第18話 平成元年、逃げられぬ誘い
平成元年、六月も半ばを過ぎていた。
ぬるい湿気と激しい雨音が、五年三組の窓ガラスを絶え間なく叩いている。
教壇の端に腰掛けた矢田沢の周りには、数人の女子児童が集まっていた。その中でもひときわ距離が近いのが下館亜里。
「ねえ先生、先生って恋人いるのー?」
「あはは、いないよ。募集中なんだけどね」
「じゃあさ、亜里がなってあげよっかー!」
無邪気な、しかし甘えを含んだ声をあげながら、亜里は矢田沢の背中に、自分の小さな体をこれでもかと押し付けた。まだ薄手の夏服越しに、確かな体温が伝わる。
普通の大人であれば、ここで距離を置く。だが、矢田沢の目元はだらしなく緩み、亜里の頭を「可愛いなぁ」と愛おしげに撫でている。
「……さすがに、あれはくっつきすぎじゃないかしら?」
その光景を眺めていた学級委員・佐々木真佐奈が、不快感を隠そうともせずに眉をひそめた。
「……私、あの先生嫌い」
俺の隣でノートに文字の練習をしていた琴子が、ぽつりと呟く。
「わざとらしい笑い方なんだもん。昔のウチのお父さんみたい。家では荒れてるのに、外ではいい顔してた頃と同じ」
「その感覚は正しいが……下館の方から進んでくっついてるってのが難しいんだよな……」
「なんで、下館さんわかんないのかな。外面いい大人は危ないのに」
家庭環境のせいか、琴子の直感は侮れない。
一方、しばらく唇を噛んでいた真佐奈は、やがて決意したように教壇へと向かう。
(注意しないと……)
真佐奈は教壇の輪から少し離れた場所に下館亜里を呼び出すと、できるだけ声を潜め、しかし毅然とした態度で切り出した。
「あのね、亜里。あまり先生にベタベタくっつくのは良くないと思うわ」
亜里はきょとんとした後、すぐに不満げに頬を膨らませた。
「……なんでそんなこと言うの? 矢田沢先生、すっごく優しいよ? 私がくっつくと、いつも嬉しそうにしてくれるもん」
「そういうことじゃないの。教室のルールもあるし……それに、亜里の安全を考えたら、大人の男の人とそこまで距離を詰めるのは……」
「なんで!? 先生がいいって言ってるんだから大丈夫でしょ? 先生は優しいんだから、危ないわけないじゃん! ……もうやめてよ、真佐奈。そんな意地悪言うの、すっごく嫌な気持ちになる!」
亜里の瞳に、明確な敵意と拒絶の色が浮かぶ。
彼女にとって矢田沢は、「自分を特別扱いしてくれる、白馬の王子様」だ。それを否定する真佐奈の正論は、ただの「嫉妬」や「嫌がらせ」にしか聞こえない。
「……わかったわ。嫌な気持ちにさせて、ごめんなさい」
これ以上は逆効果だと察した真佐奈は、静かに身を引いた。
席に戻ってきた彼女は、深く長いため息をついて机に突っ伏した。
それを遠目に見た俺もまた、内心でため息をつく。
(やはり、こうなるか……)
意固地になった亜里は、当てこするように再び矢田沢の腕にしがみついた。上目遣いで、甘ったるい声を出す。
「ねえ、矢田沢先生。私、さっき嫉妬されちゃった」
「ん? どうしたの、下館さん」
「学級委員の真佐奈にね、先生にくっついちゃダメって怒られたの。そんなことないよね? 先生、迷惑してないよね?」
矢田沢の口元が、わずかに歪んだ。
視線が、席で悔しそうにしている真佐奈へと向けられる。
「ああ、先生は下館さんがくっついてくれて、全然嫌じゃないし、むしろすごく嬉しいよ」
「そうだよね! ねえ先生、それ、真佐奈にも言ってよ。亜里は悪くないってさ」
「あはは、そうだね。下館さんの頼みなら、あとで佐々木さんには先生から優しくお話しておくよ」
――そして、昼休み。
俺は教室の隅で作戦会議に参加していた。メンバーは男子の精鋭たち。
ゲームタイトルがびっしり書かれたメモを囲んで、熱い議論が繰り広げられる。
「ゲームボーイがあるなら、マリオ。あるいはテトリスも候補に入れていい」
「しかし、わざわざ本体を買ってもらうほどか?」
「いい質問だ。実は、ドラクエなどが好きなら、ゲームボーイはまだ待っていい。その代わり、夏休みに入ってすぐにMOTHERが出る。それを買え」
「あの、CMでやってるやつだよな?『エンディングまで、泣くんじゃない』の?」
「そうだ、あの歌が流れてるやつ」
俺は軽くテーマソングを口ずさむ。
「おーっ!」
「すげえ、よく再現できるな!」
本当は前世でサントラをカセットテープが擦り切れるほど聴いたからだが、話す必要はないだろう。
「ドラクエで感動できる感性があるなら、MOTHERはおすすめできる。買いだ」
「……慎太、お前、まるで遊んだような言い方するよな。しかも、よく当たるし」
「ああ、俺くらいゲーム好きになると、気配でわかるんだ。信じてくれていい」
俺たちのゲーム談義は、まだ終わる気配がない。
そんな男子たちを視界に入れもしない、矢田沢の爽やかな声が響いた。
「佐々木さん、ちょっといいかな? 先生、この古い参考書の束を資料室に戻さないといけないんだ。もう一束あるから持てなくて困っていてね。悪いけど、学級委員として少し手伝ってくれないかい?」
「えっ?」と真佐奈は一瞬、不審そうな顔をした。
しかし、「学級委員として」という大義名分を大人の教師から突きつけられると、責任感の強い彼女には断る理由が思いつかない。
「……はい。わかりました」
真佐奈は席を立ち、教壇の前で矢田沢からずっしりと重い本の束を受け取った。
腕を伸ばし、上体をわずかに前に傾けたその瞬間――
矢田沢の視線が、真佐奈の白い首元から、夏服の襟元からのぞく鎖骨、そしてまだ膨らみ始めたばかりの胸元へと、なぞるように、ねっとりと滑り降りた。
「……先生?」
向けられた視線の異様な生々しさに、真佐奈の身体が本能的な恐怖で微かに強張る。
「あ、ああ、ごめんごめん。ちょっと重かったよね。じゃあ、資料室へ行こうか」




