狩人は夜陰に紛れる
闇の帳が降り、月が支配する沈黙の深夜帯。
建屋と塀のはざまで、クモの巣を突き破りながら進む不審な影。草むらを踏み分ける早い足音。『男』の“次なる標的”は、以前 物置きにされていた小屋に在る。小屋には正面入り口の他、裏手に小窓が設えてある。つい最近、この小屋が『犬小屋』になった時に改装され、はめ殺しの窓は開閉可能となった。成人男性では頭しか通らぬ小窓でも、この男には何ら障害とならない。猫のようにしなやかで柔らかな この体こそが、彼の密かな自慢だった。
さて。犬小屋と言うからには、敏感な住人が侵入者に気づかぬはずもない。だが男は構わず、開いた小窓に頭を突っ込んだ。
「ククク……眠ってる」
侵入を果たした男は ズボンの裾をめくり、足首に括り付けたナイフを手に取る。革の鞘を抜き放つと、幅広の刃の腹に舌を滑らせた。これから使う道具には、自身の体液を撫で付けて濡らす。これは男にとっての、始まりの儀式。
犬たちは鼻をピィピィ鳴らして眠っている。
男の頭の中では、暗闇をスクリーンに凄惨な映像が流れている。万全を期して挑んだ今夜。命の吐息を耳にしながら、恍惚とナイフを振り上げる。この切っ先が肉に埋まるまでが、最高に昂ぶる瞬間だ。男の股間が張り詰め、弾けそうになる。
――その刹那。
「やれ」
「!?」
主から命令が下された。侵入者に向かい、犬たちが一斉に飛びかかる。男の防御は間に合わない。馬鹿なと思った瞬間には、体の各所に噛みつかれていた。
「――ッ!」
皮膚を突き破る鋭い牙。肉を刺す激痛と犬の重みが、男をその場に縫いつける。
ひとしきり揉み合いが続いた後、主が制止命令を発する。オイルランプの明かりが点いて、小屋の中を照らした。
「なんてこと、逃げ足が早いったら!」
忠犬たちは困ったように主を見上げていた。彼らの足下には、侵入者から落ちたと思われる血痕の数々が。
主はランプを壁にかけ、犬たちの傷の有無を確かめる。ポケットに鼻を近づける犬を制止し、中身を棚の上に置き直した。それは毒餌。暗くなる前に排除した紛れ物。不届き者が置いていった悪意の塊である。
「このまま放っておけません。悪い子は お仕置きして差し上げなければ」
『彼女』は強い決意を心に秘め、大切な仔らを抱きしめた。
✦✦✦
ジニィはアルカンについて忠告を受けて以降、『特務隊』という謎の部署について調べていた。しかし公式には特務隊という組織名など存在しない。
(もしかして通称か? 正式名称は?
そもそも軍隊じゃない?)
手辺り次第に資料を漁ったが、ソレらしい組織は見つからない。ゆえにジニィの数少ない人脈から、前の研修で担当になった教官に当たってみた。情報収集の為に時々手紙を交わしていた人で、昇進した今は小隊長だ。
「王都に行った事あるくせに知らないのか」
「ただの研修ですよ。内情まで知りませんって」
今より若かったジニィは、王都という大都市に田舎者らしく浮ついていて、目端も利かなきゃ鋭さとも無縁だった。
先輩から聞いた話は、意外な事実から始まり疑問で終わった。
「聖堂所属……? 粛清部隊……? なんだそれ……?」
アルカンが貴族身分である事は、身にまとった軍服の時点で判っている。それは美しい義母が、父と離婚した後に貴族の後妻に収まったものと解釈できた。――であればこそ解せない。アルカンの全身から匂い立つ違和感だ。普通の貴族とは違う。普通の騎士とも違う。しっくりこない感覚を、明確に言語化できていない。バスカルやクライヴが口を濁す理由。フレッドがアルカンを畏れる意味。思えば雑貨屋で代官とアルカンが会っていた時も、妙な態度だった。
ジニィは おそれてる。大切な あの子が、昔に戻ってしまったのではないか、と。
✦✦✦
【紫の目の悪魔】がソーンに来てからというもの、フレッドは毎日 怯えて過ごしている。
(もし、バレたら)
身内に飼ってる化け物を引きずり出され 公衆に曝される恐怖に、夜も満足に眠れない。よりにもよって、フレッドが嫌っているジニィ・ブレシュは、“彼”の義兄弟だとか。
勤務中ブツブツと独り言を垂れ流すフレッドに、周囲は怪訝な様子で距離を取る。いつも連れ立っている二人とも ぎこちない状態だ。
盗難騒ぎを起こした部下の父親は、フレデリック商会で経理を任されている。息子のピーターとは幼い頃からの付き合いだ。彼は非常に内向的で気が弱く、ボスのフレッドにすら本音を漏らさない。
もう一方の部下 マイクの父親は、商会の表向きを任されている会頭の右腕だ。彼がフレッドに付いたのは少し遅い時期で、その理由は後に父から聞いた。マイクは幼い頃から その性質に問題があり、躾で改善したので側付きにしたという。
とんでもない。フレッドは激しく首を横に振った。
(俺は、俺の隊を守らねば、ならない。
あのジニィ・ブレシュのように……?)
フレッドの背に責任が重くのしかかる。所詮 利害関係で築かれた仲間意識。それでいいと思っていた。それだけでは軽すぎたと、今更ながらに愕然とする。
先日のこと。マイクの身体から僅かに血生臭さが漂った。初めて家畜をシメる現場を見た、あの日の朝と同じにおい。こんな事、一度や二度じゃない。わけを聞いても誤魔化され、無関心からスルーし、恐れから見ないふりをし続け――今や、彼の業は疑いようもない。動物を虐待するのが趣味の男に、背中を預けねばならない不穏。
(いや、その程度で特務が動くとは思えない)
そうやって何度も考え直す。中区で起きた騒動により、カドマス家が凋落した。これに特務が関わっているのは明白だ。調査が終われば、領主はカドマス家を処断するだろう。その次は?
(いや、まだ大丈夫)
まさか人間に手を掛けることはあるまい……そう信じたかった。
そして今朝。のっぺり顔に 常に薄ら笑いを貼り付けているマイクの表情が、一晩で手負いの獣に化けた。フレッドの全身に怖気が走り、ギリギリ安定を保っていた心がポキリと折れる。もう一人じゃ抱えきれない。
(せめて事が大きくなる前に明かさないと。だが誰に)
特務隊は論外。どうせなら信頼できる誠実な人物が好ましい。衛兵隊には荒っぽい男やゴロツキ上がりが少なくないので、必然的に頼れる人間は限られる。
(いや、仲間内の事なら父さんに相談すべきだ)
年中多忙な会頭に何と言えばいいだろう。厳しい父のこと。「隊の中で始末をつけろ」と言われるのがオチだ。
(ジニィ・ブレシュ。気に食わん奴だが、選り好みしてる場合じゃ――)
考え事をしながら渡り廊下を歩いていると、言い争いの声が耳に届く。どこかで喧嘩が起きたようだ。回り道も考えた。だが怒鳴り声がマイクに似ている気も。渋々 様子を伺ってみる。食堂の搬入口に面した外のスペースで、三人の男女が言い争っていた。やはりマイクだ。しかも相手はジニィ・ブレシュ。傍らに若い配膳婦。
(何をやってるんだ、アイツら)
聞き耳を立てれば、事情は大体 察しがついた。マイクが目をつけた女が、ジニィ・ブレシュと親しくしている。マイクは その場面に遭遇し因縁をつけた。女を巡って言い争いの末 激高。こんなところだろう。ジニィ・ブレシュは嫌いだが、血の気が多いマイクを放置する方が危険かもしれない。
「あ」
止める間もなく、マイクがジニィを殴りつけた。響く娘の悲鳴。引き裂かれる動物の絶叫を想像し、一気に血の気が引く。吐き気と震えで壁に身をもたれた。深呼吸で何とか精神を立て直している間に、マイクは その場を立ち去ったようだ。悲鳴を聞きつけて人が集まるのを危惧したのだろう。娘がジニィの胸に飛び込んで泣いている様子が見える。大事に至らず、ホッと息を吐く。
(だめだ。このままじゃ俺の身が保たない……)
フレッドは災難に遭った気分で その場を離れた。
男女三人の修羅場。離脱する傍観者。彼ら四人とは別に、偶々 一連の出来事を観察していた人物がいた。
「フゥン。面白いコトしてるじゃないの」
雑貨屋の元従業員にして、アルカンの忠実なる部下 イルだ。彼は二階の『仕事部屋』で一人、気ままに煙草を嗜んでいた。
役者の一人は、公認お人好しのジニィ・ブレシュ。性格以外に さしたる取り柄のない凡庸な青年だ。
「人の好さでモテるタイプかぁ」
この混沌とした世界で、数少ない善人の一人でもある。世間を斜めに見ているイルとて、人格者には敬意を払う。信じ難い事だが、彼のボスにも自ら膝を折る人物がいるのだ。
(でもさ。そういう人ほど早死にするんだ……。哀しいね)
当のジニィは、おさんどん娘に気がある様子。何人もの男を陥れてきたイルの目には、目が霞むほど初々しい。
「コレはコレで使えそう♪」
彼は良い気分転換を思いついて、悪い笑みを浮かべた。迂闊な言動がもたらした数々の負け試合に、イルは全く懲りちゃいない。ただただボスの反応を楽しみに、報告ついでの世間話にネタを投下する。
ーー結果。
ほうほうの体で執務室から出てきた所を、呆れ顔のディエルに回収されたのだった。残念。




