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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第四章 勃興
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双十

 十月十日の福岡は、祝祭の顔をしていなかった。


 記念日であることを、誰もが知っていた。中国革命の暦においても、中華民国の政治文化においても、十月十日という日付は、ただの数字ではない。辛亥革命。王朝の破断。革命の始発点。台湾の人間にとってはなおさらそうだったし、四谷賢一の周囲にいる思想屋どもも、その象徴性を嫌になるほど理解していた。だからこそ、この日の会議は派手に飾られなかった。革命を祝う会議ではなく、革命へ国家の名前を与える会議だったからである。名前を決める場は、歓声より沈黙の方が似合う。


 福岡駐屯地の大会議室は、前回までよりも明らかに堅く作られていた。


 会議ロゴはない。

 共同声明用の柔らかい幾何学模様もない。

 壁に掛かるのは、三つの国旗と、まだどこにも属していない白地の布だけだった。


 それは仮の旗であり、同時に、未定であることの可視化でもあった。まだ国はない。あるのは、その空白へ何を描くかをめぐる権力闘争だけだ。四谷はその白布を見て、悪くないと思った。旗は、時に言葉より遅れて来る。だが国号は違う。国号は先に現れ、後から制度と軍と国旗と国民を引きずる。彼はそれをよく知っていた。


 出席者は六月の会議より少なかった。


 数を絞ったのだ。日本側、韓国側、中華民国側、それぞれに軍・官僚・宣伝・法制の中核だけが呼ばれている。新聞向けの写真も撮られない。公式会議でありながら、空気は半分秘密会議だった。国号というものは、本来そうやって決まる。人民投票などで決まる方がむしろ異常なのだ。歴史の名札は、たいてい少人数の人間たちが、密閉された部屋で決める。


 会議の議題は冒頭から明示された。


 第一、三国超国家体制の国号選定原則。

 第二、候補国号の理念的適格性。

 第三、対内宣伝・対外威嚇・歴史継承性の統一。


 神代が読み上げたその文言には、珍しく無駄がなかった。会議室にいた者の多くは、そこで既に嫌な予感を持っていた。国号は普通、地理か民族のどれかから拾われる。だが今回の議題文は、最初からそういう穏当な選び方を否定していた。宣伝と威嚇。つまりこの国号は、内向きの愛着より、外へ向けた効果を優先して決まる。


 最初に発言したのは、台湾側の文官だった。


「確認したい。国号選定原則とは、名称の定義を先に決めるという理解でよろしいか」


「その通りです」と神代が答えた。「候補から選ぶのではない。まず、この国家がどのような名前を名乗るべきで、何を名乗ってはならないかを定義する」


 韓国側の准将が鼻で笑った。


「まるで兵器の要求性能ですね」


 四谷がそこで口を挟んだ。


「国家も兵器です」


 言い方が露骨すぎて、部屋の空気がわずかに冷えた。だが彼は気にしなかった。


「名は愛着のためにあるのではない。動員、服従、威嚇、継承、敵認定、その全部を一度に可能にするための装置です。ならば要求性能から決めるのが当然だ」


 日本側の旧官僚出身者の一人が、いかにも嫌そうな顔をした。


「要求性能、ですか。ずいぶん工学的だ」


「国家へ感傷を持ち込む方がよほど危険でしょう」


 四谷は机上の資料を指で叩いた。


「よろしい。では定義から入ります」


 彼は立たなかった。座ったまま喋った。その方が、かえって押しつけがましかった。


「第一に、この国家は日本、韓国、中華民国のどれか一国の延長に見えてはならない。したがって、日本帝国、大韓何々、中華何々、その種の名は全部失格です。民族国家の延長に見えるからだ」


 韓国側の民族主義者が、すぐ顔をしかめる。台湾側でも数人が微妙に身じろぎした。自国の名を冠せないという条件は、表向きには平等でも、内実としては三者の自尊心を同時に切り刻む。四谷はそこを最初にやった。各国の誇りを少しずつ傷つけることでしか、超国家の議論は前へ進まないと分かっていた。


「第二に、この国家は地理名だけで閉じてはならない。東アジア連邦、太平洋連合、東洋共和国、その種の名も弱い。地理は範囲を示すが、歴史の主張にならない」


 ここで台湾側の高官が口を挟んだ。


「東洋共和国は、必ずしも悪くないのでは。少なくとも外部には理解しやすい」


「理解しやすい」


 四谷はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。笑ったというより、嘲笑へ近かった。


「その通りです。理解しやすすぎる。既存の左派にも右派にも、すぐ意味を回収される。そんな名前は駄目です。この国家は、見た瞬間に、敵が眉をひそめ、味方が意味を訊き返し、世界が反応を保留できないような名前でなければならない」


 神代が横から補足するように言った。


「要するに、覚えやすく、挑発的で、しかも既存の分類へ収まりきらないことが必要です」


 そこまでは、まだ宣伝論として聞けた。問題はその次だった。


「第三に」


 四谷の声が、少しだけ低くなった。


「この国家は、単なる防衛共同体ではない。世界革命の正統を再奪取する器でなければならない」


 その言い方に、会議室の何人かが露骨に顔を上げた。


 また始まった。そういう顔だった。だが四谷は構わず続けた。


「我々がやっているのは、危機対応ではない。歴史への介入だ。レーニン=孫文主義と史的報復主義を国家原理へ格上げする以上、その国号もまた、失われた革命の系譜を奪い返すものでなければならない。既存の社会主義国家が空洞化し、西洋起源の革命語彙が市場と官僚制へ去勢された時代に、その正統を東洋から再起動する。その傲慢さが必要です」


 傲慢さ、という語を彼はためらわずに使った。そこが四谷らしかった。普通の指導者は、自分たちの計画を正義とか必然とか歴史的要請と呼ぶ。四谷は時々、それが傲慢であることを隠さない。隠さない方が、かえって人を黙らせることがある。少なくともこの部屋ではそうだった。


 議題はそこでいったん区切られ、候補名の検討へ移った。


 事務方が出した案は、案の定つまらなかった。


 東アジア連邦。

 東方共同体。

 東洋社会共和国連合。

 アジア人民共同連邦。

 太平洋革命同盟。


 どれも悪くない。どれも弱い。

 弱いとは、反対されにくいということでもある。

 だが四谷は、反対されにくい名前など最初から要らないと思っていた。


 韓国側の代表は「東アジア連邦」を支持した。理由は明快だった。地理的で、実務的で、民族的偏りが薄い。韓国国内でも飲ませやすい。台湾側の文官は「東洋社会共和国連合」を推した。社会主義の色を入れつつ、露骨な国号の継承を避けられるからだ。日本側の一部は「東方共同体」がよいとした。曖昧で、柔らかく、後から何とでも解釈できる。


 つまり、みな飲み込みやすい名前を欲していた。


 そこで四谷が、ようやく本命を出した。


「どれも駄目だ」


 彼は資料を閉じた。


「その種の名では、この国家の本質が隠れる」


 会議室の空気が止まる。

 神代は横目で四谷を見た。

 彼が何を言うか知っていたからだ。

 だが知っていても、実際に公の議題で口にされる瞬間は、やはり少しだけ異様だった。


「では、四谷議長の案を」と神代が促した。


 四谷は一拍置いた。


「第二ソビエト社会主義共和国連邦」


 何人かは、すぐには反応できなかった。

 聞き間違いではないかと思った者もいた。

 台湾側の一人は露骨に眉を上げ、韓国側の准将は机へ置いた指を止め、日本側の官僚は、ほとんど嫌悪に近い顔をした。


 沈黙が、最初に意味になった。


 それから韓国側の代表が、低く言った。


「挑発的すぎる」


 台湾側の文官は、もっと冷たかった。


「中華民国にそれを飲めと?」


 日本側の元外交官は、半ば呆れたように言った。


「ソ連は失敗したでしょう」


 それに対し、四谷はほとんど待っていたかのように答えた。


「だから第二なんです」


 彼の声には熱がなかった。熱がないからこそ、なお嫌だった。


「旧ソ連の継承国家を自称するのか」と台湾側が問う。


「継承ではない」


 四谷は言った。


「奪還です」


「何を」


「世界革命の正統性を」


 その一言で、会議室の空気は完全に別のものになった。


 あまりに馬鹿げている。

 あまりに大きすぎる。

 あまりに下品で、あまりに危険だ。

 だが同時に、それがこの男にとってだけは恐ろしく自然な結論でもあることを、皆どこかで理解していた。


 四谷にとって、日本・韓国・台湾は目的ではない。器だ。

 民族国家のままでは小さい。

 ただの東アジア連邦でも小さい。

 必要なのは、ソ連がかつて独占した「世界革命の国家装置」という看板を、東洋から横取りすることだった。

 レーニン。孫文。マルクス。歴史的大審判。

 それら全部を一つの軍事国家へ無理やり押し込む。

 そう考えれば、「第二ソ連」は狂っているが、四谷にとっては一貫していた。


「論外です」


 最初に拒絶したのは、台湾側だった。


「ソ連という語は、中華民国にとって歴史的敵意と直結する。しかもわれわれは孫文の正統を担っている。なぜ東アジアの新国家がロシア革命の亡霊を名乗らねばならない」


「亡霊ではない」と四谷は切り返す。「奪われた語彙の再軍事化です。あなた方は孫文を国父としている。ならばなおさら分かるはずだ。革命の言葉は、継承するだけでは死ぬ。勝者から奪い返さねばならない。それに、あなたは歴史を知らないのか。軍閥時代に国民党が全国を統一できたのは、孫文がボリシェヴィキのやり方を真似たからだ。ソ連と中華民国は当初、密接な関係にあった」


 韓国側も不快を隠さなかった。


「韓国の若者は既存社会の破壊を望んだが、別に社会主義を望んだわけではない」


「真に望んでいなければ、彼らはブルジョワへの暴行と虐殺を非難するだろう。だが大多数は逆です」


 四谷は少しも譲らない。


「これは未来の先取りです。ソ連は失敗した。だからこそ、その失敗を踏み台にした次の器が必要になる。第一が崩れたから第二が現れる。それだけのことだ。もし我々が倒れても、第三、第四のソ連が必ず現れる」


 日本側の外交官が、珍しく感情を露わにした。


「世界が敵になりますよ」


「大変結構」


 四谷は即答した。


「国号とは、本来そういうものだ。世界に安心されるための名前など、最初から要らない」


 神代は、ここで初めて四谷の側へ立つ形で発言した。


「宣伝面から見れば、優れています」


 部屋の何人かが露骨に嫌そうな顔をしたが、神代は気にしなかった。


「挑発的で、覚えやすく、無視できない。支持者には歴史の再起動として響き、敵には最悪の再来として響く。この混迷の時代に、これ以上分かりやすい名前は少ない」


 韓国側の准将が吐き捨てるように言った。


「宣伝が先で国家が後か」


「国家はだいたいそうでしょう」と神代は冷たく返した。「少なくとも、最初は」


 議論は長引いた。


 台湾側は孫文の十月十日を持ち出し、この日にそんな名前を議論すること自体が中華民国の歴史への侮辱だと主張した。韓国側は国内世論への悪影響を問題にした。日本側の一部は、露骨な世界革命国家の自称は外交上の自殺に近いと懸念した。


 だが、誰も完全には切り捨てきれなかった。


 それが最大の問題だった。


 東アジア連邦。

 東洋共同体。

 そういう無難な名前なら、反対する理由も賛成する理由も、だいたい同じ程度にある。

 だが第二ソ連は違う。

 不快である。

 危険である。

 しかし一度聞いたら忘れにくい。

 しかも、いま進んでいる三国の再編と社会主義化と軍事統合の流れを、もっとも露悪的に言い表す名でもある。


 会議室にいた者たちは、そのことに気づいてしまった。

 気づいた以上、もう「論外」とだけは言えなくなる。


 最終的に、この日の会議で国号は正式決定されなかった。


 そこまで一気には進まなかった。

 だが、それで充分だった。


 議長総括として残された文言は、短く、しかし重かった。


 「将来の超国家体制の国号は、単なる地理的連合名ではなく、東洋からの革命的正統奪還を表象し、かつ既存国際秩序に対して明確な政治的挑発性を持つものとする。」


 誰もそこへ「第二ソ連」と書かなかった。

 だが誰もが、その定義が何を指しているかを知っていた。


 会議が終わったあと、四谷は窓際に立っていた。

 十月の福岡の空は高く、祝日めいた青さがどこか白々しかった。

 台湾側の一行は明らかに不機嫌で、韓国側も沈黙していた。

 神代だけが、少しだけ面白そうな顔をしていた。


「嫌われましたね」


 神代が言う。


「結構」


 四谷は外を見たまま答えた。


「名前とは、最初に嫌われるほどよい」


「採用されますか」


「されるようにする」


 それだけだった。


 彼は最初から、会議で合意を得るつもりなど半分しか持っていなかった。

 本当に必要なのは、国号の定義を先に歪めることだった。

 定義さえ取れば、あとから候補は自然に狭まる。

 民族国家ではだめ。

 地理名だけでもだめ。

 穏当でもだめ。

 挑発性が要る。

 革命の正統奪還を名乗らねばならない。


 その条件を全部満たす名前は、もはや多くない。


 会議室の白い布は、その日も結局、何も描かれないまま残された。

 だが空白は、もはや無垢ではなかった。

 そこには既に、誰もまだ正式に認めていないはずの国号の影が、うっすらと乗っていた。


 十月十日の福岡は、国を作った日ではない。

 もっと悪い日だった。

 まだ生まれていない国家が、自分の名前の輪郭だけ先に手に入れた日である。


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