赤い言葉の再武装
四谷賢一がレーニン=孫文主義を前面へ押し出し始めたとき、多くの人間は、ようやくこの男の本性が見えたと思った。
それは半分だけ正しい。
見えたのは本性というより、本性が必要とする看板だった。四谷は最初から、ただの民族主義者ではなかった。世界征服を夢見る誇大妄想狂であり、軍を国家の骨と見なし、東洋による西洋への歴史的報復を信じていたが、それだけなら古今東西にいくらでもいる狂った軍人の一種でしかない。厄介だったのは、彼がそこへ社会主義の暴力的側面を便利に使う発想をも保持していたことだった。
民族だけでは足りない。
民族は熱を生むが、管理には向かない。
軍国主義だけでも足りない。
軍国主義は動員を可能にするが、社会全体の再編には弱い。
反米・反中・反旧秩序だけでも足りない。
それは敵意を与えるが、敵を倒したあとに残る制度の言葉にならない。
必要なのは、工場も港も学校も家族も労働も、全部まとめて一つの歴史過程へ押し込める言語だった。その意味で、社会主義は便利だった。四谷にとって、それが正義だからではない。便利だからである。国家が人間の生活全体へ入り込むための語彙として、これほど出来のいいものは少ない。賃金、配給、住宅、教育、医療、労働、青年、婦人、兵士、技術者、農民。全部に影響を与える事ができる。しかも資本家や旧支配層を敵として描きやすい。四谷はそこに目を付けた。
彼が最初に変えたのは、演説の名詞だった。
それまで彼は、秩序、歴史、民族、東洋、復讐、大審判、そういう語を好んで使っていた。六月会議の後から、その隣へ別の語が滑り込み始める。
労働。生産。配分。搾取。人民。歴史的使命。反動。寄生。統制。共同。
最初は誰も本気にしなかった。しかし七月初め、福岡での内部講話で、彼は珍しく長く話した。
「国家を守るだけでは不十分だ」
彼はそう言った。
「国家とは何か。国旗か。国号か。領土か。違う。国家とは、生産と暴力の配分を誰が決めるか、その権利の総体だ。だから我々が東アジアを再編するというのは、単に領土をつなぐことではない。生産と暴力と教育と労働を、一つの歴史方向へ統一することだ。これに適したイデオロギーは、社会主義以外には現時点では存在しない」
部屋にいた将校の多くは、露骨に嫌そうな顔をした。
彼らは四谷を支持していたが、別にマルクス主義者ではない。多くはただの軍人であり、国家主義者であり、あるいは出世と混乱のどちらかに賭けて四谷へ付いた人間だった。社会主義という語には、なお旧左翼への軽蔑や、ソ連崩壊後の冷笑がまとわりついていた。そこへ四谷は平然と踏み込んだ。
「誤解するな」
彼は続けた。
「私は既存左翼のような、議会で喚き、資本へ飼われた社会主義を言っているのではない。革命後の行政能力を持たず、理念だけを叫んで資本主義を延命させてきた敗残の疑似左翼ではない。我々の社会主義は軍事的であり、生産的であり、文明裁断的なものだ。レーニン=孫文主義の国家的完成としての社会主義だ」
この言い方が効いた。
単なる左転換ではない。
既存左翼への侮蔑を含んだまま、自分だけが本物の社会主義であると宣言する。
右派も左派も同時に蹴飛ばしながら、その上に立つ。
四谷は、その種の位置取りに異様に長けていた。彼はいつも、自分より先に存在した思想を、敬意ではなく分解の対象として扱う。マルクスもレーニンも孫文も、彼にとっては教祖ではない。使える部品だった。
だが、思想の言い換えだけでは社会は動かない。
彼はすぐに制度へ手を入れた。
まず日本で、「東アジア生産再配置委員会」が設けられた。名目は南半球戦争と海上秩序の崩壊に対応するための危機管理機関である。だが、実態は財界への監督機関だった。造船、鉄鋼、半導体材料、精製、通信、重電、港湾、物流。重要産業と認定された分野は、利益より先に国家計画へ従属させられる。役員は呼び出され、生産計画を提出させられ、設備更新は許可制になり、重要技術者の転職には制限がかかった。国有化とはまだ言わない。だが私企業が自分の意志で動いているとは誰も思えなくなった。
次に、韓国で「労兵青年動員庁」が創設された。
名前からして露骨だった。労働者、兵士、青年。維新軍政府の若手将校の一部はその響きに酔ったが、財界は一瞬で顔色を変えた。就職と受験の地獄から若者を引き剥がし、訓練・工場・準軍事奉仕へ再編する。その構想自体は、社会不安の管理としては合理的だった。だが同時にそれは、財界が長く利用してきた「競争する若者の群れ」を国家が横取りすることでもあった。そして、若者たちは結局徴兵から解放されることはなかったのだ。
台湾では、「技術・海運共同奉仕法」の準備が始まった。技術者、港湾管理者、船員、電力技師、暗号通信要員。そうした人材は、市場の私有物ではなく、国家生存の共有資産であると定義された。改新政府はそれを国家安全保障の延長だと説明したが、実際には社会主義的な人材統制の第一歩だった。
三国はそれぞれ別の法文を用いた。だが論理は共通していた。
重要なものは市場へ任せない。
人材は個人の所有物ではない。
国家生存に必要な生産は、私益より上位に置かれる。
そして、その国家とは単独国家ではなく、三国を一体として扱う方向へ進みつつある。
ここで初めて、抵抗が本格化した。
日本の財界は、最初は沈黙で抵抗した。計画の遅延、数字のごまかし、設備不調の言い訳、部品不足の誇張、役員会での保留、地方工場の隠れた閉鎖。官僚たちもそれに乗った。共同備蓄の試算は遅れ、生産再配置の会議は延び、法解釈は曖昧になり、行政手続は必要以上に複雑化した。国家が前へ進もうとするとき、旧秩序はまず処理速度を落とす。
韓国ではもっと荒っぽかった。民族主義的な将校の一部が、社会主義的再編に露骨な不快感を示し始めたのである。日本との接近だけでも胃に重いのに、その上さらに「人民」「労働」「共同生産」だのという語が軍政の公式文書へ入り始める。これは韓国革命ではなく、四谷の私的思想の輸入ではないか。そういう不満が、軍内部と市民の双方に広がった。
台湾では、旧官僚層と財界と保守的な知識人が、静かに連携を始めた。共通の敵は、日本との統合それ自体ではない。四谷流の社会主義的再編だった。港も工場も技術者も国家のものだと言い出した瞬間、彼らは理解した。これは単なる安全保障再編では終わらない。社会の所有関係そのものが書き換えられる。
抵抗はやがて、七月末に一つの事件として噴き出した。
福岡で行われるはずだった第二回の三国産業統制会議の直前、日本の重工業系財界人、韓国の保守派将校、台湾の旧官僚ネットワーク、その三者のあいだに連絡があったことを、情報部が掴んだ。彼らはまだクーデターを企てていたわけではない。そこまでの胆力はない。だが共同声明に反対し、社会主義的な経済再編を骨抜きにし、三国連合構想を安全保障協定の範囲へ押し戻すための共同戦線を作ろうとしていた。
四谷は報告を受けると、少しも驚かなかった。
「遅い」
彼はそう言った。
「思ったより遅かったぐらいだ」
神代が問うた。
「摘発しますか」
「摘発では足りない」
その一言で、部屋の温度が変わった。
「この段階の抵抗は、個人の犯罪ではない。歴史的遅滞そのものだ。歴史の歩みに反対する野郎どもだ。処理するなら、個々の容疑ではなく、階級と系統ごと処理しなければ意味がない」
それが、大量テロルの始まりだった。
最初の夜、東京、ソウル、台北、釜山、高雄、横浜、仁川、名古屋。各地で同時に拘束が始まった。対象は極めて広かった。重工業系企業の役員、物流企業の幹部、反対派将校、旧保守政党の残党、旧官僚ネットワークの中核、論壇の有名人、宗教団体の資金担当者、大学の経済学者、地下新聞の編集者。ひとつひとつには理由があった。だがその全体を見ると、理由は一つしかなかった。新しい国家形成にとって邪魔だから、である。
逮捕令状は後から整えられた。
罪状も多様だった。国家非常時における生産妨害。外患誘致未遂。共同防衛体制に対する破壊工作。生存権侵害。戦略物資隠匿。敵性宣伝。反動的結社。外国のスパイ。資本家。吸血鬼。寄生虫。どれも単体では粗い。だが数が揃うと、それは一つの新しい法秩序へ見え始める。テロルとは、暴力そのものではなく、暴力が制度の顔を取り始めた瞬間にこそ本領を発揮する。
日本では、まず財界が折られた。
九州北部の工業地帯で、ある大手重工の会長が、深夜に家から連れ出された。翌日、同社の主要工場には軍人が入った。さらに二日後、全国放送で「国家的危機のさなか私益のために生産を妨害した寄生的資本家層」の摘発が始まったと発表された。会社名は出ない。だが誰もが分かった。株価は崩れた。役員たちは競って忠誠を表明し、生産目標の前倒し達成を誓った。市場は恐怖に震えたが、工場は逆に静かになった。経営判断の自由が消えた代わりに、命令だけは明確になったからである。
韓国では、もっと血が見えた。
民族主義的な若手将校の一群が、秘密裏に維新軍政府へ圧力をかけようとしていたことが暴かれると、四谷派に近い軍法会議はそれを単なる反乱未遂ではなく、「東アジア人民革命への反逆」と定義した。そこが重要だった。韓国革命でも、韓国国家への反逆でもない。東アジア人民革命。この新しい言葉が、ここで初めて使われたのである。
判決は速かった。公開は限定的だったが、噂は広く流された。銃殺。禁錮。労働大隊送り。階級剥奪。家族の公職追放。大学では連座を恐れて教員たちが黙り込み、軍では「日本へ国を売るな」と言っていた中堅将校たちが急に口数を減らした。テロルは、全員を殺す必要はない。見せしめとして必要な人数だけを確実に潰せば、残りは勝手に自分を矯正する。重要なのは、破滅させる人物そのものの選定ではなく数だった。
台湾では、公開処刑よりも消失が多用された。
旧官僚層や港湾財界の中核人物が、何人かまとめて姿を消したのである。公式には「国家安全上の理由による保護拘束」とされた。だが数週間後、そのうち数名がやつれた顔で国営放送へ現れ、「技術と港湾を私益のために囲い込み、東アジア共同防衛を妨害した」と自白した。自白の文言は、台湾政府のものではなかった。明らかに四谷側の文章だった。人民、歴史、共同、搾取、反動。その語彙が台湾の官製放送から流れたとき、多くの人間は嫌悪と同時に、ああ、もう相当深いところまで来ているのだ、と理解した。
大規模な恐怖は、一夜にして社会を変える。
新聞は急に静かになった。学者は言葉を選び始めた。企業は生産目標を喜々として受け入れるふりをした。官僚は慎重論を口にしなくなった。将校は民族主義の演説より共同防空計画の会議を優先した。
そして四谷は、その沈黙の上へ社会主義の言葉をさらに流し込んだ。
八月、彼は「東アジア労働と防衛のための共同宣言」を発表した。
そこでは、三国の労働者、兵士、技術者、青年が、「寄生的資本と反動的官僚機構と旧民族的偏見」を乗り越え、一つの歴史的共同体の担い手となるべきだと宣言された。ここで初めて、彼は民族より階級を、国家より歴史過程を、あからさまに上位へ置いた。もちろん本心からの平等主義ではない。彼は人民を愛していない。人民という語が便利だから使っているだけだ。だが便利な語は、しばしば本気の思想より遠くへ届く。
反対はなお残った。残るには残った。だが、それはもう政治勢力ではなかった。
それは囁きになり、陰口になり、家庭内の不満になり、夜中のチャットログになり、どこかの倉庫で小声で交わされる悪口になった。国家形成の初期において、抵抗をその段階まで削れば、ひとまず勝ちである。公然たる反対が地下へ沈んだということは、地上の制度がもう一段階進めるということでもある。
こうして四谷は、社会主義を前面に出す工程を終えた。
それは理論闘争ではなかった。
まず危機を示し、
次に生産と配分の統制を始め、
その次に旧支配層を「寄生虫」と名付け、
最後に大量テロルで沈黙を固定する。
順番としては単純だった。
単純であることが、かえって恐ろしかった。
社会主義、いやレーニン=孫文主義は、国民に選ばれたのではない。
大量の恐怖によって、他の選択肢が事実上消されたあとで、ようやく唯一の言語として社会の上へ置かれたのである。




