会合
陸上自衛軍の将校たちは、しばしば国家より先に国家の限界を知る。
別に彼らが特別に賢いからではない。国家というものは、平時には官僚が回し、選挙の時期には政治家が語り、非常時になると警察が抑え、どうしようもなくなった最後にだけ軍服の人間へ帳尻を押しつける。それは、二十世紀の末に自衛隊が自衛軍が改組される前からそうだった。だから軍人は、国家のいちばん見苦しい瞬間ばかりを見ることになる。災害派遣で瓦礫の下から死体を掘り出し、曖昧なルールに縛られ、海外では戦うなと言われながら戦う準備だけはさせられる。そういう経験を積んだ人間は、国家を理念としては見なくなる。巨大な意思でも、共同体の結晶でも、国民精神の体現でもない。連絡不備と責任回避と予算折衝の上に、最後だけ火薬で支えられた厄介な機械だと理解するようになる。
その理解が冷笑に変わる者もいる。諦念に変わる者もいる。だが、ごく一部はそこから先へ進む。こんなものなら自分たちが握ってしまえばいい、という考えに辿り着く。
古国良平は、その一人だった。
東部方面総監。陸将。日月の会会長。世間から見れば、老成した高級幹部である。背筋は伸び、眼差しは穏やかで、部下に怒鳴ることも少ない。酒席でも品位を崩さない。政治家や財界人の前では物腰柔らかく、自衛軍の顔として外へ出しても恥にならない種類の男だった。だが、温厚な人間と過激な人間は、必ずしも矛盾しない。むしろ、本気で大きな決断を下す人間ほど、日常では声を荒らげない場合がある。感情を消耗する必要がないからだ。
軍人は国家の最後の責任者である。
古国は、その言葉を信仰していた。政治家は政局に責任を持つ。官僚は制度に責任を持つ。警察は秩序に責任を持つ。だが国家そのものが傾いたとき、最後にそれを物理的に支えるのは軍隊だけだ。ならば軍人には、命令に従う義務だけではなく、国家そのものを保全する義務がある。選挙や議会や世論より下位に置かれながら、最後の最後にだけ国家の生死を背負わされる存在。それが軍人である以上、軍人には国家の最終判断者として立ち上がる瞬間がある。古国はそう考えていた。
その考えが法的にどれほど危険で、政治的にどれほど醜く、歴史的にどれほどありふれているかについて、古国はまったく無自覚ではなかった。知ってはいた。だが知ったうえで、自分はその例外たりうると思い込んでいた。老練な人間ほど、最後は自分だけは違うと信じる。古国もまた、そういう種類の老人だった。
日月の会は、表向きには将校の親善団体にすぎなかった。研究会。懇親会。情報交換。退職後を見据えた縁故づくり。そんな建前は山ほどあったし、実際、人脈作りを目的として参加している会員も多かった。だが、組織というものは建前の厚さに比例して本音が黒くなる。日月の会もまた例外ではない。国際情勢の不安定化、アメリカの対イラン戦争の長期化による世界経済の傷み、南半球から始まった地球防衛軍による破壊工作とテロ、国内政治の消耗、景気後退、若年層の無関心、老人たちの政治、法解釈に縛られたまま肥大した自衛軍――そうした要因が、もともと存在した右派将校サークルを、ゆっくりと反乱組織へ変えていった。
もっとも、最初から全員がクーデターを目指していたわけではない。半分以上は、国士気取りの右翼か、国家の将来を憂えているふりをした出世屋か、政治家を見下して溜飲を下げたいだけの老人か、あるいはただの人脈好きだった。だからこそ危険だった。純粋な陰謀団より、趣味サークルの集まりの方が長く生きる。そこには笑いもあり、宴席もあり、形式的な議論もあり、曖昧さがある。曖昧さは、秘密を守るうえで極めて有効だ。
その夜の会合は、都心から少し離れた研修施設で開かれていた。埼玉県南部、主要道路から一本入った場所にある古びた建物で、かつては企業研修や宴会に使われていたらしい。門は簡素で、監視カメラも古い。警備が厳重というより、目立たない。真に危険な会合は、いかにも危険そうな場所では行われない。昼間は地方自治体の講習会に貸し出され、夜になると名簿に載らない人間が集まる。そういう空間のほうが、秘密は長持ちする。
雨が降っていた。六月に入る前の湿った夜気だった。建物の外壁は古びていて、蛍光灯の光がガラス越しに青白く漏れている。会議室の中には、何十人かの人間が集まっていた。陸自出身者が中心だが、それだけではない。装備畑、教育部門、退職したOB、そしてこの類のサークルには珍しく、海自・空自の人間もいた。今夜の賓客だ。
秦野修司という将校は、このサークルの一員だ。30代前半、3佐。防衛大学校出身。四谷や一部の幹部候補生学校同期からは「BBB」と呼ばれていた。その由来は、Big Boudai Boyの略。彼の区隊長が、その恵まれた体格からつけたあだ名であり、本人が好んでいる呼び名ではない。彼は海自の航空系幹部と、空自の警戒管制系幹部に古い伝手を持っていた。学生時代の上下関係、卒業後の教育課程、統幕勤務、共同演習、懇親会、同期会、昇任試験の情報交換。防大生のネットワークというのは、何も秘密結社のようなものではない。ただ長年積み上がった人間関係、貸し借りと気安さの総称にすぎない。だからこそ始末が悪い。
四谷賢一は、その秦野の向かい側に座っていた。秦野と同期の3佐。将官や1佐クラスが平然と参加するこの会合の顔ぶれから見れば明らかに格下だが、古国はこの男をかなり買っていた。西部方面隊を原隊としながら東部にも北方にもパイプがあり、しかも作戦面で勘が利く。口数は少なく、酒席でも酔っ払って気が大きくなることはない。何より、自分の考えを必要以上に語らない。その沈黙が、古国には成熟に見えていた。実際には、四谷が自分の本心を決して外へ出さないだけだった。
古国が会合を始めた。
「諸官。本日は情勢認識の最終すり合わせを行う」
声は低く、無駄がなかった。資料が配られる。紙の音。椅子の軋み。誰かが咳払いをし、外の雨音が遠くで続く。会議室の奥には首都圏地図、主要官庁配置図、首都高速網、鉄道幹線、港湾施設、航空基地、警察関連庁舎の位置関係が映されていた。赤い丸、青い矢印、薄いグレーの封鎖線。見慣れた行政地図が、あっさりと征服図へ変わる瞬間には、特有の気味悪さがある。誰かの住んでいる街を、人はこうも簡単に記号へ変換できる。人が起きて、朝食を食べて、働いて、家に帰り、眠る。何でもない日常の舞台に兵棋を置き、戦場とすることに何らの呵責を覚えないように教育されてきたのが彼らなのだ。
最初に喋ったのは牧野恒一だった。一佐。日月の会における作戦設計者。第1師団の幕僚。戦術と作戦のつなぎ方に異様な精度を持つ男で、一方で民事や政治を軽視する。彼にとって民間や国家とは、兵力配置の背景にある色面でしかない。軍事的に成功する計画なら、それでいい。勝てれば全てが肯定される。彼は本気でそう思っているし、その意味では最も危険な種類の軍人だった。
「首都圏制圧の核心は火力ではありません」
牧野は冒頭から言った。
「核心は認識遅延です。誰にも、何が起きているのかを正確に理解させないこと。政府、警察、海自、空自、在日米軍、そして国民。すべてが自分の見ている異常を、まだ異常ではないと解釈している数時間を確保できれば勝ちます」
画面が切り替わる。時系列が並ぶ。
2200 命令伝達開始
2250 主力移動開始
0300 主力展開完了
0350 主要通信拠点・公安関連施設への突入
0400 海自・空自一部基地への同時圧力
0410 官邸・国会・警察中枢周辺制圧
0515 警視庁・警察庁制圧完了
0530 声明準備完了
0600 国家非常措置発表
牧野は、各項目を淡々と読み上げた。
「主力部隊は、第1師団、第12旅団を基幹とする。戦車やMCV、火砲はなし。見た目が派手すぎる。必要なのは装甲車、普通科、施設、通信、航空機動、警務、情報要員の連結です。市民に“戦争”ではなく“何か大きな非常出動が起きている”と誤認させる」
誰かが口を開いた。
「結局、どこで武器を使う」
「警視庁、警察庁、公安関連施設、内調連絡線、主要放送送信設備、海自・空自の一部指揮中枢。抵抗を受ければ、の話ですが」
牧野は答えた。
「なお、できる限り同じ制服には撃たないものとする」
「海自空自は同じ制服のくくりに入るか?あるいはそのまま叩くのか」
「彼らは敵にはしません。つまりできる限り叩かない。ただし味方にする必要もありません」
牧野はそこで、少しだけ顎を上げた。
「行動が完了するまでの間、統一的に動けなくなれば十分です」
秦野が資料を指で叩いた。
「横須賀、厚木、百里、入間、府中、習志野周辺への対応はどうなっていますか?」
「同時実施します」
「全部押さえきれるとは思えませんが」
「全部は要らない」
「そういう話じゃない」
秦野は、わずかに不機嫌そうだった。四谷はその横顔を見ながら、この男がいまだに自分を作戦に協力している“調整役”程度にしか認識していないことを知った。秦野にとって国家転覆は理念ではなく、組織矛盾の過激な調整でしかない。だからこそ油断している。思想で酔っている男より、こういう実務屋の方が最後には扱いやすい。
秦野は続けた。
「空自は決断も行動も早いだろうが、海自は判断にも行動にも時間がかかる。そこは使える。だが一度“これは陸の反乱だ”と割り切られたら、逆に速い。だから主要な基地を落として混乱を作為し、偽情報を流して数時間のあいだ正規命令が二重化した状態を作る方が大事になる」
古国が頷いた。
「そのための人脈ということだな、秦野」
「人脈なんて綺麗なもんじゃないですよ」
秦野は苦笑した。
「同期に電話する。後輩に保留を促す。先輩に“まだ待ってくれ”と言う。事情説明はしない。説明すると決断を迫ることになるからな。判断材料を与えないで迷わせる。要するに、海と空に“いま動いて失敗したらお前が戦犯だぞ”と思わせるわけです」
会議室の数人が笑った。品のない笑いではなかった。むしろ、あまりに現実的な説明に感心したような乾いた笑いだった。軍事政変において人脈がどれほど大きな火力になるか、彼らは知っている。
四谷が、その乾ききった笑いの隙間で言った。
「さすがB幹部、闇の防大ネットワークだ」
秦野が顔を向ける。笑っていない。
「闇じゃない。お前が持ってないだけだ」
会議室の空気が一瞬だけ止まった。四谷は微笑もしなかった。少し肩をすくめただけだった。
「そうかもしれない」
その一言に、古国は咎める気配を見せなかった。むしろ、二人の反目が露骨な軋轢に至らないことを安心しているようだった。古国には、この二人の間に横たわる温度差が見えていない。秦野は四谷を外様として見ている。四谷は秦野を、使う価値のある閉じた回路として見ている。信頼ではない。利用の均衡に過ぎない。
次に口を開いたのは榊原広太だった。人事掌握担当。2佐。陸幕の補任課の人間だ。出世欲と不満を読むことに長けた男で、将校たちを名簿ではなく、裏切り可能性の程度で把握していた。思想はいらない、従うかどうかだけだ――というのが彼の持論だった。
「統制派の動きですが、首都圏に近い陸上部隊ほど迷います。これは悪い話ではありません。逆に遠方の部隊ほど、命令で動きやすい。実景が見えないからです。故郷が戦場になることを好む者は少ないでしょう」
榊原はファイルをめくる。
「危険なのは、政治家への忠誠心が高い人間ではなく、“自衛軍内戦だけは避けたい”と考えているまともな指揮官です。彼らは最後まで撃たない。しかし撃たないまま、こちらの動きを止めようとする。説得など、あらゆる手を使うと思います。時間を稼がれるのが一番まずい」
「排除は」
「必要なら」
榊原の答えは短い。
「ただし、同じ自衛軍相手の実射は最終段階まで避けたい。敵が警察と公安で足りるなら、その方が良い。世論に対する説明が容易です」
「説明など後からどうとでもなる」と神代嶺が言った。
2佐。法務官。法学と国家論に強い男で、日月の会内部では思想的正当化の担当だった。目が冷たく、唇が薄い。現行憲法を熟読し、その穴と限界を自分の武器だと信じている種類の男だった。
「重要なのは、行為そのものではなく、行為の後に与える名称です。クーデターという言葉を使わせるな。非常措置、国家保全、憲政回復、暫定的代行――どれでもいい。現実が先です。法は後から追認される」
四谷は、そこで初めて神代を見た。相変わらず便利な男だ、と内心で思った。だが神代にも限界がある。こいつは結局、違法を合法と呼び変えることに快感を覚えているだけだ。権力そのものを欲しているわけではない。だから最後には、権力それ自体を目的にしている人間へ喰われる。
古国が言った。
「言葉は要る。しかし根本は義務だ」
その一言で、会議室は再び静まった。
「我々は権力を欲しているのではない。国家の保全を引き受けるだけだ。現政権はもはや国を維持できない。経済は傷み、米国はイランで世界市場を道連れにし、南では地球防衛軍が現れ、国内では若年層が国家を信じず、官僚は責任回避に終始している。そうしたとき、最後に立つべき者が立たないなら、軍というものは何のために存在しているのか」
古国の声に熱はなかった。むしろ熱がないからこそ、会議室の人間はそれを重く受け止めた。怒鳴る老人より、静かな老人の方が危ない。後戻りを考えていないことが多いからだ。
だが四谷は、その演説を聞きながら冷笑していた。古国はまだ“国家を救うために権力を取る”と思っている。そこが甘い。権力は救済のための器具ではない。奪われる前に奪うための目的そのものだ。国家を救う、などという倫理的修飾は、まだ世界に言い訳している証拠にすぎない。古国は自分の暴力に、意味と正義を被せようとしている。それは弱さだ。
会議は続いた。
警視庁と警察庁の制圧案。警察通信の遮断。公安部門への奇襲。普通科部隊を使った名簿奪取。一部国家公務員の一時拘束。官邸危機管理センターの連絡線寸断。内閣官房への非常措置文書突きつけ。海自・空自の一部基地に対する“友軍としての立入”を装った侵入。放送局の送信設備確保。鉄道と幹線道路に対する交通統制。すべてが、反乱というより業務調整のような口調で説明される。それが、かえって異様だった。国家転覆とは、たいがいこのように事務的な顔をしている。
秦野が海空関連の補足を始めた。
「海自側の一部は横須賀と厚木の周辺連絡、あと幹部学校・教育課程の旧縁で引っ張れます。偽情報や、判断の引き留め、虚偽の説明でしばらくは行動を遅らせる事はできるでしょう」
誰かが訊いた。
「それで何時間稼げる」
「うまくいけば三時間。悪ければ一時間半」
「短いな」
「政変で三時間は長いと思いますが」
秦野は言い切った。
「空自は航空機の運用が任務ですが、隊員に戦闘訓練を施していないわけではない。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、すぐクーデターを察知されてヘリなどで現場に急行されて介入されれば、事態は複雑になる。3時間も猶予があるならば、我々の隊員は確実に任務を達成します」
四谷は、その説明を聞きながら頭の中で別の計算をしていた。秦野の言う三時間という数字。海空が一時間半でも迷えば十分だ。その間に首都圏と警察中枢を押さえれば、後は海空にとっても撃つ理由がなくなる。国家転覆は、全敵を倒して勝つものではない。勝った後に敵が自分の敗北を認める地形を先に作るものだ。そこにさえ持ち込めば、理念も法も後からついてくる。
会議は深夜まで続き、最後に古国が作戦名を正式に口にした。
「本件の呼称は、三矢作戦とする」
その瞬間、まだ観念だったものが現実へ降りた。名前は儀式だ。名前のない陰謀は雑談に近いが、名前を持った瞬間に行動計画へ変わる。それに、三矢作戦という名前。まだ自衛軍が自衛隊だった冷戦期に作成された、クーデター計画の名称。古い時代の構想の継承を意図したネーミング。会議室の全員が、その変化を感じていた。空気が少しだけ重くなった。
解散後、廊下には薄い消毒液の匂いが漂っていた。研修施設の窓を叩く雨は弱くなり、遠くで車の走行音がたまに聞こえる。夜更けの建物には、人間の企みを必要以上に大きく見せる癖がある。
四谷が喫煙所代わりに使われている小さなベランダへ出ると、秦野が先にいた。煙草の火が暗闇に小さく浮いている。
「吸うのか。いつからこの習慣を?」
「こういう会議の後だけな」
秦野は言った。四谷は吸わない。昔からそうだった。
「本当にうまくいくと思うか」
秦野は、外を見たまま訊いた。
「当然だろう」
「やけに確信してるな」
秦野は鼻で笑った。
「お前みたいな一般大卒の連中は、たまにそういう顔をする。全部、自分の意志で動くと思ってる顔だ」
「そんな顔に見えるか」
「あぁ。組織ってのは、もっと腐ってて、もっと情で、もっと貸し借りだ。正しさでも思想でもない。同期だから待つ。先輩だからすぐ撃たない。後輩だから顔を立てる。そういうもんだ。だが、お前はそれを軽蔑してる」
四谷は否定しなかった。秦野は続けた。
「だが、その腐ったものの上に国家は立ってる。法も命令も、その上に乗ってるだけだ。だからお前も今、それを使ってる」
「そうか」
「だったら忘れるな。闇じゃない。光でもないが。お前が国家だと思ってるものの中身は、案外そういう濁った人間関係だ」
四谷はそこで、ようやく少しだけ笑った。
「よく分かっている」
「何がだ」
「国家が、思ったよりつまらない材料でできていることだ」
秦野はその答えに顔をしかめた。四谷の言い方には、どこか全体を馬鹿にした響きがある。自分も、古国も、会議室の老人たちも、海自空自の同期たちも、結局は材料の一部でしかないと見なしている目だ。秦野はその目が気に入らなかった。だが、それでもこの男の能力を否定できない。役に立つ怪物は、嫌悪と同時に頼もしさを与える。組織が滅びる前夜には、そういう錯覚が起きやすい。
「お前は、古国さんの理想に共感してるのか」
秦野が訊いた。
「共感していなければ、ここにはいない」
四谷はそう答えた。半分だけ本当だった。古国の理想に共感しているのではない。古国が作る状況に価値を見出しているだけだ。だが、相手に誤解させるには十分な言い方だった。
「そうかよ」
秦野は短く言って、煙草を消した。
「だったら、成功を祈ることだな。中途半端に失敗すると、俺たち全員、ただの反乱分子だ」
「成功するさ」
「どうして言い切れる」
「この国が、もう自分を守る気がないから」
四谷の答えは即座だった。秦野はしばらく黙って、それから建物の中へ戻っていった。
一人になったベランダで、四谷は雨上がりの匂いを吸った。夜の郊外は静かだった。遠くの街路の光が濡れた路面に滲んでいる。こういう平凡な夜にこそ、国家は死ぬ。人間は国家が死ぬとき、もっと劇的な景色を想像する。炎上する国会、街を進む戦車、英雄的な放送、群衆の叫び。だが実際には違う。国家はまず、こうした平凡な会合室で死ぬ。蛍光灯の下、コピー用紙の音、名簿、時刻表、電話番号、顔見知り、保留、判断遅延。その総和が、政治を先に殺す。
その意味で、三矢作戦はすでに半分成功していた。国家の中枢を握る前に、国家の暴力装置の一部が、国家の外ではなく国家の内側で会合を開き、自分たちこそが国家だと思い始めている。それだけで、旧来の国家は致命傷を負っている。
四谷は自分の車へ戻る前に、施設の廊下をゆっくり歩いた。いくつかの部屋にはまだ人が残り、別働の打ち合わせをしている。警務要員の配置。情報科部隊との連携。警視庁周辺の突入導線。機動隊の待機車列がどこで詰まりやすいか。夜明け前の通行量。市民のスマートフォンに映るであろう最初の映像が何になるか。放送局に送る文面。古国が読み上げる声明草案。すべてが細かい。細かさは、暴力の最大の友軍である。
やがて研修施設を出ると、古国の車両が先に発っていくところだった。黒塗りの車。まだ国家の側の人間に見える移動だった。四谷はその後ろ姿を見送りながら、古国という男の限界を改めて思った。この老人は、本気で自分が国のために手を汚すつもりでいる。そこが敗因だ。権力を持つ者が、なお自分の手の汚れを“必要悪”だと信じているうちは、いずれ止まる。止まる権力者は、食われる。
車に乗り込むと、助手席に置いていた薄いノートを開いた。そこには日月の会の正式資料とは別に、もう一つの計画が記されていた。古国政権成立後の人事再編。通信室要員。警護班の差し替え候補。警察・公安の指揮を握る新体制。海自空自に対する追加粛清。古国を残す場合と消す場合の分岐。第二革命という言葉はまだどこにも書いていない。だが内容はすでに、それだった。
四谷はノートを閉じた。
雨はもう止んでいた。東の空が、わずかに白み始めている。明け方は何かの始まりに見えるが、しばしば終わりの方が先に含まれている。人間が新しい一日だと呼ぶ時間帯には、前の日の死体が見えにくいだけだ。
この国はもう終わっている、と四谷は思った。
終わっているからこそ、奪う価値がある。
壊れかけているからこそ、作り替えられる。
誰も本気で信じていない国家ほど、少数者の意志に従いやすい。
彼の頭の中には、古国の見ている国家よりはるかに大きな地図があった。日本列島だけではない。朝鮮半島。台湾。中国沿海。ウラジオストク。東南アジア。さらにその先、アメリカ。ロシア。世界。古国にとって三矢作戦は国家を救うための一回の介入だが、四谷にとってはそうではない。これは橋頭堡の確保にすぎない。歴史そのものに報復するための、最初の踏み台でしかない。
彼は車を発進させた。ワイパーがフロントガラスの水滴を払う。道路脇には、まだ眠っている住宅地が続いている。室内灯の消えた家。夜勤帰りらしい車。配送トラック。新聞配達のバイク。国家の命運とは関係なさそうな生活の断片ばかりだった。だが、関係がないのではない。彼らが関係していると知らないだけだ。
六日後でも、六時間後でもなく、もうすぐその日が来る。
同じような雨上がりの朝、装輪車が都心へ入り、警視庁と警察庁が押さえられ、公安関連施設が歩兵部隊に襲われ、海自空自の中枢が保留と遅延に沈み、官邸は自分が何に襲われているのか正確に把握できないまま、国家は反乱側に引き渡される。市民は最初、それを災害出動か何かと誤認するだろう。ニュースは言葉を濁し、SNSだけが先に異常を嗅ぎ取る。通勤列車は一部で止まり、会社は出勤判断を保留し、学校は休校連絡を遅らせる。人々は国家の死を、自分の予定表の乱れとして最初に経験する。
それがこの国にはふさわしい、と四谷は思った。
国家の最期にふさわしい壮麗な悲劇など、ここには要らない。
必要なのは、冷たい手順だけだ。
車は都内へ向かった。夜の終わりの道路は空いている。四谷はハンドルを握ったまま、静かに口の中で作戦名を反芻した。
「三矢作戦」
古風で、やや大義名分めいていて、古国らしい名前だった。嫌いではない。むしろ利用価値がある。古風な名前は老人たちを安心させ、曖昧な正義を感じさせる。そういう演出は必要だ。必要だが、それは本質ではない。
本質は、誰が権力を最後まで握り続けるかだけだ。
車窓の向こうで、街が少しずつ明るくなっていく。
その朝の色を見ながら、四谷賢一は、まだ誰のものでもない未来をすでに自分の所有物のように感じていた。
国家が死ぬ前の空気というものは、案外、こういうふうに澄んでいる。
それは終末の色ではなかった。
簒奪の色だった。




