憤怒の行政
四谷賢一の憤怒は、叫びとしてはほとんど現れなかった。
激情がないわけではない。むしろ人並み外れて濃い。日本社会への軽蔑、資本への憎悪、自己責任論者への殺意、老いた世代への報復心、若者の浅薄さへの失望。そういうものは彼の内部で、常に高温で燃えている。だがそれがそのまま怒号として外へ噴き出ることは稀だった。彼の怒りは、もっと冷たい形で現実へ下りてくる。行政命令。配分表。人事異動。編制改編。法文の一行。夜中の拘束車両。つまり制度である。
第二ソ連成立後、最初の三か月で、人々は初めてそのことを知った。
この国家は、怒っている。
しかも、その怒りを手続として実装する。
最初に変わったのは、官庁の言葉だった。
福岡の連邦政府から各共和国へ降りる通達には、以前の日本や韓国や中華民国の官僚文書にはなかった種類の語が増えた。
『寄生的所有』
『歴史的遅滞要因』
『非生産的中間層』
『反動的消費様式』
『人民生活阻害』
『構造的怠惰』
『旧秩序温存行為』
これらは、思想用語であると同時に、行政の分類語でもあった。分類語になった瞬間、怒りは処理可能になる。国家は、感情を分類へ変えたとき、最も強い。四谷の憤怒は、まずここで行政へ降りた。あらゆる不満が、単なる不快ではなく、排除すべきカテゴリーとして記述され始めたのである。
たとえば住宅政策。
これは表向きには「連邦居住安定化計画」である。だが内部文書では別の言い方がされていた。
反動的居住偏在の是正。
広すぎる家、空き部屋、相続で温存された土地、投機用不動産、私室の多すぎる住宅。そうしたものは、もはや個人の所有の問題ではなく、人民生活を阻害する「偏在」とされた。つまり、金持ちが広い家に住んでいること自体が、政治的犯罪へ変換されたのである。ここに四谷の怒りがよく出ている。貧困を直接救うより先に、豊かさそのものを政治問題へ変える。予定表の国で悠々と暮らしてきた階層が、そのままでは眠れないようにする。それが狙いだった。
教育も同じだった。
四谷は、日本の学校教育を心の底から嫌っていた。
順序。協調。空気。無難。受験。就職。
そういう予定表の再生産機械としての学校を、彼は革命国家の最大の敵の一つと見ていた。
だから第二ソ連成立後、福岡から最初に出た教育通達は、案外あっさりしているように見えて、実際には凶悪だった。
『大学進学率の是正』
『虚業直結学科の根本的転覆』
『軍事教練の導入』
『軍事研究への大量助成金』
言い換えれば、若者を工場と軍事教練へ流し込む。そこには、何もしないで老いた氷河期世代への侮蔑と、潜在的ネオナチに堕しやすいZ世代への怒りが同時に入っていた。考えるだけで終わる奴も、雑な過激さで満足する奴も、どちらも信用しない。国家の側で再教育し、役割を与え、従わなければ労働へ落とす。それが四谷の答えだった。
メディア政策は、もっと露骨に彼の憤怒を反映していた。
彼は、日本のテレビ文化も、論壇も、ワイドショーも、コメンテーターも、嫌悪していた。議論するふり、怒るふり、寄り添うふり、反省するふり。そういうものの積み重ねが、何も変えずに社会を腐らせてきたと彼は考えていた。だから第二ソ連の報道改革は、自由を抑えるというより、「ふり」の余地を潰す方向で行われた。
討論番組は激減した。
代わりに「説明番組」が増えた。
どの層がどれだけ寄生していたか。
どの共和国がどの資源を出し、どの港がどの命令系統に属するか。
労働と防衛がどう連動するか。
それを、嫌になるほど図表で説明する。
気味が悪いほど分かりやすい。
しかも反論の席は最初からない。
これは言論の死ではある。だが同時に、「空虚な討論」の死でもあった。そこが一部の国民に支持された。前の世界では、何でも議論され、誰も責任を取らず、結局何も変わらなかった。いまは議論の余地が減った代わりに、国家の意思だけは見える。息苦しい。だが見える。そういう透明さは、疲れきった社会で時に奇妙な支持を呼ぶ。
軍事部門では、憤怒はもっと単純だった。
四谷は、日本国の「自衛」という語に最初から深い軽蔑を持っていた。敵へ先に撃たせるな。反撃だけに甘んじるな。備えだけして死ぬな。そういう怒りが、第二ソ連軍の教範へ即座に流し込まれた。
連邦軍は旧三国軍の命令系統と編制を一時的に維持したまま、統合作戦で動く構造だったが、その「統合作戦」の中身がすでに旧自衛軍の感覚とは別物になりつつあった。先制的電子戦。敵後方港湾への奇襲打撃。対中・対北のみならず「世界秩序撹乱下の先制確保行動」。つまり、防衛の語が消え始めたのである。教範はまだ旧来の単語を多く残していたが、演習想定はもう違う。守るために撃つのではなく、勝つために先に奪う。その発想が軍へ制度として入るとき、四谷が最初から自衛軍へ求めていたものが、ようやく現実になり始めた。
労働政策では、憤怒は青年へ向けられた。
彼は若者を愛していない。
よく誤解されるが、それは違う。
四谷が欲しているのは、若者の幸福ではない。若者の動員だ。
予定表に従う若者も嫌いだ。
浅薄な差別とネオナチ趣味へ逃げる若者も嫌いだ。
寝そべり、冷笑し、何もせず消費だけして死ぬ若者はもっと嫌いだ。
港湾、倉庫、道路工事、沿岸要塞建設、共同住宅整備、兵站補助、放射線防護訓練。若者はそこへ半ば強制的に入れられる。国家は彼らへ仕事と寝床と配給を与える。だがその代わり、時間と身体と未来の選択権を持っていく。そこに甘い希望はない。ただ、腐った社会で無為に老いるぐらいなら、一度は国家の歯車として使い潰してやる、という種類の怒りがあった。
テロリズムも、彼の憤怒の一部として制度化された。
もちろん国内では「テロ」という語は使わない。
使わないが、実態はそうだった。
連邦人民保安委員会は、旧支配層や反対派への拘束と見せしめだけでは満足しなかった。
夜中の車列。
無記名の脅迫状。
労働区画での不審火。
要人宅周辺の爆破未遂を装った警告。
国外亡命者の家族への執拗な呼び出し。
そういうものが、「国家防衛上の特殊措置」として黙認された。四谷にとってテロリズムは、敵がまだ制度の内側へ隠れている段階で、その隠れ場所ごと空気を汚すための技術だった。正規軍だけでは届かないところへ、恐怖の文法を送る。そのやり方を、国家になったあとも捨てなかった。国家がテロの技法を保持したまま成長するとき、統治は一段深く腐る。四谷は、その腐敗をむしろ必要条件と考えていた。
団塊世代や旧上流層への憎悪も、もちろん制度になった。
年齢だけで粛清したわけではない。そんな雑なことはしない。だが再配分、年金再審査、住宅再配分、医療優先度、公共奉仕義務、講演・論壇からの排除。そういうところで、露骨に旧支配層と高齢上層は狙われた。若い頃に食い尽くし、老いてから道徳を説く連中へ、国家が公然と「順番を下げる」ことを始めたのである。医療の待機列が伸び、年金が再計算され、高級住宅からは追い出され、テレビでは「歴史的食い逃げ世代」といった表現まで半ば公認で流れる。殺さずとも、十分に政治的な報復は可能だと四谷は知っていた。
この憤怒の実装は、人々にどう見えたか。
中下層の多くには、正義に見えた。
旧富裕層には、国家の私怨に見えた。
官僚には、危険だが妙に論理的な再編に見えた。
軍には、ようやく本音を隠さない国家に見えた。
そして若者には、選択肢を奪う国家であると同時に、役割を与える国家にも見えた。
ただ破壊するだけなら、人はまだ怒れる。
だが破壊と同時に役割も配給も秩序も与えられると、人は憎みながら従い始める。
四谷の怒りは、現実世界に実装される過程で、個人的感情を超えていた。
それはもはや「四谷が怒っている」ではない。
国家が怒る。
軍が怒る。
学校が怒る。
テレビが怒る。
全人民が怒る。
つまり、人が朝起きて夜眠るまでに触れる制度の全てが、同じ敵を指し示し始める。
そこでようやく、憤怒は歴史の力になる。
福岡大本営の廊下には、その頃から妙な言い回しが広がっていた。
「統裁者の感情が通達になる」
半分は皮肉だった。
だが半分は事実でもあった。
四谷の中にある報復心、嫌悪、嘲笑、軽蔑、殺意。
それらは演説の中だけではなく、連邦政府の事務として、配給所の窓口や軍の訓練計画や共同住宅の再配置へ落ちていく。
人々はそのことを、理屈ではなく生活の手触りで知っていった。
第二ソ連では、統治とは感情の抑制ではなかった。
感情の制度化だった。
それがどれほど危険かを、誰もが薄々知っていた。
だが危険だと知っていることと、それを止められることは別だ。
止められない危険が、日常へ変わっていく。
そのこと自体が、この国家の最初の勝利だった。




