第6話 平成元年、カンニング少女の脅しと代償
「……ねえ、慎太くん。気づいてた?」
首をかしげて笑う亀井琴子の瞳は、不自然に真っ直ぐだった。自分を誠実に見せようとする――ガキなりの覚悟。
「ああ、丸見えだ。というかお前、その字、『右』と『左』が逆だぞ。鏡文字になってる」
「えっ? うそ、どこ?」
慌てて答案を隠そうとした彼女の袖口から、ドス黒い指の痕が覗いた。
それを見た瞬間、俺の中の『前世』が答えを弾き出す。家庭内暴力。当時はまだ概念すら希薄だった学習障害。
平成初期、この国において勉強が極端にできないことは「脳の個性」ではなく、単なる「怠慢」でしかなかった。家では殴られ、学校では教師から気合が足りないと罵られることすらあった。
「先生には言わないで。言ったら私、お父さんに殺されちゃう」
へらりと笑う彼女の口から漏れたのは、冗談の皮を被った悲鳴だった。
だが、俺の沈黙をどう解釈したのか、彼女は一転して冷ややかな笑みを浮かべ、俺の耳元で毒を吐く。
「ねえ、黙っててよ。もしバラしたら……真太くんに無理やりエッチなことされそうになったって、言いふらすから。うちのお父さん、本気で怒鳴り込んでくるよ?」
普通の小五なら、ここで真っ青になるか泣き出すんだろう。
だが、あいにく俺の精神は、これ以上に薄汚い修羅場をいくつも通り抜けてきた。
「……ははっ、はははは!」
「な、なによ……っ」
笑い飛ばされた亀井の顔が引きつる。
俺は彼女の机に体重をかけ、その逃げ場を塞ぐように顔を寄せた。
「いいか、亀井。その脅しは通用しない。いつも点の低いお前と俺。教師も周りも、どちらを信じるか」
「そ、れは……」
「それに、お前の親父ってさ。平和な日本の一般人だろ? どこに怖さを見つけるんだ?」
都筑を黙らせた時と同じ、冷えた殺気を一点に絞ってぶつける。
亀井の顔から一気に血の気が引いた。本能が「食われる」と察知した、小動物の目だ。
「……あ、……」
「お前の嘘なんて、無意味だ。……だが、そうだな。一つ提案がある」
俺は彼女からノートを奪い取り、鉛筆を走らせた。
漢字を記号として詰め込むのではなく、部首の成り立ちを分解し、一つの「絵」や「物語」として再構成する、特殊な解法。文字がただの線の塊にしか見えない彼女の脳に、楔を打ち込むための書き方だ。
「……なにこれ。……読める。形が、バラバラにならない……」
「俺がお前を『優等生』にしてやる。そうなれば、家で殴られる口実も減るだろ」
「……え?」
「カンニングなんて二度とさせるか。……今日から徹底的に叩き込んでやるよ」
不敵に笑ってやると、亀井は、そのぱっちりとした目を見開き、耳まで真っ赤にして俯いた。
「な、……やだよ、偉そうに! わけわかんない!」
「わけなんてなくていい。……放課後、図書室だ。逃げたらこっちからお前の家に『挨拶』に行くからな」
「…………っ、わかったわよ! 行けばいいんでしょ!」
教室を飛び出していく彼女の背中を見送る。
その足取りは、先ほどまでの死に体のような重さではなく、どこか縋るような、依存の色を帯びていた。
前世、学生時代は平穏に生きた。
ひたすら目立たず過ごし、面倒な人間には近寄らなかった。
だが、今回は――
隣に座る爆弾娘。その親父くらいは片付けるか。




