第31話 平成元年、靴箱の手紙
放課後を告げるチャイムが響く。
下館亜里は、佐々木真佐奈が教科書を片付ける手元をじっと見つめていた。
真佐奈の手は、同じ五年生とは思えないくらい、お姉さんみたいに大人っぽい。すうっと伸びた綺麗な指。
それに比べて、自分の机の上にある手は、まだ全体的にまあるくて、指も短くて子供っぽい。
真佐奈が教科書の角を優しくトントンと揃えて、こちらを向いてふんわりと笑う。
「亜里、また明日ね」
「真佐奈は帰らないの?」
「今日は、図書室で慎太くんと琴子ちゃんと、字の練習をしていく日なの」
「え……?」
ぶっきらぼうな慎太と、ちょっと一匹狼な琴子。
「そうなんだ……。珍しいね、真佐奈が男子と放課後会うなんて。しかも、慎太くんと?」
「う、ううん! そんなんじゃないのよ!」
真佐奈は頬を赤く染めて、両手を振った。
「本当に、勉強のためだから……。琴子ちゃん、その、字が苦手だから。慎太くんの教え方が上手でね。私も、その教え方を覚えたくて……本当に、それだけなの」
「ふーん……」
ちょっとだけ胸の奥がチクリとした。
「わかった。じゃあ、がんばって」
「うん、ごめんね、亜里。またね」
真佐奈はランドセルを背負うと、スカートの裾を踊らせる軽い足取りで、図書室へ向かっていった。
その後ろ姿は、ただの勉強会に行くようには見えず、なんだか、すごく嬉しそうだ。
(……真佐奈、男子には見向きもしなかったのに)
亜里はひとつ、ため息をついた。
(慎太くん、悪い印象はないけど……。いつも無愛想で、ちょっと怖い気もするし……。優しくて綺麗な真佐奈には、もっといい人がお似合いなのにな……)
そこまで考えて、亜里の脳裏に、ある一人の顔がふっと浮かび上がった。
(……矢田沢先生)
優しくて、背が高くて、大人で。
笑顔を絶やさない、教育実習生。
あの日、担任の大山先生に呼び出されたことを思い出す。
『下館さん。矢田沢先生はね、これからたくさん勉強をしなければいけない時期なの。だから、実習期間が終わるまで、もう子どもたちと会えなくなりました』
『え? なんで、急に……?』
『矢田沢先生は、みんなと……仲良くしすぎちゃって、その分、これからは反省して、がんばらないといけないのです。わかる?』
(……私が、先生先生って、休み時間も放課後も、ずっとくっつきすぎたせいだ。真佐奈も注意してくれたのに、私が聞かなかったせいで、先生、怒られたんだ……)
苦い記憶。
(優しくたって、大人の男の人に、くっついちゃいけないなんて知らなかった)
先生に説得されたし、みんなにも言われた。クラスで流行っていた漫画にも、そう載っていた。
矢田沢先生は絶対に悪い人じゃないけど……。
でも、自分がしたことはルール違反なんだって、頭が冷えたら理解できた。
なんで、あんなことしちゃってたんだろう……。
恥ずかしさを振り払うように、足早に教室を後にする。
五年三組の靴箱の前に立つ。
「はぁ……」
もう一度ため息をつきながら、靴箱に手を入れた。
指先に、紙の感触。
「あれ?」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
(まさか……誰から!?)
指を少し震わせながら、引っ張り出す。
そこには、鉛筆ではなく、黒いボールペンで文字が書かれていた。
『下館さんへ。お家で開けてください』
右上がりの、少し尖った、大人の字。
クラスの男子が書くような汚い字でもなければ、女子が流行らせている丸文字でもない。
(この字……矢田沢先生……)
頭が熱くなり、耳の奥でドクドクと血の巡る音が聞こえた。
「亜里ー! どうしたのー?」
「一緒に帰ろー」
不意に、背後から賑やかな声が降ってきた。
同じクラスの女子たちが昇降口に下りてくる。
「あ……!」
慌てて手紙を手提げ袋へと押し込む。
「う、ううん! なんでもない!ごめん、私、走って帰らなきゃ」
靴を履き、駆け出す。
早く手紙を読みたい。
今は、それだけだった。




