
母親は、見て見ぬふりをして、換気扇の音に紛れるように溜息を吐くだけだった。
「ひっ、ううぅ……っ」
「泣けば済むと思ってるのか! おい、立て! もう一回叩き込んでやる!」
その時だった。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
玄関のチャイムが、狂ったような勢いで連打された。
「んだよ、こんな時間に……!」
無視しようとするが、連打はやまない。
十回、二十回。
異常に執拗な連打。
「おい、こんな時間に何だ! 静かにしろ!」
鉄男の怒鳴り声も虚しく、チャイムは鳴り続ける。
ついに堪忍袋の緒が切れた。
「どこのバカだ! ぶっ殺してやる!」
酒の勢いに任せ、荒々しく玄関へ向かった。
琴子は床に伏せたまま、絶望の中でその背中を見送る。
さらに大きな怒鳴り声が聞こえる気がして、琴子は身を縮めた。
バタン! と勢いよく扉が開けられる。
「うるっせえんだよ!いい加減に――」
鉄男の罵声が、不自然に途絶えた。
玄関先に立っていたのは、一人の少年だった。
夜の闇を背負って立つ、小学生ほどの男子。
彼は、怒鳴る鉄男を見上げることもせず、ただ静かに、そこにあった。
「……あ?」
鉄男は、毒気を抜かれたように言葉を失う。
目の前のガキから、まるで巨大な肉食獣の前に放り出されたような、背筋が凍りつく圧力が立ち昇っていることに気づいたからだ。
「……なんだ、お前。どこのガキだ」
慎太は、ゆっくりと顔を上げた。
「あと十秒遅ければ、ドアを叩き壊すところだった」
その声は、低く、どこまでも平坦だった。
「……『馬鹿親への教育』をしにきた」
一歩。
慎太が、土足のまま玄関のたたきに足を踏み入れた。
その瞬間、鉄男の酔いは、恐怖という名の劇薬によって跡形もなく消え去った。




