第29話 平成元年、余りもの同士
湿った空気が、体育館にこもっていた。激しい雨が屋根を叩いている。
「雨でプールは中止になったから、今日は補強運動ねー。はい、二人一組になれー!」
担任のホイッスルが鋭く響いた瞬間、体育館シューズが一斉に床を鳴らした。
仲のいい子たちが、互いに視線を交わして駆け寄っていく。
一人の男子が慎太の肩を叩く。
「慎太、また最後まで待つの?」
「あー、悪りぃ。お前が最後までペア見つからなかったら組んでくれ」
「おう、そしたら頼むわ。つーかお前、いっつも福島か先生とばかり組んでるな」
男子の輪からポツンと外れ、体育館の壁に背中を預けているのは、気弱で大人しい福島。
誰も声をかけないのを確認してから、慎太はゆっくりと歩み寄る。
「福島、組もうぜ」
「……あ、慎太くん。いつも、ごめん」
福島は申し訳なさそうに、小さく肩をすぼめた。
「俺も余りだからさ、ちょうどいいんだよ。ほら、柔軟やるぞ」
(……やっぱり、わざと待ってたんだ)
少し離れたところで柔軟体操をしていた佐々木真佐奈は、慎太の動きをじっと見つめていた。
彼はいつも、最後まで残った子のところへ歩いていく。
(……いいなぁ)
真佐奈の唇が、わずかに動く。
周囲を見回すと、女子たちの間では、すでにペアができあがっている。
ここしばらくの体育では、真佐奈は亀井琴子と組んでいた。だが、琴子はプール予定日は学校を休む。
(今日は、私も最後まで待ってみよう)
ぽつんと取り残されている少女の姿が、真佐奈の目に留まった。
下館亜里。
以前であれば、女子たちが真っ先に「亜里ちゃん、組もう!」と群がっていたはずだった。
しかし、最近は、亜里の姿を視界の端に入れながらも、互いの顔を見合ってそそくさと背を向けていく。
亜里の指先が、体操着の裾をぎゅっと握りしめていた。
「亜里」
名前を呼ぶ声に、亜里の肩がビクッと跳ねた。
真佐奈がすぐ目の前に立って、小さく手を振っている。飾らない笑顔。
「私とペアになろう」
亜里は息を呑んだ。瞳が揺れる。
「え……真佐奈……? 私で……いいの?」
「もちろんよ。……私も余りだもの」
真佐奈は首を傾げ、微笑んだ。
不思議そうな顔をする亜里。
分け隔てなく接する真佐奈は、女子からも人気が高い。なぜ、今日に限って残っていたのだろう。
亜里の声が、裏返る。
「ありがとう、真佐奈……」
二人は床に背中合わせで座り、腕を組んだ。「せーの」で互いの背中を押し合う。
真佐奈の背中に、亜里の小さな温かさと、微かな震えが伝わってきた。
交互に馬跳びをしながら、息を切らすうちに、いつの間にか二人の距離は縮まっていく。
「……真佐奈」
着地した亜里が、弾んだ息のまま、目を伏せた。
「……私、前にひどいこと言っちゃって。本当に、ごめんなさい」
体育館の喧騒の中でも、その声はたしかに届いた。
真佐奈は動きを止め、汗を拭いながら亜里を見る。
「……いいのよ、もう」
柔らかく微笑む。
「私も、嫌な言い方になってたし。……でも、謝ってくれて、ありがとう」
「……うん」
亜里の顔に、微かな笑顔が戻った。
カーテンを閉め切った会議室。
パイプ椅子に深く腰掛けた矢田沢の前に、教頭が書類を突きつける。
「いいな。教育実習最終日は今週の土曜日だ。その日も夜まで、この会議室で自習してもらう。……当然、単位はやれんがね。今回の件は、あくまで遅刻などの『素行不良』にとどめ、事実は大学側には伏せておいてやる。それが学校としての温情だ」
「はい……ありがとうございます……」
矢田沢は頭を深く下げた。
「反省文も、読んだが上っ面だけだ……」
教頭は吐き捨てるように言い、心底軽蔑しきった目で矢田沢を見下ろした。
「とんでもないクズが、紛れ込んできたもんだな……」
扉が閉まり、教頭の足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。
完全に消えたのを確認すると、矢田沢は無言で足元の鞄を開いた。
教科書の隙間から引っ張り出したのは、小型双眼鏡。
音を立てないよう、窓際へと歩み寄る。
カーテンの隙間に指をかけ、外の光を室内に引き入れた。
双眼鏡のレンズを覗き込み、ピントを合わせる。
視界に広がるのは、緑の網フェンスに囲まれた屋外プール。だが、そこには雨粒が波紋を広げているだけだった。
「ちっ、今日はプール休みか……」
矢田沢は忌々しげに舌打ちをした。
自分が担当していた五年三組は、粒揃いだった。
双眼鏡のレンズの向こうに、少女たちの姿を思い浮かべる。
大人びた美貌の佐々木真佐奈。
色白で大きな瞳が印象的な亀井琴子。
そして、自分への愛情表現を隠さない、小柄で愛らしい下館亜里。
(どうせ単位もらえないなら、少しくらい役得あっていいだろうに)
雨が降り注ぐプールを一瞥し、矢田沢はカーテンを閉めた。
(亜里のやつに……少し、念を押しておくか)




