第26話 平成元年、けろけろけろっぴの手紙
平成元年、六月も半ば過ぎ。
放課後の静まり返った会議室には、重苦しい説教の声が響いていた。
「……いいか、矢田沢くん。君はまだ『学生』なんだ。教育実習というのを、一体何だと思っている!」
教頭の容赦ない怒声が、パイプ椅子に座る矢田沢の頭上に降り注ぐ。
机の上には、すでに何枚も書き直させられた、手書きの分厚い反省文。
「佐々木真佐奈さんを資料室に連れ出そうとした件、そして下館亜里さんに対する度を越した依怙贔屓。女子児童たちの間で不穏な噂が立っている。……すでに数名からは聞き取りも行った」
教頭がピシャリと資料を叩く。
「実習期間が終わるまで、君は児童の前に一切出てはいけない。この部屋で己の不徳を反省しなさい。児童が帰宅完了する時間まで、校内に留まってもらう」
「……はい。本当に、申し訳ありませんでした……」
矢田沢は涙ぐみそうな顔で深く頭を下げた。
やがて、教頭が大きなため息をついて会議室を出て行った。
重いドアが閉まり、廊下の足音が完全に遠のく。
――その、一秒後。
「……クソが」
(何が児童の安全だ……こんなことしても遅いんだよ)
彼はスーツの内ポケットに手を伸ばす。
取り出したのは、発覚前――下館亜里からこっそり手渡された一通の手紙。
『けろけろけろっぴ』の便箋には幼なげな丸文字が並んでいた。
『矢田沢先生へ
駅前のケーキ屋さんのある緑の建物、わかりました。実習が終わった週、日曜の午前10時に遊びに行きます!二人きりになれるの、楽しみです♪
亜里より』
(……実習さえ終われば自由だ。亜里は自分の足で、俺の部屋にやってくる)
手紙を愛おしそうに折りたたみ、ポケットへ戻す。
(どんな風に可愛がってやろうか……。ああ、カメラと水着も買っておかないとな)
誰もいない会議室で、矢田沢は妄想を膨らませ、歪んだ笑みを浮かべた。
――その頃、公民館前。
「矢田沢な、下館を自宅に呼ぶ約束をすでに済ませた可能性がある」
「え……嘘……本当に?」
「……変態じゃん」
真佐奈と琴子は、息を呑み、目を見合わせた。
「わずかに漏れ聞こえただけで物証もないが、下館は盲目になってる。誰にも言わないまま、自宅に向かうだろう」
「そんなの、絶対にダメだよ……!」
「先生に言って止めてもらおうよ!」
「もちろん、いざとなればそうする。それで大人が動かなくとも実力行使で止める」
「実力行使って……なにするのよ?」
「……すぐに止めなくていいの?」
俺は首を横に振る。
「もはや、止めたとしても学校管理下から外れる実習終了後が危険だ。盲目な恋は死んでも果たそうとするからな」
「恋って……!矢田沢先生は私にも変な目を――!」
声を荒げる真佐奈を制する。
「そうだ、矢田沢のは恋ではない。下館がそれに気づき、自発的に踏みとどまってもらうために……琴子。お前の『絵の力』を使う」
「えっ……わ、私……?」
突然の指名に、琴子が戸惑ったように身を引いた。
「口頭よりも、文章よりも、漫画は入りやすい。これで女子たちに予防知識を広める」
「ちょ……そんな大したものは描けないよ!私、バカだし……」
「そんなことないぞ。……さっき、自作漫画で真佐奈を笑顔にしたろ?大したものだ」
「へっ?あ、あんた、知ってたの?」
「ああ、お前、集中すると隙だらけだからな。書いてるの、よく見えた」
「くっ……この……」
「ふん。お前も真佐奈も、俺をダシに笑いすぎだろう。……だが、俺をハンサムに描いてくれたから許してやる」
「……え?そんなつもりないけど?ボコボコになってるじゃん」
自作の漫画を広げる琴子。真佐奈が覗き込む。
「うん、慎太くん、こんな感じだよ?こういう、眠そうな目をしてるけど、かっこい……」
「ちょ!真佐奈!慎太が調子乗るから、そんなこと言っちゃダメ!」
眠そうな目とか、調子乗るとか。地味に失礼だな、こいつら。
「……で、琴子。ひとまずの作業料としてこれをやる」
リュックからガサガサと文房具を出していく。
「え……!なに、これ本格的なやつ!」
琴子が興奮して目を輝かせる。
「おう、一通り揃えてきた」
「うわあ、プロの道具みたい」
「ああ、プロとほぼ同じはずだ。ゼブラのGペン、サジペン、丸ペン。それから、PILOTのインク」
「原稿用紙と……これスクリーントーン!初めて見た!」
「無理して全部使わなくていい。使えるものだけ使ってくれたら。ストーリーと文字、構成は俺がやる。お前は、絵に集中してくれ」
「……慎太……いいの?」
琴子の大きな瞳が潤んでいる。
「お前の絵は、それだけ凄いってことだ」
「うん、琴子ちゃん。私も手伝うよ」
真佐奈が優しく琴子の手を包み込んだ。
「真佐奈は、出来たものを女子の間で回されている交換ノートに貼り付けてくれ。グループ別の交換ノートが出回ってるなら、それにも挟んで欲しい」
「あ、だから、私も呼んだのね」
真佐奈が微笑む。
「ああ、お前以上に女子全員に顔の利くやつはいない。……よし、公民館の和室借りてあるから、そこで作業するぞ」
琴子と真佐奈が顔を見合わせる。
「行動力、すご……」
「……うん」
夕焼け小焼けのチャイムが、遠くのスピーカーから街に響き渡った。




