第22話 平成元年、信頼の天秤
「ねえ、真佐奈」
不意に、横から声が降ってきた。
顔を上げると、そこにいたのは下館亜里だった。
「あ……亜里」
亜里はどこか期待に満ちた顔をしていた。
落ち着かない様子でデニムスカートの裾を指先でいじっている。
「ねえねえ、矢田沢先生となにか話した?」
やはり、その話題。
真佐奈は一瞬だけ視線を泳がせる。
本当のことなど言えるはずがない。
(気持ち悪かった。怖かった。もう二人きりになりたくない)
だが、そんなことを言えば、亜里を傷つけ、怒らせてしまう。
「……ううん。雑談くらいよ」
「雑談? 注意されたりは、しなかったの?」
「……どういうこと?」
「だって、真佐奈さ、亜里と矢田沢先生が仲良くするのダメだって、嫉妬して意地悪言ったじゃない?」
「嫉妬なんてしないわ!私、矢田沢先生のこと嫌いだもの」
口をついて出た言葉。
言ってから、言いすぎたとすぐに気づくがもう遅い。
亜里の顔がみるみる歪んでいく。
「あー!そうなの!矢田沢先生が嫌いだから意地悪なこと言ったのね!やめてよ!真佐奈の意地悪!」
昼休みの喧騒をかき消すような金切り声に、周囲の視線が一斉に集まった。
椅子に座ったまま、頭を抱えて机に突っ伏す真佐奈。
そこへ、女子たちが集まってくる。
「ちょっと!亜里!真佐奈が意地悪なんてしないの、みんな分かってるよ!」
「そうだよ!おかしいのは亜里の方だよ!」
人望のある真佐奈に、一気に天秤が傾いた。
「なんで……なんでよぉ」
涙目の亜里。
真佐奈が顔を上げる。目に涙を浮かべながらも、口を開く。
「ううん、ごめん……。みんなありがとう。亜里もごめん。……もうすぐ昼休みも終わるし、席に戻って。私も疲れた……」
絵を描く手を止めていた亀井琴子が耳打ちをしてくる。
「ねえ、慎太。下館さん、ヤバくない?」
「……そうだな」
「正直さ、不快かも。クラスの雰囲気も悪くなるし」
「……お前、雰囲気とか気にするタイプだったか?」
「それ、あんたに言いたい」
「まあ、さっき一つ仕込みはしたわけで……少し待て。それと、あとで力を貸せ」
「……?」
昼休み終了間際の職員室。
湿気を含んだ空気の中、古びた扇風機がガラガラと回っている。
教育実習生・矢田沢は、管理職の机の前で立ったまま、不自然なほど背筋を伸ばしていた。
額にはじっとりと汗が滲んでいる。
「教頭先生、さきほどは申し訳ございませんでした!」
勢いよく頭を下げる。
だが。
「ん?何を言っているんだ?何か、やらかしたか?」
書類をめくっていた教頭が、怪訝そうに顔を上げた。
矢田沢の顔から、すっと血の気が引く。
「え……?」
「何の話だ」
「い、いえ……その……資料室で……」
教頭の眉間に深い皺が寄った。
「……そんなところで何をしていた?」
「いえ……その……」
「誤魔化さないで質問に答えなさい」
低い、威圧的な声。
「は、はい! 学級委員の佐々木真佐奈さんと、本を戻しに……」
「指導教官の大山先生の指示か?」
「え……い、いいえ……」
言った瞬間、
しまった、という顔になる。
教頭の目つきが鋭くなった。
「大山先生! ちょっと来なさい!」
「は、はい!」
職員机から、大山滝子が慌てて立ち上がる。
「なんですか?」
「矢田沢先生へ、女子児童を連れて資料室へ行くよう指示したのかね?」
「えっ? い、いえ、してませんけど……」
大山の返答を聞いた瞬間、職員室の空気が変わった。
数人の教師が顔を見合わせる。
教頭はゆっくりと矢田沢へ向き直った。
「……矢田沢先生」
「は、はい……!」
「教育実習生が、独断で女子児童を人気のない場所へ連れ出したのかね?」
「ち、違います! 資料を運ぶのを手伝ってもらっただけで!」
「なぜ男子児童ではなく、佐々木さんだった?」
「そ、それは……学級委員で、しっかりしているから……」
「学級委員なら、男子もいるだろう。そもそも、まず担任へ相談を通すべきだが、そんなこともわからんのか?」
「……っ」
矢田沢の喉がひくりと動く。
完全に墓穴だった。顔から汗が噴き出す。
「い、いや、それは、世間話というか……」
「軽率すぎる。君のここでの信頼は、これ一発で無くなった」
教頭が切り捨てる。
「児童との距離感を履き違えるな。今後、問題を起こすようなら大学への連絡、実習停止もあることを忘れないように」
「……はい」
「返事が小さい!」
「はいッ!!」
職員室の空気がぴんと張る。
大山滝子も、下を向き、肩を震わせていた。




