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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第四章 勃興
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四谷思想

 福岡大本営の夜は、海の匂いより先に、配線の熱でできていた。


 地下の執務室は静かだった。壁の向こうでは、統合参謀本部の当直がまだ動いている。通信記録の打鍵音、遠くの足音、誰かが抑えた咳払い。国家というものは、昼間は演説と旗でできているように見えるが、夜になると配線と疲れた人間の手つきに戻る。四谷賢一は、その夜の姿の方を昔から信じていた。


 机の上には報告書が積まれていた。中国青年層の動揺。港湾統制の進捗。核計画準備局の要求。共同住宅区における配給の欠落。どれも重要だが、今すぐこの瞬間に読まなければならないものではない。彼は一枚も手に取らなかった。ふと、自分がまだ若かった頃のことを思い出していた。思い出す、というより、あの頃から何一つ変わっていないことを、改めて確認していた。


 自衛軍に入った動機を訊かれれば、建前は時々により都合の良い事をいう他には、本音としての答えは当初より一つだった。


 国防ではない。

 災害派遣でもない。

 家族を守りたいからでも、日本を愛していたからでもない。


 そんなものを本気で言う人間は、だいたい何も見ていない。あるいは、自分の見たいものしか見ていない。国防。結構な言葉だ。だが国家とは何か。連絡不備と責任回避と予算折衝の最後に、帳尻合わせとして軍人へ死体と火薬を押しつけてくる厄介な機械だ。災害派遣。結構な仕事だ。だがあれは国家が自分の無能を、自衛軍の規律と人力で埋めさせているだけである。彼は最初からそこに幻想を持たなかった。自衛軍へ入った理由は単純だった。武力がほしかったのだ。もっと正確に言えば、国家の持つ最大の武力装置へ、自分の意志を食い込ませたかった。将来のクーデターのために。最初からそうだった。そこには一片の潔癖もない。国を救うために軍へ入ったのではない。軍を握って国を作り替えるために入ったのである。


 彼の出身は千葉県だった。

 千葉。首都圏の外縁。東京の匂いを吸い込みながら、決して東京そのものではない場所。都心の光が届く。情報も届く。文化も届く。だが、届くばかりで、決める側にはなれない。彼は子供の頃から、その構図が嫌いだった。東京は近い。だが近いだけだ。政治も文化も資本も、全部があそこで決まり、周辺はその重力へ従って回る。首都圏という語の気持ち悪さを、彼はかなり若いうちから知っていた。地方ではない顔をしながら、結局は中心の衛星にすぎない。そういう半端さが嫌いだった。だからこそ彼は、西部方面軍を好んだ。左遷されたという感覚は薄かった。むしろ本物の前線へ来たと思った。


 西部方面軍は、東京の言葉がそのまま通用しない。


 仮想敵としての中国がいた。海があり、島嶼があり、補給線があり、現実に敵性を想定した配置がある。都心の官僚は言葉で中国を処理する。西方では、少なくとも図上では完全に中国を敵として扱う。彼はその差が好きだった。政治家や評論家や大学教授が、中国を市場だの隣人だの責任ある大国だのと、便利な言葉で呼び替えるたびに軽蔑が蓄積した。前線は、そういう言い換えを嫌う。いつ敵になるか。戦争に近い場所ほど、人は正直になる。彼は西方勤務の中で、国家がようやく少しだけ正直になる瞬間を見た気がしていた。


 情報畑もよかった。泥だらけの英雄主義には昔から興味が薄かった。もちろん現場は重要だ。兵站も、砲兵も、歩兵も、全部要る。だが本当に面白いのは、人間がまだ撃っていない段階で、誰がどこへ動くか、気象が敵の判断に与える影響、何に怯え、どこで自分を正義だと思い込みやすいかを読むことだった。情報とは真実を集める仕事ではない。人間が何を真実だと思いたがっているかを読む仕事だ。そこを押さえれば、撃たせずに動かせる。あるいは、撃たせるべき瞬間だけを作れる。日月の会へ食い込み、古国に重用され、裏切り、継承を名乗って簒奪した、その全部に情報畑の感覚が通っている。真正面から走る人間は、真正面から撃たれて死ぬ。彼はそういう死に方を軽蔑していた。


 予定表の国。

 順序を間違えなければ大きくは失敗しない、などと平気で言う大人たち。

 いい大学、いい会社、いい結婚、いい住宅、いい子供。

 その「いい」を定義しているのが結局は資本と老害と官僚制であることに、誰も本気では触れない。

 触れないまま、自己責任という腐った言葉で、予定表から落ちた者を黙って処理する。


 日本社会は全く優しくない。殺人的な厳しさは失ったが、いまはぬるいだけだ。ぬるいくせに、人を静かに殺す。しかも自分が殺しているという意識すら持たない。そこが耐えがたかった。むしろ露骨に殴る方がまだ正直だ。だがこの社会は、親切の顔をして人を潰し、配慮の顔をして使い捨て、自己責任の語で死体を片付ける。ああいう国は、一度本気で壊されなければならない。


 日本文化への敵意も、その延長にある。彼はあらゆる日本の伝統文化を愛さない。茶道も、和歌も、祭も、寺社も、庭園も、どうでもいい。いや、どうでもよくはない。嫌いだ。抹殺しなければならない。あの手のものは、支配階級の審美を、後世が「美しい伝統」と呼び替えて保存しているだけだからだ。静けさ。侘び寂び。繊細さ。余白。知ったことか。世界が武力と資本と工業と革命で動いているときに、よくもそんな湿った美徳へ誇りを感じられるものだと思う。彼はそこに生理的な嫌悪があった。刀より盆栽が好まれる国。砲兵より陶芸が尊ばれる国。そんなものは、玩具になって当然だ。


 だから反資本主義は、彼にとって倫理ではない。資本主義は効率がいい。そこは否定しない。だが効率がいいということは、腐敗していても長持ちするということだ。そこが許せない。市場は、どれほど人間を磨耗させても、なお社会を回してしまう。恋愛も結婚も住宅も教育も老後も、全部を価格へ変換し、値札を付け、払えない者だけを予定外として捨てる。全てのものに値段が付けられ、貨幣の魔力により何もかもが贖われる。大量の人間に賃金という不当な価格設定を行い、それで誰も殺していない顔をする。自己責任論が嫌いなのは、そこだ。あの言葉は資本主義の最も卑怯な衛兵である。努力が足りない、能力が足りない、選択が悪い。そう言っておけば、構造そのものは無罪になる。彼は自己責任論を語る人間を、本気で殺したかった。思想的な比喩ではない。自己責任論を語る人間は、もうそれだけで大量の死へ加担している。しかも自分を善良だと思っている。そういう種類の人間を生かしておく理由は薄い。いや、ないとさえ断言できる。

 殺されないように資本主義に反対することもできたのに、あえて資本主義に賛同した自己責任論者どもは、それが原因で殺されたとしても本望に違いない。彼らの大好きな自己責任で全て説明がつくからだ。


 その種類の報復心は、彼の中ではかなり大きい。


 東洋が西洋へ。

 若い世代が老いた世代へ。

 国家に使い捨てられた者が国家そのものへ。

 歴史の外へ追いやられた者が、歴史を独占していた者へ。


 彼は復讐という語を恥じない。

 恥じる必要があるとも思わない。

 歴史とは、かなりの部分、報復の連鎖が制度へ昇格したものだからだ。

 西洋は世界へ暴力を撒き、東洋へ近代化という名の屈辱を強制した。

 その結果、東洋は自分を西洋の鏡でしか見られなくなった。

 ならば、その鏡ごと叩き割る必要がある。

 史的報復主義とは、要するにそれである。

 謝罪を求めるのでも、平等を願うのでもない。

 上書きする。

 勝者の位置を奪い、その歴史観ごとひっくり返す。


 氷河期世代については、彼は侮蔑していた。

 同情はない。不運だったのは事実だろう。上の世代の放漫と資本の再編の犠牲になったのも、その通りだ。

 だが、それで何をした。

 酒に逃げ、愚痴に逃げ、匿名掲示板に逃げ、家庭へ引きこもり、せいぜいネット右翼か冷笑屋になる程度で、結局何も壊さなかった。

 社会に裏切られたくせに、その社会を本気で焼こうとしない。

 ただ惨めさを内輪で反復し、間抜けに死ぬ。

 あれほど豊かな革命条件を与えられながら、革命の芽にすらなれなかった世代を、彼は軽蔑していた。

 哀れではある。だが哀れと尊敬は別だ。彼は弱者を自動的には評価しない。

 殴られた者が、そのまま殴られ損で終わるなら、それは政治的には価値が薄い。


 そして団塊世代には、もっと直接的な殺意があった。


 あの世代は、食い尽くした。

 戦後の拡大、住宅、教育、企業、政治、社会保障、文化資本、全部を自分たちのものとして食い、しかも若い世代へ道徳を説いた。

 努力しろ。頑張れ。責任を持て。

 その声の背後には、常に、もう自分たちは逃げ切るという薄汚い安心があった。

 彼にとって団塊世代は、単なる年齢集団ではない。

 戦後日本の醜さが最も凝縮した階層だった。

 革命とは本来、ああいう連中をまず吊るすところから始めるべきだったのだ。

 そうすればもう少し、この国はましな死に方をしたかもしれない。


 だがZ世代にも失望していた。


 あいつらはもっと駄目だ。

 苦しい。貧しい。希望がない。そこまではいい。

 だが苦しみの出口として選ぶのが、粗い快楽か、消費の延長としての過激主義か、誰かを晒して一時的に気持ちよくなるだけの模造革命でしかない。

 潜在的ネオナチ。彼はZ世代をそう定義していた。

 人種、性別、国籍、弱者、移民、女、老人。

 目につくものへ雑に殺意を振りまく。

 だが自分が属する資本と国家の構造へは、驚くほど鈍い。

 あれでは駄目だ。

 憎悪はある。だが秩序の設計がない。政治がない。歴史を奪う気概もない。あの程度の浅い言行で世界が変わるなら、とうに変わっている。

 彼はそこに深く失望していた。若いだけでは価値がない。若さとは、正しい敵を選べる時にだけ武器になる。


 そしてレーニン、孫文、マルクス、エンゲルスへの敬意は、本物だった。


 信仰ではない。敬意である。

 彼は彼らを神格化していない。

 失敗も、甘さも、判断の遅れも、全部見る。だが、それでも敬意はある。なぜなら彼らは、世界を批評しただけで終わらなかったからだ。

 理屈を、国家へ変えた。演説を、武装へ変えた。抽象を、行政へ変えた。そこが偉い。


 マルクスとエンゲルスは、世界を読む語彙を作った。レーニンは、その語彙を国家奪取の手順へ接続した。孫文は、実践信仰と愚民観を完成させた。

 失敗もした。甘くもあった。

 だが、少なくとも「やる」という一点で、後世の学者や評論家や左翼ごっこより遥かにましだった。

 彼は彼らを、聖人ではなく有能な先行事例として尊敬していた。

 役に立つ偉人だけが、彼にとっては本当に偉い。


 テロリズムも、手段として当然だった。

善悪の問題ではない。国家の骨格がまだ敵の側にあるとき、中心へ正規戦だけで迫るのは無駄だ。流通、配電、心理、象徴。そこへ傷を入れる。傷が社会を壊す。

 社会の壊れ方が、国家奪取の条件を整える。

 彼にとってテロリズムとは、臆病者の戦術ではない。むしろ国家形成前夜の合理的技術だった。

 もちろん、いつまでもテロに留まるつもりはない。テロは国家になるまでの階段にすぎない。だが階段を嫌悪する人間は、二階に上がれない。

 地球防衛軍を見ていて不快なのは、連中がその階段の上り方を理解しているからだ。

 しかも国家を持たぬまま、こちらの想定より先にそこへ達している。

 だから憎い。同族嫌悪というやつだった。


 彼はしばらく黙っていた。


 部屋の中では暖房が静かに鳴っている。

 机の上の報告書はまだ積まれたままだ。

 外では誰かが敬礼して去ったらしい足音が聞こえた。


 自分は、どこまで来たのか。

 日本を壊し、韓国と台湾を抱え、第二ソ連を作った。

 福岡に政府を置き、大本営を置き、核を欲し、海を抑え、言語まで作り替えようとしている。

 ここまで来てもなお、彼の内部にある最初の動機は変わっていない。

 武力で国家を奪う。

 それだけだった。

 他の全ては、その動機の上へ積み増された理屈にすぎない。


 理屈は増えた。

 思想も増えた。

 敵も味方も増えた。

 だが核心は変わらない。

 自分は最初から、ただ国家を憎み、それを自分の手でより大きく、より強く、より凶悪なものへ作り替えたかっただけなのだ。


 それを悪と呼ぶなら、呼べばいい。

 歴史の大部分は、悪と呼ばれた者が書いている。


 彼はそこで、ようやく報告書の一枚を手に取った。

 中国青年層の思想動向。

 隣国の若者たちが、自分の語彙を雑に誤読しながら、それでも火種に変えつつあるという報告だった。

 四谷はそれを読み、薄く笑った。


「ようやくか」


 それだけ言って、紙を机へ戻した。


 敬意を払うべき者はいる。

 殺すべき者もいる。

 使うべき世代も、捨てるべき世代もある。

 世界はその程度の区分で十分動く。


 彼は椅子から立ち上がり、壁の地図へ目をやった。

 日本列島。朝鮮半島。台湾。中国沿岸。太平洋。

 まだ線は足りない。

 まだ血も足りない。

 まだ世界は十分に壊れていない。


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