第2話 昭和末、剣道の稽古。竹刀で殴る上級生を叩き返す
「ぐうっ……!」
重い一撃が、俺の脳天を叩いた。
ズゥンと脳の真ん中に響く衝撃。
喧嘩ではない。
剣道の稽古だ。
目の前には、中三の内岡が立っている。小四の俺との体格差は歴然。
奴の面金の奥にある目は、稽古の熱量ではなく、弱者を一方的に追い詰め、その反応を愛でる「加虐」の光で濁っていた。
こいつだけは、面も胴も小手も。防具の柔らかい部分や、ない部分を狙ってくる。
俺は竹刀を構え直し、内岡の胴へ飛び込んだ。小さな身体の全重を乗せた一撃。だが、奴はそれを軽く払い除けると、がら空きになった俺の脇へ一撃。そこに、防具はない。
「痛いっ……!」
逃げ場はない。教育でも稽古でもない。ただの、快楽。
それを眺めながら、大人たちは茶を啜り、「根性がつく」と目を細めている。
昭和六十三年頃だった。
小学校の体育館という場所は、どうしてあんなに、死んだ生き物の腹の中のような匂いがするのだろう。
窓にへばりついた羽虫の死骸。剥げかけた床のワックス。水銀灯がジジッ、と爆ぜるたび、湿った埃が肺の奥でチリチリと焼ける。
昭和から平成にかけて、日本で二十八年。異界で二十年。
気づけば、俺は竹刀袋を抱えて、あの錆びた鉄扉の前に立っていた。
昭和。湿度。内岡。
「……慎太! ぼーっとするな! さっさと内岡に付けと言ってるんだ!」
怒声。
面を着け、内岡の前に立つ。
奴は、記憶の中と同じく、口角を歪めた。
俺の中の二十年分の騎士の血が、音もなく沸騰した。
「お願いします」
内岡が、快楽のためだけの暴力的な面を振り下ろす。
止まって見えた。
俺は最小限の動作で、その軌道を撫でるように、外へ逃がす。
――澄んだ音が体育館に響く。
「……あ?」
内岡の声が裏返る。
俺の竹刀は、内岡の右小手の、ちょうど骨と関節が噛み合う「一番痛い」一点を、精密に捉えていた。
折る。
心も、体も。
一本、などという綺麗なものじゃない。
一度。二度。三度。
内岡が竹刀を落とすのを許さない。握らせたまま、執拗に骨の継ぎ目を叩き潰す。
痛みのあとから、恐怖が追いついてくる。
終わらせない。
内岡の目が、かつての俺と同じように、行き場を失って泳ぎ始めた。
「内岡さん、どうしました。まだ稽古ですよ」
俺の声は、自分でも気味が悪いほど、平坦で、乾いていた。
面を打つ。脳が揺れ、視界が爆ぜる角度で。
小手を打つ。ミミズ腫れが一生、神経を苛むような深さで。
大人たちが異変に気づき、腰を浮かす。だが、俺は止まらない。
内岡が、床に這いつくばった。
股の間から、情けない温かさが広がる。あの「王」が、幼児のように顔をぐしゃぐしゃにして、言葉にならない声を上げている。
ざまあみろ、とは一ミリも思わなかった。
ただ、胸の奥の澱みが、古い排水溝に吸い込まれていくような、静かな、冷たい虚無感だけがあった。
「……やめます。もう、いい」
俺は竹刀を捨てた。
「何をしたんだ!」
「内岡に謝れッ!」
大人たちの怒鳴り声。
俺は、それを吐き捨てるように遮った。
「見てたんだろ、ずっと。……あんたらが、これを『稽古』だって言ったんだ」
「な……ッ!」
「なんて口を――」
非を認めない、鈍感で無責任な大人たち。
俺は、あの地獄で培った「本物の」殺気を一当てした。
それだけで、大人たちの膝が折れた。ふらりと腰を落とし、一人は白目を剥いて転がった。
子供たちのどよめきも、内岡の泣き声も、もう遠い国の出来事。
体育館を出ると、夜風が吹いた。
湿り気を帯びた、どこまでも泥臭い、昭和の夜の風だ。
俺は、自分の手がまだ小さく、そして酷く震えているのを見つめた。
まだ、体が追いついてこないか。
やり返したところで、世界が好転するわけでもない。
それでも、これでいい。
俺はただ、それで。




