第7話 平成元年、図書室の秘密授業
「……ね、まただよ。亀井さん、急に怒るよね」
「関わらないのが一番だって。慎太くんまで、なんであんなのと」
教室の隅で、湿った陰口が跳ねる。あんなの。その四文字が、この狭い教室における彼女の――亀井琴子の背中に貼られたレッテルだった。
「……慎太くん、大丈夫だった?」
不意に視界が暗くなった。学級委員の佐々木真佐奈が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
いかにも「正しい側」にいる人間の、無意識な優越感を含んだ眼差し。以前の俺なら、その「正しさ」を疑わず、亀井みたいな人間には近づかなかっただろう。
「……別に」
吐き捨てるように言って、俺は机に散らばったペンを筆箱に突っ込んだ。
「あ、待ってよ。次のテスト、ノート貸そうか? まとめ直したばかりで……」
「いらない。予定あるから」
引き止める声を背中で聞き流し、教室を出る。廊下には、夕方に特有の、埃とワックスが混じったような妙な匂いが淀んでいた。
図書室の重い扉を引くと、一番奥、西日が刺す窓際に彼女の背中が見えた。
「……ほんとに来た。暇なの?」
「約束だろ。やるぞ」
「やだって言ってるでしょ! 漢字なんて、見てるだけで虫が這ってるみたいで気持ち悪いの。どうせ私は、まともじゃないんだから」
亀井が机に突っ伏した拍子に、一冊のノートが滑り落ちた。
拾い上げて、指先が止まる。
そこには、文字と呼ぶにはあまりに無残な、のたうつような黒い塊が並んでいた。何度も消して、また書いて。紙の繊維が毛羽立ち、あちこちに穴が開きかけている。
『左』という字。斜めの線がどこまでも伸び、下の「工」が迷子のように端に寄っている。それはサボった証拠じゃない。彼女の目には、世界がこんな風に、ひどく頼りなく歪んで映っているのだと思い知らされる。
「お前、これ……律儀に書こうとしすぎなんだよ」
俺は向かいの席に腰を下ろし、彼女の手から鉛筆を奪った。
「なによ……取らないでよ」
「文字だと思うから嫌になるんだ。これ、ただの棒の組み合わせだろ」
白紙のページに、大きく『左』と『右』を「置いていく」ように書いた。
横に一本。斜めに一本。
下のパーツを、あえて少し離して置く。
「一気に繋げようとするな。まずはこの横棒だけ。次にこの斜め。……ほら、隙間を空けて置いてみろ。最後にパズルみたいに寄せるだけでいい」
「…………あ」
亀井が、ノートを覗き込んだ。指先が、俺が書いた「図」の上を、なぞるように動く。
「……はみ出さない。これなら、どこに線を引けばいいか、わかる……」
その声は、消え入りそうなほど震えていた。
「お前の頭が悪いわけじゃない。ただ、見え方の癖が人より強いだけだ。教科書通りの書き方が、お前に合ってないだけなんだよ」
その言葉に、亀井がビクリと肩を揺らした。
彼女は咄嗟に右腕を引いたが、まくり上がった袖口から、見てはいけないものが見えた。
白すぎる肌に、不自然に浮き出たどす黒い痣。
それまで噛み付くように鋭かった彼女の瞳が、一瞬で、今にも壊れそうな子どものものに変わる。
「……本当に、私でも……点数、取れる? 怒られないで、済むかな」
縋るような、けれど裏切られる準備をもう済ませてしまっているような、哀れな瞳だった。
「できる。カンニングなんて、もう二度としなくていい」
俺が少しだけ口元を緩めると、彼女は呆気に取られたように数秒固まり、それから耳まで真っ赤にして怒鳴った。
「……わ、わかったわよ! やればいいんでしょ! ……もし嘘だったら、あんたが私の胸を触ろうとしたって、みんなに言いふらしてやるから!」
「ガキに興味はねえよ。だいたい、胸もないくせに笑わせる」
「なによ、あんたもガキじゃない!この根暗!」
「……いいから、まずはこのページを『パズル』で埋めろ。指が慣れるまでだ」
「……鬼。あんた、絶対性格悪いわよ」
悪態をつきながらも、彼女は鉛筆を握り直した。
集中すると、下唇をぎゅっと噛む。
その横顔を照らす西日が、少しずつ落ちていく。
彼女が鉛筆を走らせる、紙を削るような音を聞きながら、俺は次の手を考えていた。
勉強の教え方は、いくらでも工夫できる。
けれど、その服の下に隠された「暴力の理由」までは、ノートの取り方ひとつじゃ解決できない。
彼女の腕にその色を刻んだ奴。
そいつには、文字の書き方よりも、もっと簡単で、もっと消えない痛みを叩き込んでやる。




