第28話 平成元年、交換ノートの波紋
窓から生ぬるい風が吹き込む、五年三組の教室。
男子の一人が木製のほうきを振り回していた。
「これ、近鉄ブライアント!」
大股でバッティングの構え。
「――フルスイング!」
ブゥンッ!と激しい風切り音が教室に響く。
勢い余って上体をぐるりと一回転させ、ほうきを持ったまま派手に床へ転がった。
ヘルメット代わりに被っていた、黄色い帽子が遅れて床に落ちる。
「わははは!似てる!」
「三振かホームランだもんな!」
騒がしい男子たちをよそに、女子たちは机を寄せ合い、グループ毎に集まっていた。
交換ノートを広げ、話に花を咲かせている。
「プロでしょ、この絵!こんなの書ける人、クラスにいた?」
「王子様、格好いいよね」
「でもさ、ラストがちょっと怖いっていうか……」
琴子の描いた王子様に目を輝かせ、同時に、大人の悪意を描いたホラー演出が、彼女たちを鷲掴みにしていた。
「あ……」
一人の女子が、指を止めた。
「この王子様のセリフ……『二人だけの秘密だよ』って。私、こないだ近所の大学生のお兄ちゃんに、同じこと言われた……。『可愛いって言ったの内緒だよ』って」
「えっ……?」
「……これ、読んだら、なんか急に鳥肌立ってきた。あのお兄ちゃん、本当はこういうこと考えてるのかな……」
男子の笑い声が響く賑やかな教室の中で、静かな動揺が、さざ波のように女子たちの間に広がっていく。
「ねぇ、真佐奈。このノート、誰が持ってきたの? 誰が描いたの?」
「あはは。教室の誰かだけど、秘密よ。作者さんとの約束だから」
「えー、真佐奈だけ知ってるんだ。ずるい、教えてよー!」
その頃、当の作者である亀井琴子は、自席で身を固くしていた。
「うーーー、緊張する。みんなに変に思われたらどうしよう……ねえ、慎太ぁ……」
藁にもすがる思いで、隣の席の慎太に泣き言をこぼす。
「……」
「ちょっと、寝てないでよー」
慎太は机にべったりと顔を伏せて眠っていた。
「珍しいね、慎太くんが昼寝してるなんて」
女子の追及をうまくかわしてきた真佐奈が、クスリと笑いながら琴子の席にやってきた。
「慎太さ、寝ないで写植してコピーして製本してきたって。……でも、こっちは緊張してるのに、休み時間ずっと寝てるのよ。つまんない」
琴子はぷくーっと頬を膨らませて、慎太の寝顔を恨めしげに睨んだ。
「ふふふっ、慎太くんは緊張してないみたいね」
「真佐奈は緊張してるの?」
琴子の問いに、真佐奈は一転して声を潜め、耳元で囁く。
「実はドキドキだよ。……誰が書いたのかすごく聞かれるし。ほら、私の後ろの方、見て……」
真佐奈の肩越しの視線の先には、下館亜里がいた。
彼女は交換ノートを開いたまま、じっと立ちすくんでいた。
(あ……下館さん……)
一瞬、亜里の身体がふらついた。
ガシャンッ!
缶ペンケースが音を立てて床に落ちた。中から色とりどりのサインペンが飛び散る。
「亜里? どうしたの? 缶ペン落ちたよ?」
近くの女子が怪訝そうに、落ちたペンを拾いながら声をかける。
「あ、ああ。ごめん、ちょっとぼーっとしてた。ありがとう」
「亜里、本当に大丈夫? ……最近、なんか元気ないけど」
作り笑いを浮かべ、ノートを閉じる下館亜里。
「ううん、何にもないよ……これ、回すね」
ノートを手渡すと、人目を避けるように教室を出て行った。
その背中を見送ると、琴子はそっと口を開く。
「……ねえ、真佐奈。下館さん、ノート読んでくれたかな?」
「うん、何回か、同じページを読み返してたよ」
「……でも、あんなに顔を青くして、すぐ回しちゃうなんて。やっぱり、余計なお節介だったかな……」
小さく肩を落とした琴子の隣から、低く、掠れた声が響いた。
「いや、上々だ」
「わっ、慎太、起きたの!?」
驚いて飛び上がる琴子。
ゆっくりと上体を起こした慎太の頭を見て、琴子は思わず吹き出した。
「げ、ちょっと、寝癖すごいよ! 」
「ん……ああ」
慎太は寝癖だらけの頭を手で押さえた。
「自分に必要な気づきほど、拒絶したいものだろう。一目でも読んでもらえたら、もう十分だ」
それだけ言うと、再び机に頭を沈め、今度こそ規則正しい寝息を立て始めた。
「……オジサンみたいなこと言うよね」
琴子は呆れながらも、慎太の激しい寝癖を指先でツンツンつつく。
「ぷっ」
真佐奈が小さく吹き出す。
開け放たれた窓からの風が、楽しげに笑う琴子たちの髪を柔らかく揺らしていた。




