第3話 平成元年、もみじ体罰をやり返す
「おい、福島。無視すんなって。お前、マジで殴るぞ?」
「……」
「なんだよ、シカトかよ! ゲームボーイやらせてくれよ!」
「……っ、今、授業中だから。……後で、放課後、三角公園で……」
「はぁ? 聞こえねえよ!」
平和なはずの教室を切り裂いたのは、チョークが黒板を削る乾いた音でも、ましてやガキどもの安っぽい怒鳴り声でもなかった。
「……そこ、五人。前に出な」
粘りつくような、湿った声。
大山滝子。通称「大山ババア」。
その声が耳に届いた瞬間、教室の湿度が数パーセント上がったような気がした。
教卓の前に並ばされたのは、いつもの救いようのない悪ガキ四人と、運悪く彼らに捕まった小動物のような福島だった。
福島の顔色は、もはや土気色を通り越して、バケツの中で腐りかけた粘土のような色をしている。ガチガチと鳴る奥歯の音が、ここからでも聞こえてきそうだ。
「先生、一回目は口頭で許すけど、二回目は『もみじ』だって。そう約束したよな?」
大山は、獲物をじっくりと観察するように目を細めると、ゆっくりと袖を捲り上げた。
醜く贅肉のついた二の腕が、教室の安っぽい蛍光灯に照らされて、白く、ぬらりと光る。その光景は、どこか生理的な嫌悪感を呼び起こした。
俺は、机のささくれだった端を爪で執拗になぞりながら、その光景を冷めた目で眺めていた。
かつて平成の世で社畜として魂を削り、挙句の果てに異界の戦場で泥と血を啜ったこの身にとって、この教室はあまりに狭く、そして酷く臭う。
汗の酸っぱい臭い、古い木製机の油、チョークの粉。そして何より、子供たちが無意識に放つ「排泄に近い、恐怖」が充満している。
大山という女は、断じて教育者などではない。
あれは、自身の肥大化した支配欲を「指導」というオブラートで包み隠した、ただの空腹な獣だ。
「ほら、背中を出しな。……楽しい『もみじ』の時間だ」
大山の理屈では、手のひらで背中を叩いた跡が五本指の形に赤く染まるから「もみじ」なのだという。狂気の沙汰だ。
男子たちは震える手で、汗ばんだシャツを捲り上げる。
節くれ立った未熟な背骨、浮き出た肋骨。暴力に対してあまりに無防備な、剥き出しの皮膚が晒される。
「綺麗に紅葉の形がつかなかったら、やり直しだから。動くなよ」
大山が、最初の標的である福島の背後で、その肉厚な右手をゆっくりと、儀式のように高く掲げた。
彼女の瞳は愉悦を隠さない。
(……反吐が出るな。どいつもこいつも)
俺は、組んでいた脚を解くこともなく、机の下で右手の親指を中指に掛けた。
「指弾」。
異界で、騎士の首を紙細工みたいに飛ばしてきた不可視の弾丸。
それを、殺さぬ程度に加減し――だが、人間が一番嫌がる場所へと照準を合わせる。
「歯を食いしばれッ!」
大山の丸太のような腕が振り下ろされる。
その瞬間、俺は「弾いた」。
一発目は、右肘の神経が集中する一点。
二発目は、踏み込んだ左足の、膝裏にある急所。
三発目は、顔に張り付いた分厚い眼鏡のフレーム。
「いッ、あ、がふっ!?」
空気を叩くはずだった大山の身体が、空中であり得ない方向に「くの字」に折れ曲がった。
勢いよく振り上げた腕は、自身の制御を失って自分の後頭部を強打。軸足を失ったその巨体は、まるで肥ったカエルのような、ベチャッとした鈍い音を立てて床に叩きつけられた。
弾け飛んだ眼鏡が、福島の足元で「カラン……」と、間の抜けた音を立てて転がった。
「あ、あ、あああ……う、ううっ!」
大山は床に這いつくばったまま、喉の奥をヒキガエルのように鳴らしている。
俺はさらに追い打ちをかけるように、彼女の三半規管をかすめる程度の微弱な衝撃を、断続的に叩き込んだ。
彼女の視界は今、教室が時計回りに猛スピードで回転し、足元の床が底なしのヘドロ沼のように沈み込んでいく、地獄のような感覚に包まれているはずだ。
「え、先生……?」
「どうしたの? 急に踊ったみたいに倒れた……」
顔面を床にこすりつけ、鼻水と脂汗を垂らしながら、大山は意味不明な呻き声を漏らしている。
暴力を振るう側という人種は、自分が「不可解な暴力」に晒される可能性を、これっぽっちも想定していない。だからこそ、その崩壊は無様で、滑稽だ。
(人を痛めつける重さを、ちゃんと考え直すことだな)
誰かが慌てて職員室へ走る。
静まり返っていた教室は、次の瞬間、残酷なほど無邪気な、弱者が強者を嘲笑う、祭りみたいな空気に変わった。
「ぎゃははは! 大山のババア、自分でお手玉して転んでやんの!」
「バチが当たったんだ! そのまま消えちまえ!」
福島だけが、その喧騒から取り残されたように、呆然と自分の白く細い手のひらを見つめていた。
叩かれなかった自分の幸運を信じられないのか、それとも目の前の絶対的な怪物が崩壊したことに怯えているのか。
俺はゆっくりと席を立ち、震えが止まらない福島の肩に、無造作に手を置いた。
「行こうぜ。授業、実質終わりだろう」
「あ……う、うん」
福島がこちらを向いた。
そして、照れくさそうに笑う。
そうだ、こいつは気弱だが、優しいやつだったんだよな。
俺の記憶の中の福島は、この後、中学に進学してから別の「捕食者」に心を折られ、自室の暗闇に逃げ込んで二度と出てこないはずだった。
だが、今、俺の手の下にある彼の肩は、小刻みに震えながらも、確かに熱を持っている。
(書き換えてやるか)
俺は誰にも見えないように少しだけ口角を上げ、歪んだ笑みを浮かべた。




